第十九話「丁度良い奴」
アモンが寄宿学校に送られてから、アニタは退院した。
人差し指の関節は一時的に縫合されたが、部分クローンから人差し指を「再形成する」手術を受ける事も出来ると言われた。
アリスとアガサは医師の言葉に賛成した。だが、アニタは、その部分クローンが作られる前に、「どうしても急ぎたい」と無理を言って、帰らせてもらったのだ。
「部分クローンが完成したら、お知らせしますので、何時でも再入院出来るように準備をしていて下さい」と、医師は言っていた。
家に帰りついた日から、アニタは、右手の残された指を使って筆を持ち、描きかけの絵に加筆を続けて行った。
食事の管理はアガサに任せきり、眠る時間も惜しんで絵筆を振るった。
お風呂は二日に一回しか入らなくなり、長い髪の毛はぼさぼさに成った。
最初は、筆を支える手が震えたり、指が痺れたりしたが、一週間もしないうちに慣れた。
まず、紺色の宇宙に浮かんでいる、夜景を纏った銀の月を完成させ、次の週には、新しい絵に取り掛かった。
見上げるほどのキャンバスではないが、それなりに型の大きい麻布の上を、まずは真っ赤に塗りつぶした。赤い絵の具が乾いてから、濃淡を出しながら青い絵の具を塗り、青い絵の具の上から黒い絵の具で陰影をつけた。
その中央には、やがて大気と風景が描き込まれるであろう、真ん丸な青い月が残された。
アニタの新しい制作の取材をしたいと言う、報道局からの願いを、アリスは許可した。
アガサは、ボロボロの格好で絵を描いていたアニタに身繕いをさせ、「ほんの十五分で良いの。時間を頂戴」と、説き伏せて、報道局の取材に応じさせた。
アニタが再び絵を描き始めた事は、地上の子供向けのニュースペーパー「サンセットムーン」にも掲載された。
「現代に残る『霊感者』 不屈の魂を絵筆に込める」と見出しが銘打たれていた。
アモンは、その記事を読んで、気分がイライラしてきた。
アニタは魔法の鍵を失ったのに、まだ絵を描こうとしている。
イライラしたまま記事を読み進めて行くと、「いずれアニタ・フェイボックは、部分クローンによる人差し指の再形成手術を受けられるだろう。その時に、再び彼女の絵筆は、優美な幻想世界を我々に見せてくれるはずだ」と記されている。
魔法の鍵の再形成手術。
そんな事は許さない、とアモンは強く念じた。
魔法の鍵は一本で良いんだ。私のお腹の中に入って、私の体の一部になった、この一本だけで良いんだ。
どうにかして、アニタを止めなくちゃ。
アモンは新聞を読んだ後、毎日十八時には外への鍵が掛けられてしまう寄宿舎から、逃げ出す方法を考え始めた。
狙うなら、週末に外出許可が取れた時だろう。そのまま家まで移動してしまって、後は思う通りにすれば良いのだ。
決定的な結果が出てしまえば良いのだ。アリスもアガサも文句が言えないくらいの結果が。
外側の宇宙を描き終えたアニタは、真ん中に残してあった月の細部を描き込み始めた。
その時の青い月は、大気の中に大陸らしきものが描かれた。魚眼レンズを透かしたように、陸地は不思議な曲線を見せている。
大気に浮かぶ雲を描き込んでいると、無理な状態で持っていた筆の付け根が、パキッと音を立てて割れ、危ないと気づいて画面から筆を離した途端、白い雲を描いていた面相筆の筆先が、床に落下した。
スペアを探したが、生憎、どの筆も絵の具の残りがへばりついていて、「微細な表現のために使いたい時」には、向かない状態だ。
固まりかけてしまっている油絵の具を溶かすために、ブラシクリーナーをバケツの中に用意して、あるだけの状態の悪い面相筆を、洗浄し始めた。
少し絵の具がほどけてきたら、要らない布で絵の具をぬぐい取る。
そしてまたブラシクリーナーの中で筆を泳がせ、出来るだけの絵の具を流してしまってから、外にある、庭に水を撒くための蛇口に移動して、洗面器に水を受け、筆用石鹸で洗い始めた。
一秒でも惜しいと言う風に、筆の手入れをしているアニタの背後に、近づいてくる者がいる。
倉庫から漏れる光を当てに、足音を殺してアニタに近づいてきていたのは、かつてのアモンの友達等だった。
丁度良い奴――食べるには丁度良い奴――を狙って、少年達は先日の犯罪の、模倣を行なおうとしていたのだ。
大きな腕を広げ、その内側にしまわれている、のこぎり状のエッジを構え、アニタの頭の上に腕を振り被った。
その時、アニタが筆を洗い終わり、筆を突っ込んだ洗面器を持って、パッと立ち上がった。
不意を突かれた子供は、のけぞって背のほうに倒れた。
アニタはその物音に気付いて、後ろを振り返ったが、転んでいる子供達が何をしようとして居たかは分からなかったようだ。
暫く、「なんなのだろう?」と言う表情をしていたが、子供達は動かない。
アニタは彼等を放って、倉庫の中に戻った。
「アニタ。暗くなってから、一人で外に出ちゃいけないよ」と、アリスが呼び掛けてきた。「何をしていたんだい?」
「筆を洗っていたの」と、アニタは答えた。「誰か、庭に居たけど」
それを聞いて、アリスは倉庫の窓からパッと外を見た。
悪童達が、よろよろと立ち上がる所だった。
アリスは倉庫の窓を開け、腕のエッジを振りかざしながら、「勝手に、うちの庭に入るな! 悪ガキ共!」と叫んだ。
その声を聞いて、三名いた悪童達は、我先にフェイボック家の庭から退散した。
アリスは、家の周りに塀が必要だと考えた。
ちょっとやそっとじゃ、飛び越えられないくらいの、高くて丈夫な塀が必要だ。
少し美観を損なっても、低い柵しかない今の状態では、悪童達が簡単に庭に入ってきてしまう。
庭への侵入があった翌日、アリスは工務店に「家の周りの塀作り」を依頼した。
手入れの終わった筆で、アニタは再びキャンバスの加筆を行なっている。
青い月の周りにある星屑は、最後に描き加える予定だ。
区切りの良い所まで筆が進み、アニタは一度食事休憩を取ることにした。
アガサが持ってきてくれた食事は、すっかり冷めてしまっているが、ミートボールの入った野菜のスープは、ぬるくてもとても美味しかった。
窓硝子越しにその背を見て、「野蛮な女が食事を摂っている」と、アモンは思った。
魔法を失った女が、魔法に見せかけた絵を描いて、彼女と同じ種族の肉を食べている。
こいつを止めるには、鍵を奪うだけではだめなのだ。
チャンスは今しかない。今度こそ、ちゃんと、力を奪って、この女が、二度と動き出さないようにしなくては。
そう念じながら、倉庫の出入り口に向かった。
食事を摂り終わったアニタは、食器のトレーを置きなおしたワゴンを押して、家の奥のほうに戻って行った。
アモンはその隙に倉庫に忍び込み、干し草の中に隠れた。
干し草の中は息がしづらかったが、あまり大きく呼吸していると、気づかれるかもしれない。
息を潜めて待つと、廊下からアニタが戻って来た。
偉そうに、パレットと言う、絵の具がぐちゃぐちゃに乗っている物を片手に持ち、一番細い筆を手に取ると、大威張りで絵を描き始めた。
この女は、目の前の事に集中すると、背後の事には気づかない。
落ち着いて、思う通りにすれば良いのだ。
アモンは腕の内側にあるエッジを振りかぶり、アニタの背後に忍び寄った。
そして、彼女の頭の向こうから、首に向かって腕を振り、エッジで喉を捉えて切り裂いた。
アリスが次に様子を見に来た時、其処にはパレットを片手に持ったまま倒れている、アニタの体と、体から切り離された首があった。
首は、テーブルに飾る時のように、切り口を下にされて、今の所は目を閉じている。
死後硬直で瞼が開くのは、間もないだろう。
その遺骸の横には、アニタの手腕を食べているアモンの姿があった。
フェイボック一家は、アモンが食べ切れなかった部分の、アニタの肉を料理して、すっかり食べてしまう事にした。
その時に、アモンは「美味しくない」と文句をつけた。「生で食べた時のほうが美味しかった。アニタの肉は、料理には向いてないんだ」と。
「黙って食べなさい。残しておくわけには行かないのだから」と、アリスは叱る。
アガサも、黙ってフォークとナイフを進めた。
霊感者を殺してしまったと言う事実の隠蔽を、一家は試みたのだ。
アニタの血液で、一部が赤黒く染まった最後の絵には、美しく星屑を浮かべるはずだった画面に、血液の色と同じ赤と黒の絵の具を、入念に塗りたくった。
その結果、中央の青い月だけが美しく、周りを取り囲む空間は、どろりとした闇の渦に染まった絵画が出来上がった。
「アニタの最後の作品だ」と、アリスは自分で闇を塗りたくった油彩画を眺めながら、述べた。
やがて、骨だけになったアニタ・フェイボックの遺体は、遺族の意向で火葬され、「霊感者」用の墓所に埋められた。
墓石の上には、「アニタ・フェイボック」の名と、彼女の生誕から死亡時までの期間と、祈りの言葉が記載された。
フェイボック家の三名は、アニタは指の傷からの何かの菌に感染し、ショックを起こして死んだのだと、記者に述べた。アニタの「火葬」を求めたのは、人体に感染する菌を駆除するためだったのだと言う理由をつけて。
記者達は、素直にその言葉を記事にした。
アニタの葬儀が終わってから、アモンは大人しく寄宿学校に戻った。彼女は「料理後のアニタの肉」が美味しくなかった事以外は、アリス達に不平をこぼさなかった。寄宿舎を抜け出した理由を、「ホームシックに罹ったんです」と答えた。
愛玩人間が死んだ事と、アモンが寄宿学校を抜け出した事は、結び付けられなかった。
もし、アニタ・フェイボックが、殺人が理由で死んでしまって、大種族である家族がその肉を食べても、大っぴらにしなければ、羨ましがりはすれども、誰も咎めない。
「霊感者」の肉が食べられるのだったら、是非一度食べてみたいと、どの大種族達も、心の中では思っているのだから。
アリス達は、アニタの髪の毛を一束、畜産場に送った。




