The March Hare
前話のお茶会より、数ヶ月前の話です。
Solitaire = ソリティア。
いつもと変わらない1日のはずだった。
その日も朝から拷問にも等しいマダム・ジーナの講義があり、
いつものように隙をみて抜け出した。
そして始まる鬼ごっこ。
本当にいつも通りの伯爵家の風景だったのに。
あの日から
世界がそれまでとは全く違って見えるようになってしまった。
◆◆◆◆◆
「――――坊ちゃん!!今日という今日は逃がしませんっ―――!!!」
「出来るもんならやってみなーー!」
面白半分に、かなり速度をセーブして廊下を走る。
3歳のとき、突然何の前触れもなく左胸に『The March Hare』のタトゥーが出た。それの影響で普通の人間じゃありえないくらい走るのは速いし、ジャンプ力もある。我ながら本当にウサギみたいだ。
もっと幼かった頃は、スピードの加減とブレーキがうまく出来ずよく壁に激突して骨折したりしていたが、最近はかなり加減が利く。
当然、毎朝恒例のこの鬼ごっこも、今のところ無敗記録更新中だ。友達とはやる前から勝負がついているのでそもそもやらない。
……本をなぞっているだけの講義なんて、時間の無駄としか思えない。たとえ同じ本でも、お気に入りの木の枝の上で目を通した方がよっぽど頭に入ると思う。部屋で机に縛られるより、森で銃の練習でもした方がはるかに有意義な時間を過ごせるというものだ。
教養は伯爵家の一員として必要だとはわかっているし、机の前以外で本にはきちんと目を通している。ただ、あのスタイルがどうしても性に合わない。マダム・ジーナも、本当のところはオレが本の内容を理解していることは知っているし、追いかけても追いつけやしないことも百も承知だ。
………だったらなぜ毎朝こんな鬼ごっこをしているのかって?
オレを机に座らせて講義をするのが彼女の仕事で、オレはそれが嫌だからに決まってる。
一度まだマシかと思って外で講義をすることを提案したが、下に敷いたブランケットにバッタが飛んできただけで、あえなくその日の講義は終了になった。
廊下の角を曲がると、トレードマークのシルクハットを被った帽子屋が母の部屋から出てくるところだった。
足音に左を見やった帽子屋は、笑いながら猛ダッシュで走ってくるオレと鬼の形相のマダム・ジーナを認めると、軽く目を見開いて足を止めた。
そのまま彼の後ろをすり抜けようと、スピードを落とさず突進するオレ。
進行方向に人を見つけ、叫ぶマダム。
「―――帽子屋様っ――危ないっ…」
この間、約3秒。
後5歩で帽子屋の背後を抜けようというその時。
予想外に、帽子屋の後に続いて人が出てきた。
さすがのオレも残り4歩じゃ止まれない。ジャンプをしてもこの距離じゃ相手の頭に飛び蹴りを食らわせるだけだろう。…まぁあらかじめわかっていたらちゃんと止まれるんだが。
…結果、その出てきたもう一人に豪快に体当たりを食らわせた。
「…うわぁっっ」
◆◆◆◆◆
大旦那様に続いて伯爵夫人の部屋を下がろうと廊下に出た瞬間。
「え?……きゃあぁっ!?」「…うわぁっっ」
左からものすごい勢いで黒っぽい髪の男の子が突っ込んできた。
…と確認するかしないかで、体当たりされて右に吹っ飛んでいた。
◆◆◆◆◆
目が覚めたのは、見知らぬベッドの上だった。
「…あぁっ!よかったっ君、大丈夫?気分はどう?」
見知らぬ男の子が枕元で声を上げた。ちょっと目が赤い。
…
……
………あれ?どこだろ?ここ。
何であたしこんな豪華なベッドで寝てるんだ。
なんだか頭がボーっとする。
「あぁ、アゼル、無理に起き上がらなくていいよ。脳震盪だからね。」
もう一人、部屋にいた知らない女の人が声をかけて近寄ってきた。
「そのままでいいから。これ、何本に見える?」
指を一本立ててみせた。
「…一本です」
「じゃこれは?」
次は三本。
「三本です」
「じゃあこの指をじっと見て」
今度は目の前に人差し指を立てて、ゆっくりと左右に動かした。
その動きに合わせて眼球も左右に振れる。
「うん、大丈夫そうね。」
「君、アゼルっていうんでしょ?さっきは本っっ当にごめん!!!わざとじゃないんだ!」
何がどうなってるのかさっぱりわからない。
あたし、今日は大旦那様について朝一で伯爵様のお屋敷に上がって、夫人に仕上がった帽子をお届けして…
………あぁ、そうだ。
夫人の部屋を出た途端に、この枕元にいる男の子に突撃されたんだ。
よく見ると、この子もあちこちに絆創膏を貼っている。
ぼやけた頭でなんとか思い出すと、あたしは首を少し右に傾けて、さっきからひたすらあたしに謝っている男の子を見た。
さっきは黒っぽく見えた気がしたけど、グレーに茶色の混じった長めストレートの髪に、それより濃いグレーの瞳。あたしの周りにいる男の子たちと比べても、かなりキレイな顔の部類に入るんじゃないだろうか。年はちょっと上かな。
白い綿のシャツにモスグリーンのベスト、黒系チェックのハーフパンツ。かなり上質なものだと思う。
「あなたは…」
「オレ?オレはクレセントっていうんだ。ここん家の三男だよ」
言われれば、伯爵夫人と少し似ているかもしれない。
「クレセント…様?」
「オレのことはクレスでいいよ。気持ち悪い?頭痛くない?ねぇ、アゼルって今いくつ?帽子屋ん家の子なの?」
「クレス坊ちゃん、いくら使用人でもレディに年を聞くなんて失礼です。アゼル、どっか痛むとこない?一応、骨には異常なかったけど」
矢継ぎ早に質問されてぽかんとしていると、さっきの女性が聞いてきた。
「…あ、はい。……………いっっつっ」
右手をついて起き上がろうとすると、肩のあたりに鈍痛が走った。
慌ててクレスが背中を支えてくれる。起き上がると、背が高い。
頭が冴えてくると、肩から、手首から、体のあちこちがズキズキ痛いことに気がついた。特に右側。
「ありがとうございます。…クレス様」
「様はいらない。敬語も使わないで。」
「でも…」
伯爵家の坊ちゃんに、そんなわけにいかないでしょう。
「どれ、ちょっと見せて」
私たちのやり取りに少し微笑みながら、女性が近づいてきた。
「坊ちゃん、ちょっと向こうに行っててくださいな」
「うん」
クレスがドア続きの隣の部屋に行くと、女性はあたしの濃い緑色のワンピースの上を脱がせた。
右肩から二の腕にかけて、青黒く打ち身になっていた。
「さっきは見た目なんともなかったけど、やっぱり色変わったか。…シップしときましょう。しばらく痛むと思うけど、我慢してね。あと、さっき手ぇついて痛がってたけど、手首は?」
女性は慣れた手つきでシップを当て、包帯を巻いてくれた。
「あの……大旦那様は…」
さっきから気になってしょうがなかったことを聞く。この後、まだ伺わなければならないお屋敷が2件ほどあったはずなのに。
「帽子屋は次に行くところがあるといってあの後すぐ帰ったよ。あなたは坊ちゃんに体当たりされて脳震盪を起こしちゃったからね。すぐに動かせなかったし、こちらできちんと手当てをして帽子屋まで送ります、と言っといたよ」
手首にも包帯を巻きつつ、あっさり答えてくれた。
「…そうですか。」
早く帰らないと。今日はこれからやる仕事があるのに。
「どれ、左は…この辺痛む?」
左肩を少し押された。またも鈍痛に顔をしかめる。
「…まぁ右ほどじゃないか。湿布だけ貼っとこうね。」
左肩にも湿布を貼られた。湿布草独特のツンとした匂いが鼻をつく。
…今日はお店に出られないな。
「はい、他に痛いとこある?」
「いえ、大丈夫です」
「ん、じゃあもう服着ていいわよ。右は床に打ちつけちゃったからちょっとひどいね。…ほんっと、坊ちゃんには困ったもんだわ。」
「…はぁ。」
そんな肯定も否定もしづらいことを。
ワンピースのボタンを留めながら、なんだか間の抜けた返事をしてしまった。
「坊ちゃんは人より足が速いからねー、痛かったでしょう?あの子に体当たりされるなんて、軽く交通事故だから」
…すごい言われようだ。
「…痛いと思うより、びっくりしました」
「あはは、そうだよねぇ」
女性は笑いながら、隣の部屋に声をかけた。
◆
「アゼル、大丈夫??痛む?」
隣の部屋からさっきの少年が心配そうに駆けてくる。
「はい、ちょっと痛いですけど…大丈夫です、クレス様」
「様はいらないって言っただろ」
クレスは整った顔を不機嫌そうに歪めた。
「ですが…」
そんなこと言われても、この人伯爵家のお坊ちゃんなのに友達みたいな話し方をしたらきっと絶対怒られる。
手当てをしてくれた女性に視線で助けを求める。
「坊ちゃんがそう言うんだから、この家の中なら普通にすればいいわよ。外ではきちんとしてもらわないといけないけど」
そんな風にあっさり肩を竦めて言う。
「…わかりました」
大人にもそう言われてはしょうがない。この人も使用人っぽいけど、敬語は使っているが、クレスに対してかなりフランクだ。
とっても気が引けるけど、恐る恐る言い直してみる。
「じゃあ……ちょっと痛いけど、大丈夫だよ、クレス」
「よく出来ました。もうランチの時間だよ。アゼルも一緒に食べよう?」
さっきと打って変わって満面の笑みのクレスが言った。
……帰らないといけないのにな。