私と使用人たち
「――un, deux, trois、un, deux, trois!」
ダンス講師を務めるルーカスが叩くリズムに合わせて、私は懸命にステップを踏んでいた。
「un, deux, troi……ほらリリィ! また足っ!」
ルーカスの鋭い声が、鏡張りのホールに響いた。
私は額に汗を滲ませながら、何度も鏡に映る自分の動きを確認する。
「そこまで!」
ルーカスが大きく手を叩く。
私は足を止め、呼吸を整えた。
ウェーブの掛かった黒い長髪を後ろで一つに束ねたルーカスが、目尻に皺を寄せて微笑む。
その細面で、中性的な顔立ちからは想像もつかないほど均整の取れた身体を見ていると、さすがは元王立劇場舞踏団のプリンシバルを努めていただけのことはある、と感心すると同時に、さぞや若い頃は浮名を流したのだろうな……と、あらぬ妄想をしてしまう。
「うん、かなり良くなった、もう誰の前に出ても恥はかかないだろうね」
「……これじゃヴィリアに勝てない」
ルーカスの言葉に、私はハンカチで汗を拭いながら呟く。
「おいおい、ヴィリアに勝とうだなんて正気かい?」
ストレッチをしながら、ルーカスはからかうような笑みを浮かべた。
「うぅ……ひどい」
「はは、悪かったよ、そんなにむくれないで」
「ルーカスは、ヴィリアの若い頃を知ってるんでしょ?」
私が聞くと、ルーカスは誰もいないホールを見て目を細めた。
「ああ、あの頃のヴィリアは、まるで妖精のようだった。彼女が踊るとね……こう、会場が輝き始めるんだ。男達は皆、その光に夢中になっていたよ」
「モテたんだ……」
「そんな生易しいものじゃなかったよ、それこそ戦争さ――かく言う私も戦った一人だけどね」
ルーカスは懐かしそうに微笑む。
「でも、ヴィリアはなぜ社交界を去ったのかな……」
「……それはヴィリアにしかわからない。ただ、その選択のお陰で、彼女の最期に立ち会うことができたし、こうしてリリィにも出会えた」
「……うん、そうだね」
ヴィリアの最期は、私にとって理想だった――。
その昔、『霧』と呼ばれ暗躍した元諜報員の執事、アルフレッド・オールドミストを始めとする、ウィンローザ侯爵家のちょっと訳ありな使用人達。
衣装番、ルーカス・シュナイダー、料理番、ジョン・カイエン、金庫番、ロイド・ヴァレンタイン――そして、花売りの孤児だった私。
ヴィリアの最期を看取った面々は、実に曲者揃いだ。
そんな家族同然の彼らと共にベッドを囲み、私はヴィリアにありったけの謝意と敬愛を注いだ。
自分の愛する者達に見送られる――、それほど理想的な旅立ちがあるだろうかと、ヴィリアの最期は、幼かった私の死生観を変えた。
憂いを含んだ瞳で、虚空を見つめるルーカス。
彼もヴィリアの最期を思い出しているのだろう。
私はルーカスの広い背中にぎゅっとハグをした。
ちょうど腰の上辺りに顔が当たり、ルーカスは、ぽんぽんと私の手を優しく叩く。
「リリィは優しいね、ヴィリアと大違いだ」
「もう、ヴィリアに怒られちゃうよ?」
「あはは、そうだね――ごめん、ヴィリア! 今のは忘れて!」
ルーカスが天に向かって拝んだ。
「ふふ、ヴィリアぜーったい怒ってるよ?」
「え⁉ それはマズいな……」
私達の笑い声がホールに響く。
彼女の死を共有できる家族をくれたヴィリアに、私は心から感謝した。
「ん、そろそろ時間だよリリィ、ロイドが待ってる」
「はーい、じゃあ、ルーカス先生、ご指導ありがとうございました」
私は姿勢を正し、丁寧にお辞儀をする。
「いいえ、こちらこそありがとうございました」
目を細めたルーカスがお辞儀を返した。
§
ホールを出て、次は屋敷の中にある私設図書室へ向かう。
私設といっても、読書家だったヴィリアが集めた蔵書は、学者も唸るほどの名著揃いだ。
中庭沿いの廊下を、私はぶつぶつと呟きながら歩く。
「えーっと、暴君アガレスを倒すために集まったのが……御三家と呼ばれるレイセオン家、エイリスヴェルダ家、アイフォレスト家……最大の功績を立てたレイセオン家が新王となり、レイセオン王の治世が始まる……」
先日の授業で教わった内容を反芻しながら、図書室の前に着いた私は、着替えたばかりのハイネックの白いブラウスとスカートを正して「んんっ」と喉を鳴らし、大きく深呼吸をしてから扉を開けた。
本の匂いに混じって、わずかに薔薇の薫りがする。
ヴィリアの匂い……ロイドが調香した香水の匂いだ。
懐かしい……いつもこの香水を付けていたっけ……。
「やあ、リリィ」
中二階の書架の前で、本を手に取っていたロイドが私の方を向いた。
「ロイド先生――よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
部屋の中央には、六人掛けの大きな机が置かれている。
形の良い眉を上げたロイドに、私は座るように促された。
私の不思議な家族の中でも、一番若いロイドは体の線が細く、ドレスを着せれば、そのまま舞踏会に招待されてもおかしくないほどの美男子だ。
「あ、まだ匂う? リリィ用に調香していたんだよー」
「ほんと? わぁ、楽しみ!」
「ベースはヴィリアと同じだけど、ちょっと若さを感じるように調整してみたんだ」
「ね、嗅いでみてもいい?」
「だーめ、まだ未完成だからね、社交界デビューまで待ってて」
「うぅ……はーい……」
ムスッとした私を見て、ロイドがクスッと笑みを浮かべた。
年齢はともかく、私の家族達は容姿に恵まれている方だと思う。
「では、始めようか。さて……前回は建国についての授業だったね」
ロイドが開いた本に目線を落とし、金色の髪を耳に掛けた。
長い睫毛がくるんと上を向いている。
今はもう見慣れたが、白い首筋から香り立つような色気は、とても三十路を迎えた男のものとは思えなかった。
「ネレウス王の治世が始まったのは何年だったかな?」
「114年です」
「うん、そうだね。では、建国に当たり王が国民に対して何と布告したのかな?」
「法による支配、です」
「そう、王は自分よりも法を高く置いた。これによって、王も法に支配されると宣言したわけだ」
「……」
ロイドの授業が続く。
淀みなく解説するロイドの声は、リズミカルで心地が良い。
そういえば、ヴィリアもロイドの声が好きだって言ってた……。
「――となるわけだけど……リリィ? どうかした?」
「ねぇ、ヴィリアの最期の言葉……覚えてる?」
ロイドは静かに本を閉じ、私に向き直った。
「もちろん覚えてるよ、どうかしたの?」
「その……私に女侯爵なんてほんとに務まるのかなぁーって。だって、私、つい数年前まで字も読めなかったのよ? 信じられる? それが、侯爵だなんて……何だか畏れ多いっていうか……」
柔らかくて温かい手の平が私の手を包んだ。
透き通るようなグレーの瞳に、一瞬ドキッとする。
「大丈夫、ヴィリアは君を選んだ。それに、僕たちが側に居る。こう見えてアルフレッドも、ルーカスも、ジョンも、僕だって意外と頼りになるんだよ?」
クスッと笑うロイド。
天窓から射し込んだ陽光が、ロイドを照らしている。
「皆が凄いのはわかってる、でも、私にはこれといった特技も無いし……」
「あのね、リリィはヴィリアだけが持っていた『華』を持ってるんだよ」
「……華?」
「そう、努力やお金じゃ決して手に入らない……そこにいるだけで世界を輝かせる力だよ」
ロイドが眉を下げ、慈しむような瞳を私に向けた。
「私にそんな力なんて……」
「――あるんだ、リリィ。だからヴィリアは君を選んだのさ」
§
「はぁ~、お腹空いたぁ……」
厨房にあるテーブルの椅子に座り、ぐで~っと突っ伏した。
頬をテーブルに付けながら、フライパンを振るジョンを眺める。
「ははは! ロイドに絞られたのか?」
「うん……いつもの倍くらい」
あの後、ロイドはいつも以上に熱が入ったのか、予定以上に授業を進め、たっぷりと宿題まで出してきた。悪魔は綺麗な顔をしているというが……あれは本当なんだなと私はひとり頷く。
「ほい、できたぞー、こんな簡単なものでいいのか?」
ジョンが皿を私の前に置いた。
皿の上には私の大好きなオムレツが乗っている。このぽてっとしたフォルムを見ると、思わず小躍りしそうになってしまう。
「やったぁ~! これこれ、いっただきまーす!」
ふわとろのオムレツをはむっと頬張ると、ぎゅっとほっぺが痛くなった。
「くうぅ~……お、おいしい……!」
「そんだけ喜んでもらえりゃ、作ったかいがあるな」
腕組みをしたジョンが、少し垂れた目を細くして笑った。
ふわっとしたくせ毛が大型犬みたいで可愛いが、その鍛えられた腕には無数に付いた古傷の痕が見える。今でこそ、こんな優しげな顔をしているが、ジョンは元冒険者で世界中に点在する迷宮を探検していたそうだ。
「ねぇ、ジョンは色んな料理を知ってるでしょ? 何が一番美味しかった?」
「そうだな……色々あるが、この国でヴィリアに出会ってから初めて気付いたことがある」
「え、何なに?」と、私は身を乗り出す。
「何を食べるかより、誰と食べるか――それが味の秘密なんだ」
「えー、嘘だよ、だって、このオムレツなら一人で食べても美味しいもん」
「ははは、そっかそっか、ま、俺のは特別だからな」
満足そうに笑って、ジョンは後片付けを始める。
「リリィ、食い終わったらジジイにさっさと食えって言っといてくれるかぁー?」
「うん、わかった。ごちそうさまー、ありがとね」
「おぅ」
厨房を出た私は、中庭を通ってアルフレッドのところへ向かう。
と、その時、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めた。
「雨だ……」
中庭の真ん中に立って、灰色の雨雲を見上げた。
じっと、空から降る雨粒を見つめる。
無数の雨粒が白い線になって流れていく。
まるで流星群みたい。
――知りたい。
ヴィリアが何に笑って、何に悲しんで、何に心を躍らせたのか。
なぜ、社交界を去ったのか――。
結局、最後まで照れくさくて、ヴィリアのことをママとは呼べなかった。
でも、心の中ではずっとそう呼んでいたんだよ……。
ママ……もう一度、逢いたいな。
目を閉じて地面に横になり、全身で雨を受け止めていると、スッと視界が暗くなったのを感じる。
ゆっくり目を開けると、大きな蝙蝠傘と不機嫌そうなアルフレッドの顔がそこにあった。
「まったく……こんなところで何を遊んでいるのですか、風邪を引きますよ」
「ごめんなさい」
「……さぁ、戻りましょう」
「うん」
アルフレッドが差し出した手を握る。
あの時のヴィリアと同じ、あたたかくて優しい手だった。