A visiter with Rose music
それから数日後。
クレスは帽子屋の裏手の建物の屋根の上に座って、帽子屋を眺めていた。
午後のティータイムを早々に切り上げると、普段は屋敷の裏の森で銃の練習をしたり、読書をしたりしているのだが、今日は思い立ってウサギ足でここまで駆けてきた。アゼルの腕の具合も気になるし、何より彼女と話がしたかったから。
正面きって訪ねていけばいいのだが、兄のレイズに会うと面倒なことになるのは目に見えているし、向こうはオレの顔を見た瞬間に掴みかかってくるだろう。本当ならその場でボコボコにしてやるところなのだが、それが出来ないなら顔も見たくない。アゼルが止めてくるに違いないから。
そんなことを思いながら、入り口でうろうろしているところを誰かに見つかったりしても嫌なので、ひとまず帽子屋の裏口と小さな庭が見える屋根の上に腰を落ち着けていた。庭に洗濯物が干してあるので、誰か出てきたらアゼルだけ呼んでもらえればいい。
帽子屋はハート地区の目抜き通りの一角に店を構えている。この道をずっとまっすぐ行けば城の正門に辿り着くのだ。ハート地区全体がこの国の商業エリアであり、表通りには様々な高級店、有名店が軒を連ねる。だが一本裏通りに入ると、昔ながらのアパルトマンや、小さい商店街、問屋がところ狭しとひしめいていて、もっぱら庶民はこちらを利用する。今オレがいる屋根の下も、3階建てのアパルトマンだ。
……落ち着けて、もう30分は経とうとしているか。
春の日とは言え、さすがに屋根の上は暑い。今日はもうあきらめようか、と思い始めた時、勝手口から大きなカゴを抱えて誰か出てきた。銀色の髪がキラっと光った…アゼルだ。少し遠いので、眼鏡を掛けた目を細めてみる。
やっぱりアゼルだった。先日と同じ深緑のお仕着せを着て、髪を後ろで一つにまとめている。先日帽子屋に入った時、他の女性従業員が同じものを着ている姿を見たが、大人と子供でサイズが違うせいかどうにも同じものには見えず、制服だったのかと気づくのに少々時間がかかった。…アゼルが着るとかわいく見えるのはどうしてだろう。
そのまま様子を眺めていると、背伸びをしながら洗濯物を取り込もうと、物干しを見上げながらシーツを引っ張りだした。日を浴びたシーツをバサバサと抱え込むと、きゅっと抱きしめて顔を埋める。
そうそう、いい匂いがするんだよな、あれ。自分も干したてのシーツが整えられた途端にベッドにダイブして、よくメイドに怒られる。…最近はやらなくなったけど。
その姿に思わず口元が緩む。もちろん屋根の上で一人ニヤける少年を見ている人間は誰もいない。いたら確実に怪訝な顔をされていただろう。
だが、そうして何枚目かのシーツを引っ張ろうとした時、ふとその手を止めた。その物干しの延長にある見慣れない影に気づいたらしく、手で太陽を避けながらこちらを見上げてくる。
…見つかったらしい。
オレは立ち上がると、一気に3階の屋根から飛び降りた。
◆◆◆◆◆
今日は食器洗いの後に洗濯物を取り込まないといけない。大きな洗濯カゴを抱えて外に出た。
物干し竿はあたしの背より高いから、結構背伸びをしないとなかなか届かない。まだ肩が少し痛むので、下の方を掴んでシーツを引っ張った。春の太陽を吸い込んだシーツはいい匂いがする。願わくばこのまま昼寝したくなるぽかぽか陽気だった。
見上げながらシーツを引っ張っていると、裏通りの向こうの屋根の上に、何か不自然な影が見えた。猫か何かと思ったが、それにしては大き過ぎる気がする。引っ張っていたシーツをカゴに放り込むと、若干逆光気味の方向へ手をかざして目を凝らした。
…………クレス?
なんだって伯爵家の坊ちゃんが屋根の上にいるんだろう。…見間違いかな。いや、でもクレスでなくてもあれは人だよね……って飛び降りたし!!
あそこ3階だよ!?
慌てて裏通りに出る赤薔薇の木戸を開ける。
そこにはやっぱり、眼鏡をかけたクレスが無傷で立っていた。
◆◆◆◆◆
アゼルも自分を見つけてくれたみたいなので、ひとまず陶板焼きになる前に地上に降りることにする。
通行人がいきなり上から降ってきた少年に度肝を抜かれているが、本人は周囲の視線なんてさっぱり気にしていなかった。
帽子屋の裏の木戸から入ろうと通りを渡ると、アゼルが中から飛び出してきた。
「っ!クレス!」
「やぁ、アゼル。腕の具合はどう?」
元々大きい目を更に丸くしているアゼルに、笑顔で挨拶。…びっくりした顔も可愛いな。会うのはこれで2回目だが、アゼルはどうやらあまり表情が変わらないタイプのようだ。
特に、なかなか笑わない。
先日のお茶会でももっぱら聞き役で、こちらから聞かないとあまりしゃべってくれなかった。いきなりな出来事が続いて緊張しているのもあったんだろうが、どちらかと言えば静かで大人しい性格には違いないと思う。
「今、あそこから飛び降りたでしょ?なんで屋根の上になんているの?」
「うん。散歩中だったんだ」
軽く飛び跳ねてみせる。なんともないことがわかると、息を吐き出して、呆れたような疲れたような声を出した。
「…変わった散歩ルートだね…」
「はははははっ」
その驚きぶりが面白くてつい笑ってしまう。
「ハイ、お見舞い」
差し出した左手には、屋敷の庭から無断で摘んできたピンクの薔薇一輪。
「え、あ、ありがとう…」
今度は一瞬戸惑って、モジモジと薔薇を受け取る。そばかすの浮いた頬が少し赤くなった。
「どう?肩の調子」
「うん、まだ本調子じゃないけど。だいぶ痛くなくなってきたよ」
「そっか。仕事はどう、出来てる?」
「ほとんどいつも通り。でも痛みが引くまで銃の練習は出来ないね」
「っ…銃なんて使うのか?」
なんで帽子屋の女の子が銃なんか。
「うん、ウチの店の人はみんな使えるよ。クレスだって出来るんでしょ?」
何がおかしいのかと首をかしげる。もちろん普通の女の子は銃なんて使わない。…だがこの様子だと、アゼルは銃を扱うのが普通だと思っているらしい。ていうか、どうして普通の帽子屋が全員銃を使えるんだ。
「出来るけど…、普通の女の子はあんまり使わないよ。何に使うんだ?」
「ジェムは、いざって時に身を守るためだって」
ジェムっていうのはこの店のスタッフのことか。そりゃあ、自分の身は自分で守れるに越したことはないが。
「銃は何を使ってる?」
聞くとかなり殺傷力の低い小型のタイプだった。まぁ致命傷にはなりづらいだろうが、身を守るには十分か。
「でもあんまりうまくないんだよね。最初はレイズと同じの使ってたんだけど、反動が大きくて弾道が逸れちゃうの。だからジェムが小型のタイプに変えた方がいいって」
無邪気にそう話すアゼルだが、帽子屋はそんなに危険な仕事だっただろうか?
…帰ったらラティカに聞いてみよう。
「じゃあ今度ウチに来て一緒に練習しようぜ?」
「え…でも、お屋敷で練習なんて」
「裏の森で出来るから、母さんたちにバレなきゃいいんだ」
アゼルは少し困った顔をしたが、自信満々に請け負った。
ばれなきゃいいって問題じゃ…と未だ渋っているアゼルに畳み掛ける。恰好の口実が出来た。毎回お見舞いじゃ、先がないからな。
オレが森に出かけていけば、屋敷の人間に見つかることはほとんどない。普通の人間の足じゃ入れないようなところに、隠れ家がいくつかある。マダム・ジーナの講義をサボったときや、一人になりたいときにそこで過ごしたりする。友達にも誰にも教えたことは無いけれど、アゼルが約束を守れるんだったらその一つに連れて行ってもいいかな。この間のお詫びに、ちょっとやそっとじゃ動じそうもないアゼルが喜んでくれそうな場所に連れて行ってあげよう。
「アゼル、午後で仕事が無い日ってある?」
「……太陽の日なら一日空いてる…あと樹木の日と黄金の日は夕飯の仕度当番じゃないから、ティータイムの後は出れるかな」
「ティータイムの後か。…じゃあ太陽の日にした方がいいな。ランチの後に、またさっきの屋根の上に来るから」
「屋根の上にって…普通に表から来ればいいのに」
「店から入ったって、オレは客じゃないぜ?」
別にもてなしを受けたいわけじゃないし、それに何よりお前の兄貴と顔を合わせたくない。
「そうだけど…別に仕事中に来るわけじゃ」
「何しに来やがった、てめえ」
………言ってるそばからこれだ。
赤薔薇の木戸から今一番会いたくない顔が現れた。
Rose music=実在する薔薇の品種名。きれいなピンク色のモダン・ローズ。クレスが庭からくすねてきたピンクの薔薇。実在する品種です。