第六話「青い月」
手術前、ジニアは美術館に足を運んだ。そこで、「美しい姿」だとされている、人間のあるべき姿をした女性の石膏像や、乾かすと金属に変わる粘土で作った銅像、透明な樹脂を一定の形に固めて着色した彫刻等を目にした。
絵画の部屋に足を進めると、「企画展」と書かれたポスターが目に入った。赤く焼けている夜空の中に、青い月が燈っている絵だった。
窓口で買ったチケットを改めると、「企画展示場入場券」も付いている。ポスターの絵に吸い寄せられるように、窓口の係員にチケットを差し出していた。
幾つかの風景画を眺めて行くうちに、さっきのポスターで観た絵に辿り着いた。
見上げるほど大きな絵だ。壁の一角を、天井から床まで使っているキャンバスに、赤く焼ける星空と、岩肌のような地面、それから光だけが見える夜景が描きこまれ、天空には、一際大きい青い月が浮かんでいる。
その月は大気を纏っているらしく、白い雲が存在した。
余りの迫力に、ジニアは口を閉ざして、巨大な青い月に魅入った。
「すごい」と、感想を呟こうとも思ったが、何故か声が出ない。
視力が急に鈍ったように、目の焦点を合わせられなくなって行く。
「アニタ・フェイボックの絵です」と、絵の傍らの椅子に座っていた、学芸員と思われる女性が声をかけてくれた。
ジニアはようやく絵から目をそらし、息を吸う事が出来た。
心臓が早鐘を打っている。
今にも吸い込まれそうと言うのは、こう言う事を言うのか、と、ジニアは納得した。
「すごい絵ですね。これは、本物の景色なんですか?」と、小さな声で学芸員に聞くと、「いいえ。アニタは、幻想美術画家として有名な人物です。地上でも、コンクールで賞を取ったりしていらっしゃる方です。この絵も、地上で賞を取ったものの一つですよ?」と教えてくれた。
「へぇ」と、気の抜けた声を返すと、学芸員は自分の仕事を終えたと言う風に、椅子に戻った。
帰り際。ジニアはミュージアムショップで、今回の企画展の画集を買い、数枚のチラシを手に入れた。アニタの絵を飾る企画展は、この美術館でも年に一回は開催されているらしい。
寮に戻り、ミュージアムショップの紙袋から、画集を取り出す。
開いてみると、ページの左側に、企画展で飾られた絵が印刷され、右側に、参加した画家達のポートレートと、簡単な人物紹介がついていた。
アニタの絵は、探さなくても目立った。
赤く焼けた夜空に、白い雲の渦を纏った青い月。その周りに燈る、降り注いできそうな夜空の星々と、暗い地上を埋める夜景の星。
これが、地上の人間が思い描く「幻想」なのか。
じっくり絵を見つめてから、アニタのポートレートに目を移した。
敢えて褪せた色で印刷されているポートレートは、彼女の髪と瞳の色の深さを想像させた。
手元に筆を持ち、緊張しているのか、少し怒ったような無表情をしている。輪郭は比較的丸く、肩の辺りで切りそろえられている髪の毛は、軽くカールがかかっていた。
美人と言うより、どちらかと言うと可愛らしい。だが、こちらを睨んでいるような表情は、その可愛らしさを否定しようとしている気がした。顔を緊張させていても、その目鼻立ちが整っている事は隠しようがない。
「アニタ・フェイボック」と書かれた紹介文の生年月日を見ると、今年で二十七歳らしい。
俺より一年年上なのか。地上の人間って言うのは、幼く見えるものなのかな。まぁ、普段から労働なんてしないからか。
ジニアはそこまで考えて、アニタが労働として絵を描いてるわけではない事に気付いた。
宇宙プラントで絵を描いている者と言うと、企業に絵を依頼された「イラストレータ」が多い。彼等は仕事のためにデジタル機器を操るが、古典的な画材は使わない。
画集に添えられた言葉によると、人間が「感覚」を通して描き出す自由絵画は、地上で再び注目を集めている。
人間の絵の特徴である、「斑」や「霊感」を持った絵は、それを学習させない限り、人工知能では再現が難しい。
地上では、「古典画材で絵を描く技法」が伝えられており、現代ではアニタのような偉才を生み出すまでになった。
ジニアは画集をつくづくと眺める。
豊富な有機物の食事と、労働に従事する必要が無い、たっぷりの時間は、地上の人間を堕落させるものではなかったようだ。
ある時、ジニアは「ラスタが、地上の男に見初められたらしい」と言う噂話を聞いた。
ラスタは、プラントで作った貨物を地上に送り届けるための、内宇宙行きの船の搭乗員をしていた。
ジニアが冷凍車を走らせて、有機作物を届けている発着場は、「外宇宙行き」の便なので、ラスタの近況は知らなかった。
好奇心を出して話をよく聞くと、「しばらくラスタは気分が悪そうにしてたんだ」と言う話題も出てきた。
「理由は良く分からないけど、疲れてるのかって聞いても、『大丈夫。安心して。何でもない』って、繰り返すだけだった」と言う。
「ふーん。だけど、誰かに見初められたって事は、ラスタは地上に住む事になったのか?」と、ジニアが聞いてみると、同僚が言うに、「そう言う事だと思う。もう、俺も三週間は、ラスタの姿を見てないし……。結婚式の準備でもしてるんじゃないか?」との事だった。
ラスタが、地上の男に……と、頭の中で反芻して、ジニアは肩の力が抜けた。
自分が求婚しても、絶対に応えてもらえなかったであろう人物が、誰かの甘い囁きに耳を貸して、遠く離れた場所に行ってしまった、と思えた。
それから、開き直ったように、「しょうがないよな、今の俺は化け物だもん」と、鏡に映った自分を思い出して自嘲する。
外科医とのカウンセリングは、三回目が丁度終わった所だった。
俺も、この化け物の形を「綺麗」に整えたら、地上にだって行ける。結婚したラスタから、赤ん坊を見せてもらう事だってできる。何時か、マッシュの別荘に遊びに行って、本物の「果実とステーキ」を食べるんだ。
俺からも、二人に何かプレゼントをしなきゃ。スペースコロニーで手に入る、一番喜ばれる贈り物って……カカオか。一級品のカカオの粉の瓶詰を用意しよう。
そう心に念じて、ジニアは手術の日を待った。
マッシュのように、同僚には挨拶をせずに手術を受ける者もいるが、ジニアは帰って来てからも、暫くは宇宙プラントで働く事を考えていた。そのため、同僚達にも入院期間を告げ、ちゃんと自分の班のメンバーと、顔見知りに挨拶をした。
「手術が終わっても、またお世話になるので、その時はよろしくお願いします」
改まった言葉でそう述べて、代表である班長と握手をした。
班長と言っても、その人物は顔見知りも顔見知りの、トムズである。
「これでお別れじゃないってのは、嬉しいね」と、トムズは述べた。
それから、トムズの横に居た、メロウが、ジニアの肩をポンと叩く。
「つるっつるになって帰ってこい。お前の顔は、派手過ぎる」
それを聞いて、ジニアは眉を片方上げて目元を笑ませた。
「あんまり見せた覚えはないんだけどな」と言うと、「食事中に、しょっちゅう眺めてたよ」と、メロウは意地悪を返してきた。
最初の手術は、両足の指の、内側から四本目と五本目を融合させ、同じく六本目と七本目を融合するものだった。
革のマスクを外されたジニアは、酸素マスクを口に当てられた。酸素マスクからはみ出した、裂け目の部分は、開かないように布テープで保護された。
裸の上に青い手術着を着て、手術台の上に横たわらせられる。
「手術中も、何回か声を掛けます。なるべく返事をして下さいね」と、看護師に言われた。
目隠しのカーテンの向こうで、足に局部麻酔の注射がされ、手術が始まった。
固定された両足が、生ぬるいお湯に浸かっているような感覚だった。
確かに、自分の足の一部にメスが入れられて、切ったり縫ったりされているのが分かった。
付け根を同じくする指同士が、「五本指の形」に収まるように整えられて行く。
「痛みはありますか?」「大丈夫ですか?」「もうすぐですよ」「呼吸は安定させて」等々と、看護師は細かく声をかけてくれた。
やがて手術は終わったが、病棟に移された頃には、患部は包帯に覆われていて、どんなふうに切ったり縫ったりしたのかは分からなくなっていた。
面白がってそれを見てしまったら、ショックを受けないとも限らないだろう。熱を持っている患部は、恐らく腫れているだろうから。
日を置いてから、尻尾を除去した。それから両手の手術があり、最後に、顔の手術の日になった。
この日が一番「待ちに待った日」であったが、同時に恐ろしさも覚えた。
今まで鏡でも見た事が無い、別人の顔になるであろうと言う事は、予測できたからだ。
俺は、その顔に馴染めるかな?
そんな悩みを覚えながら、初めての全身麻酔を受けて、ジニアは眠りの中に沈んで行った。
手術後の顔は、パンパンに腫れた。鼻はいじらなくて済んだが、皮膚と筋肉の断裂を起こしていた顔の下半分が、顔の上半分にくっついていると言うのは、何とも言えず、気持ち悪い感覚だ。
本来頬を覆うはずの筋肉を縫い合わせ、三ツ口に成っていた皮膚同士が結合するように縫合された。要らない皮膚や、余計な所まであった唇は、綺麗に形成されたようだ。
だが、まだジニアは、その結果を知る事が出来ない。
手術後は、腫れが引いて傷が治癒するまで、痛みを我慢する必要がある。
術後に医師から、「顔の骨を削る手術は行わなかったので、比較的、痛みは少ないはずですよ」と説明されたが、痛いものは痛い。
口を開けられないため、鼻からチューブを通して、胃袋に直接、栄養剤を溶かしたミルクを流し込んでもらった。
筆談で、「このミルクは有機物?」と聞くと、看護師は困ったように、「ええ。由緒正しいホエイパウダーです」と答えた。
恐らく、地上用に作られている畜産物の残り物を使っているのだろう。
結局、此処では残飯にしかありつけないんだな。
そんな風に思っても、溜息さえも吐けなかった。