第二十五話「アー・レリィ」
子供の頃のアニタは、空を見つめるのが好きだった。
夜空は、特に彼女の関心を惹いた。
目が良かったアニタは、雲が風に流れて行く様や、一等星の陰でごく弱い光を放っている細かな星や、何より一番目立つ、月の満ち欠ける様を見上げていた。
ある時から、彼女の中に「青い月」のイメージが浮かぶようになった。
彼女は、そのイメージを繋ぎ止めようと、最初はクレヨンで絵を描いた。
線画ではなく、こってりとしたクレヨン使いで、五歳の子供が描いているとは思えない写実的な「青い月」を描いた。
当時、まだアモンは生まれていなかった。
アリス達は、アニタの「工作」を気に入り、もっと描いてみなさい、もっと作ってみなさいと励ました。
絵を描き続ける間に、アニタは沈黙するようになった。普段から言葉数の少ない大人しい子供であったが、それまで以上に喋らなくなった。
アリスは、そんなアニタを心配していたが、彼女が「言葉を忘れてしまった」と言うわけではないのは、日常の端々で交わしていた会話によって知る事が出来た。
だが、十歳を迎える頃、アニタは時々、「アニタ語」を喋るようになった。
アリス達は、何処かで聞いた異国の言葉を真似しているのだろうと思って居たが、それにしては、「アニタ語」は複雑で、しかし、でたらめと言うわけでもなかった。
「アニタ語」で喋っている彼女と会話を試みているうちに、アリスは少しずつ、その言葉が何と言おうとしているのかが、分かるようになった。
であるが、養女は外部の者の前でも「アニタ語」を口走ったりするので、アリスはその通訳をする傍ら、「聞いた事も無い言葉を喋るのは、恥ずかしい事なのだ」と、アニタに言い含めた。
入念に言い聞かせた結果、アニタはもっと口数が少なくなった。
大種族の言葉での会話も極端に減少した。会話をしようとしても、質問に短く答えたり、相槌を打ったりする程度の言葉しか話さない。
言葉を発しない時間を埋めるように、アニタは絵筆を操るようになった。
やがて、アリスはアニタに、きょうだいが必要だと考えた。年齢の近い者と、他愛無い話をする時間が必要だと。
その発案から、アリスは自分の遺伝子と雄個体の遺伝子を掛け合わせた娘を作った。
巨大な安置カプセルの中に複数の子供が生まれ、互いに生存競争を始めた。つまり、共食いを始めた。その共食いを生き残った、「生命力の強い個体」が、アモンである。
アモンは、まだ意識がぼんやりとしている状態で安置カプセルから取り出され、ある程度の体の大きさになるまで、「育成所」で大切に育てられた。
アリスは度々「育成所」を訪れ、自分がアモンの親である事を説明し、「お前を家族として迎えられる日を待っている」と述べた。
やがて、人間の子供と同じくらいの体の大きさになってから、アモンはフェイボック家に引き取られた。
アモンは、十歳に成っていたアニタと、居間で引き合わせられた。
「お前の姉だ。名前は、アニタ。呼んでごらん、アニタって」と、アリスは子供に話しかけた。
最初にアニタの顔を見たアモンは、目をキラキラと輝かせ、口をパクパクさせた。
その様子を、アリスは微笑まし気に眺め、「アモン。声が出ていないよ?」と、注意した。
「あー、あ、あに、あにた」と、アモンは発音した。「アニタ。とっても可愛い」
「そうだろう? お化粧をしていないのに、これだけ可愛らしい人間の子は、滅多にいないんだよ?」と、アリスは説明した。
アモンは、折り畳んだ腕の先についている鋭い指を、アニタのほうに向けた。服に包まれている肩に、恐る恐ると触れる。
「人間は皮膚が柔らかいだろう? 指先で傷つけてしまわないように、そっと触れるんだ」と、アリス。
そう言われた通りに、アモンはアニタの頬を、指の腹でそっと撫でた。ゼリー菓子の角を触るように。
アニタは、絵を描くうちに、スケッチブックにイメージを描きとめるようになった。
九歳の頃のスケッチブックには、既に「プラネット・アイラ・シックスティーンス」の題名がメモされていた。
アリスは、「何処かで聞いたようなタイトルだ」と思って居たが、それが宇宙コロニーからもたらされた情報の中の、外宇宙に存在する地球型惑星の名前である事は、思いつかなかった。
宇宙開拓時代初期に、地球以外に発見された地球型惑星は、主に「プラネット・テラ」と呼ばれる。
「プラネット・テラ」の後には、発見された順番に番号が記載され、その当時も、地球から移住した入植民が見つけられた「プラネット・テラ」の数は、百を超えていた。
「プラネット・アイラ」と言う呼称は、宇宙開拓時代後期に、「プラネット・テラ」から、更に外側の宇宙を探索した時に見つけられた、地球型惑星の名前であった。
地上では、その存在は伝聞で聞くしかなく、聞いたとしても、大種族達は「手の届かない遥か彼方の惑星」には興味を示さなかった。
勿論、家で養っている「愛玩人間」にその存在を教える者もおらず、もし、その名前を聞いたとしても、それが「水と大気を纏った、生命の存在する星」である事は、推測できなかっただろう。
だが、アニタは、その存在を知っていたのだ。少なくとも五歳の段階から、ぼんやりとしたイメージとして、「第十六アイラ」の存在を知り得ていた。
大地の奥から湧き上がってくる、何かの力を、アニタは感じ取っていた。
それは夏に漂う大地の熱のように、アニタに常に働きかけてきた。
子供の頃はぼんやりとしていたイメージは、年齢を重ねるごとにクリアになって行き、アニタの創作活動の後押しをした。
アニタが三歳の頃から、食事と衣服の面倒を看てくれる、アリスのパートナーがいる。
名を、アガサと言う。
アガサは料理が上手で、家庭的な、人間で言うなら「女性的な個体」だった。
アガサも、アニタを一目見た時から気に入り、「こんな子の家族に成れるなんて、光栄だわ」と、パートナーに告げた。
十歳になる頃、アニタは倉庫で食事を摂りたがるようになった。
最初は、倉庫の中は不衛生だと言って、アニタの願いを退けていたが、アモンと言う娘が出来てから、アリスは「自分達の古くからの文化」を意識し始めた。
アニタが十五歳になる頃には、アニタには倉庫で食事摂らせ、食卓には動物の頭を飾るようになった。
アモンの中の「歪み」は、この頃から発生していたのだろう。
大地の底から働きかけて来る「力」は、アニタの持つ絵筆を使って、キャンバスの中に「術」を仕込んだ。
アニタの脳内に浮かぶ「第十六アイラ」への跳躍を可能にする術だ。
絵の具を塗り付ける度に、力は練られ、蓄積していく。
その「力」は、アニタに独自の言語を教えた。ずっと彼方の時代に、地球の、ある地域で使われていた言語だ。
アニタは、頭の中に浮かぶその言語と、心の中で会話をした。その間は、通常の会話は出来ず、沈黙するしかなかった。
頭の中の言語と喋っている時に、外側から話しかけられると、咄嗟に頭に浮かぶ言語で話してしまい、アリス達を混乱させてしまった。
アリスは、その言語を「アニタ語」と揶揄したが、霊感者としての特徴の一端として受け入れた。
干し草の上で眠る時、アニタは何時も「紺色の宇宙に浮かんでいる水を伴った月」を見ていた。
時に遠く、時に近く。
ずっと昔に存在した、「夜景を伴う銀色の月」や、「大地の一面に夜景を輝かせている、水を纏った月」も、何度も何度も、完全に眠る前の夢の中に現れた。
まるで、何かが、この星で起こった過去の事件を教えようとしているように。
星から沸き立つ「力」は、アニタに創作意欲を促し、頭の中に浮かぶ言葉は、彼女に残された時間が、あまりに短いと告げるように、アニタを急がせた。
大種族の新しい世代が生まれてから、何時、誰が、彼女達「霊感者」を捕食するようになるかは、アニタに呼び掛けてくる何かにとっても、分からない事だったからだろう。
アニタは、短い生命を燃やし尽くすように、絵筆を操った。
そして、百を超える「月」を描き出し、最後の月を描き上げた時、彼女の命は唐突に奪われた。
アニタに呼び掛けていた何かにとっては、その現象も予定のうちだったのだ。
アニタは血の贄として術の一部になり、それまで不完全だった「跳躍」の術式を完成させた。
アニタの意識は、術式の一部として機能している。
呼びかける者を見極め、それを願う者に「跳躍」の力を与える。
術の条件として、アニタの絵を見た事があり、その時に共鳴を得た事と言う枷はあるが、「第十六アイラ」への逃亡を願う者達に、それを可能にさせた。
アニタの霊体は、常に第十六アイラの中を漂っていた。
雨が少しだけ降っている、日の射す時に、その姿は空の高みを飛ぶ、透明な鳥の姿として目視できた。
第十六アイラの住人は、その鳥の姿を持つ霊体を「私達の淑女」と呼ぶ。
アー・レリィが姿を現す時、それを目視した者達は彼女の歌う、古の言葉を聞いた。
だからこそ、アー・レリィが招いた「跳躍者」を好意的に受け入れ、新しい惑星で跳躍者達が生活していくために協力しているのだ。
目で見て、言葉を知ることの出来る「女神」として、アー・レリィは崇拝を集めている。
少し金を帯びたような光が、空の高みを泳いで行く。
雲の隙間にその姿を見止め、ジニアは息を呑んだ。耳に、歌う風のような声が聞こえてくる。
「イムナ。あれは……」と、ジニアは天を指さす。
「あれかい? そうだな……僕達を導いている、女神様さ」と、イムナは気取って述べた。
ジニアは、天空を優雅に飛翔するアー・レリィを見つめて、その姿にアニタの面影を重ねた。
イムナも、天上を見上げながら、言葉を続ける。
「彼女が見えるようになったのは、この星の時間で数年くらい前からなんだけど、『遂に神が姿を現した』って言って、話題になったんだ。彼女の声を翻訳して聞くための、専用の施設もある。出かけてみるかい?」
その言葉にジニアは目を輝かせ、勢い込んで頷いた。




