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プロローグ

 街外れに建つ侯爵邸の鉄柵門の前で、執事のアルフレッドが主人の到着を待ちわびていると、近くで花を売っていた少女が一輪の花を差し出した。


「こんにちは、お花はいかがですか?」


 知らん振りを決め込もうとしたアルフレッドだったが、すぐにやれやれと短く息を吐き、上着の内ポケットから数枚の銅貨を取り出すと少女に握らせた。


「ありがとうございます」

「花は必要ない、それで今日は店じまいになさい」

「あの、こんな立派なお屋敷に……誰が住んでいるんですか?」

「君が知る必要はない、さ、早く帰りなさい」

「……」


 少女はアルフレッドから少し離れる。

 だが、その場から立ち去ろうとはしなかった。


「ほら、早くかえ――」

『どぅどーぅ!』


 御者のかけ声と馬のいななきが聞こえ、双剣と薔薇の紋章を掲げた白馬車が邸宅の前で止まった。

 アルフレッドが少女に指を向け「いいね?」と、念を押す。

 急ぎ馬車に駆け寄り扉を開けると、すっと背筋の通った貴婦人が降りてきた。


「足元にお気を付けください」

「まぁ、年寄り扱いはやめてちょうだい。貴方とさほど年は変わらないのよ?」

「これは失礼いたしました」


 他愛のないやり取りに、二人は頬を緩ませている。

 その様子を遠巻きに眺める通行人たちは、一様に羨望の眼差しを向けていた。


 いくら老いたとはいえ、社交界の華と呼ばれたヴィリアの美は未だ健在だ。ハッと目を惹くような魅力があり、そこに佇んでいるだけで空気が変わる。


 アルフレッドの方も、とても初老目前とは思えなかった。

 後ろに流した艶のある黒髪、彫りの深い面長の顔はとても枯れたようには見えない。逆三角形の身体は上背もあり、執事服の上からでも鍛えられているのがわかった。


 何にせよ、二人がそこにいるだけで絵になるのだ。

 ふと、ヴィリアが白壁に目を向けると、先ほどの少女が籠一杯の花を抱えて立っていた。


 アルフレッドが小さく顔を振る。


「すぐに帰らせますので――」

「いいえ、大丈夫よ」


 手入れされていない髪、継ぎ接ぎだらけの洋服……。近くの教会にいる孤児かと考えながら少女の顔を見たヴィリアは、思わず笑い出しそうになった。


 一体、これは何の冗談だろう――。

 みすぼらしい格好や、薄汚れた肌では隠しきれていない。

 神が間違えて、天使を遣わしたとしか思えなかった。


「ねぇ、アルフレッド……例の件、彼女はどうかしら?」

「それは……」


「容姿に関しては文句のつけようがないし、彼女なら何のしがらみもないわ」

「しかし、彼女に務まるかどうか……それにヴィリア様の血を引いておりません」


「あら、血の繋がりなんて信じていたら、私はいまごろひとりぼっちよ?」

「……」


 ヴィリアは返答に詰まるアルフレッドに微笑んで見せたあと、少女に声を掛けた。


「あなた……明日も花を売りたい?」

「え? あ、あの……」と、目を震わせる少女。


「……」


 ヴィリアは籠の花を一本手に取り、アルフレッドに目配せをした。

 アルフレッドがもう一度、少女に銅貨を握らせる。


「ごめんなさい、いまのは忘れてちょうだい――」


 立ち竦む少女に言い残し、ヴィリアは背を向ける。

 運命を変えるには強い意志が必要だ。

 果たして、少女にその意志があるのかどうか……。


 ――遠雷が鳴いた。


 石畳に黒い点がひとつ、またひとつと増えていく。

 少女は天を仰いだあと、自分よりもヴィリアが濡れる心配をした。


 そして、その小さな足を踏み出した瞬間、ヴィリアの隣に立つアルフレッドが大きな蝙蝠傘を開いた。

 傘を乱れ打つ雨音が、段々と大きくなっていく。


 呆然と二人の背中を見つめていた少女が声を上げた。


「わ、私は……!」


 辛うじて届いた少女の声に、ヴィリアが振り返った。


「花なんか売りたくない! この籠の花が毎日全部売れたって……何も変わらない! わたし、何も変わらないもん!」


 少女は悲痛な声をあげた――。


「わたしも綺麗な服を着て、立派なお屋敷に住んで、雨を気にせず歩いて、お腹いっぱい美味しいものを食べたい! でも……わたしは、わたしは……何も持ってないんだもん!」


 籠を投げ捨てる少女。

 濡れた石畳の上に黄色いガーベラが散乱した。


 ヴィリアは、自らの運命を変えようとした少女に目を奪われていた。

 濡れた洋服が肌に張り付き、少女の痩せた体の線が露になる。


 雨に目を細めながらヴィリアを見つめる碧い瞳。

 ヴィリアと同じ白金色の髪先から流れ落ちる雨の雫――。


 これまで、数え切れないほど美しいものを目にしてきた。

 北国で見た満天の星空、南国の遠浅で透き通った海、地平線から昇る朝日……だが、その美化された想い出でさえ、目の前の少女に比べれば見劣りするだろう。


 ――華だ。

 選ばれた者だけが持って生まれる華を、この少女は持っている。


「……アルフレッド、私の目は間違ってなかった」

「ヴィリア様……⁉」


 ヴィリアは少女に手を差し伸べて言った。


「この手を取れば、あなたの人生は劇的に変わる。でも、それが幸せとは限らない。ただ一つだけ確かなことは――あなたが花を買う側になるということ」


 少女はじっとその手を見つめている。伸ばし掛けた手を止め、少女はヴィリアの瞳に答えを探そうと目線を上げた。


 雨の中、見つめ合う二人……。

 ややあって、少女がヴィリアの手を取った。


 雨粒が少女の白く透き通った肌を打つ。春に芽吹く新芽のような指先、白い飛沫が少女を纏う燐光のように見えた。


「私はヴィリア、あなたの名前は?」

「わたしは……リリィです」


 ヴィリアはしゃがんで目線を合わせ、リリィの濡れた髪を耳に掛けなおした。


「よろしくね、リリィ・ウィンローザ」


 息を呑むと同時に、その言葉の意味を理解したアルフレッドがリリィをすぐさま傘に入れた。

 リリィは、不思議そうにアルフレッドの顔を見上げる。


「リリィ様、どうぞお使いください」


 アルフレッドが内ポケットから銅貨ではなく、ウィンローザ家の紋章である『双剣と薔薇』の刺繍が施された美しいハンカチを取り出して、リリィに差し出した。


「え、あ、ありがとう……ございます」


 戸惑いながらもハンカチを受け取るリリィ。


「さ、行きましょう――もう、貴方が雨に濡れることはないわ」


 リリィの小さな手を引くヴィリア。

 その温かくて大きな手を、リリィはぎゅっと握り返した。


 

   §



 かつて、社交界の花と言われた美しき女侯爵がいた。

 名をヴィリア・ウィンローザ。


 誰もが羨む美貌と知性、家柄を兼ね備えた完璧なレディ。一癖も二癖もある社交界で、ヴィリアは名声をほしいままにした。


 しかし、ある時、ヴィリアは数人の使用人だけを連れ、表舞台から忽然と姿を消してしまった。

 当然、社交界では様々な憶測が飛び交っていたが、その後、ヴィリアが公の場に姿を見せることはなく、彼女が何かを語ることもなかった。


 だが、それから十数年が経った今、その沈黙が破られようとしている。


 ウィンローザ侯爵家現当主、リリィ・ウィンローザ。

 ヴィリアと同じ白金色の髪と碧い瞳を持つ少女。


 まだ、誰も知らない。

 彼女が、ヴィリアを超える社交界の華となることを――。

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