I wanna go shopping with U 6
その夜。
レイズが屋根裏部屋のベッドで傾いた天井を見上げていると、アゼルが夕食の残りを持ってやってきた。
「お兄ちゃん、起きてる?」
恐る恐る梯子から首を出す妹に、返事をする気にはなれなかった。
階下で大人たちに何か言われたのだろう。
今日の自分は何を言われても仕方ないくらい、仕事が手に付かなかったから。
自分じゃどうしようもないんだ。アゼルが気がかりで何も手に付かない。
ちょっと目を放した隙にまた誰かに泣かされているんじゃないかと思うと、気が気ではなくなる。
実際には、今のアゼルは滅多な事では泣かない娘だ。
あの日以来、表情も涙腺も凍りつかせたままだから。
それがここ最近、少しずつだが感情を表に出すようになった。
あの悪夢を無意識にでも尾を引く妹にとって、それがどれほど重く貴重な変化かはレイズが一番良くわかっている。
だからこそ、悔しくて堪らない。
その変化を齎したのが自分ではなく、あの灰色の少年だということに。
同じくらい、心配で堪らない。
溶けかけた氷が、またあの小さい手が信頼して伸ばした先で、無残に砕かれてしまわないかと。
心配が募るのと同時に、時々無性に腹立たしい。
自分の心配を他所に積極的に外に出て行こうとする、全てを忘れてしまった青紫が。
それでも、忘れたままでいて欲しいと願わずにはいられない。
守るためなら、何だってする。
明かりの点いていない部屋で兄がベッドに横になっているのを見とめると、アゼルは足音を立てないように部屋に上がってきた。
机の上に皿の載った盆を置き、また忍び足で部屋を出て行こうとする。
「アゼル」
不意にはっきりした声で名を呼ばれて、ビクッと肩が跳ね上がる。
「起きてたの?」
むくりと起き上がると、おいでと言うように手を伸ばす。
その手に釣られておずおずと近づいてくる様子に苦笑が漏れる。
「怒ってないから」
そう言うと下がっていた手を掴み、横に座らせた。
「……何もされなかった?」
妹の銀色の髪をそっと撫でる。石鹸の匂いがする、洗いざらしの湿った髪が差し込む細い月光を乱反射した。きちんと乾かさないと風邪をひくと何度も注意しているのに。
「うん、何も」
「必要以上に触られたり、くっ付かれたりしなかった?」
無表情に小首をかしげる妹を抱き寄せ、肩に顔を埋める。
こんな自分より、ずっと、ずっと大事な。
「大丈夫だよ、…クレスは優しいよ?面白いし。お兄ちゃんがもう一人増えた感じ」
妹の言葉に思わず腕に力が入る。
「お前のお兄ちゃんはオレ一人だろ?だからオレ以外のヤツともう二人で出かけるなんて絶対しないで」
他のヤツにこんな風にくっ付かれたり、ぎゅっとされたりしたら逃げるようにって言っただろう?
何度も言い聞かせてきた台詞が再度口を吐いて出る。
うん…とわかったようなそうでないような返事をして身を捩る。
くすぐったいよ、と頭の下から肩を引き抜き、無理やり体ごとレイズに向き直る。
「クレスは全然怖くないもん。逃げなくても大丈夫」
「いつ変わるかなんてわかんないだろう?」
あいつは、お兄ちゃんじゃないんだぞ。
今度お前に何かあったら、オレは。
仏頂面のレイズを宥めるように、妹は紅い頭を引き寄せ額をつけて囁いた。
「心配しなくても大丈夫だよ。…もう、そんなに来れないって、言ってたから」
苦しげな兄の声を遮るようにアゼルが囁いた。
「…なんだって?」
「春から、学院に行くんだって。だから、休暇の時くらいしか遊びに来られないって」
思いがけない朗報に、銀色の睫毛に縁取られた自分と同じ色をした瞳を至近距離から覗き込んだ。
そこに寂しげな、何かを思案するような色を見つけて、複雑な思いが湧き上がる。
正面から額を合わせようと両手でアゼルの頭を包んだその時。左手に慣れない硬いものが触れた。ぐいと妹の顔を右に向けて右耳をまじまじと見る。痛っと声が上がるが気になどしていられない。
暗がりでそれまで気付かなかったが、耳たぶに一石、銀色の台にムーンストーンがついたピアス。
「お前、これどうした」
「開けたの。可愛いでしょ?」
顔の向きを戻して、珍しく、すぐわかるほどの笑顔を浮かべる妹。
「どうして両耳開けなかった?」
「………お金が足りなくて」
ほんの少し泳ぐ目を見逃さなかった。薄暗い中でもこの至近距離だ。
…じゃあ、もう片方は。
「外せ」
途端に声音が剣呑になる。
「どうして」
「どうしてもだ。新しいの買ってやるから。どうせなら両方開けたらいい」
「嫌だよ。すごく痛かったんだもん。またやるの嫌だ」
「痛いなら外せよ」
「それこそ嫌だよ。せっかく痛い思いして開けたのに」
どうやらアゼルはこの片耳のピアスに込められた意味を知らないらしい。
…もしくは知っていて、受け入れたのか。
大きくため息を吐いて再度最愛の妹を腕の中に閉じ込め、耳元で囁いた。
「頼むから、外して」
「しばらくはずっと外さないようにって言われたの。穴塞がっちゃうから」
「外して即付け替えれば大丈夫だって」
「でも、これ気に入ってるから」
頑なに拒否を示す妹のこの一言に、焦がした鍋から黒煙が燻るような苛立ちを感じ、吐き出すように言い捨てた。
「気に入ってるなら、大事に仕舞っとけよ。髪留めみたいに」
気に入ってるからといって、引き出しに大事に仕舞いこんでいる髪留め。
語気が荒くなってぴくっと肩を震わせる。
その肩を優しく撫で、猫撫で声で耳元で囁いた。
「…あいつとお揃いだから?」
きつく抱き寄せた体が、強張るのを感じ取った瞬間。
がばっと右手で両腕ごと体を拘束し、左手で耳たぶの後ろに手を伸ばした。
兄が何をしようとしているのか気付いたアゼルは、イヤイヤをするように首を振る。
「やぁっやめてっ……はな…してっ…」
辛うじて動く肘から下でレイズを引き離そうと押し返してくるが、うまく力が入らないのかびくともない。
こめかみに口付けるように頭で頭を押さえつけ、どうにか右耳を捕まえて裏のキャッチを摘む。
「お兄ちゃん…っ」
思い切り首を動かし兄の手を振りほどこうとするが、ガリっと言う音と共に力任せにピアスのキャッチをむしり取った。
「痛っ……いやあぁっ」
ついに泣きが入ったアゼルの声に、はっと我に返る。
その拍子に緩んだ腕を振りほどき、ばっと距離をとって梯子に駆け寄る。
「……お兄ちゃんのバカっもう知らないっ」
逆光で顔は見えなかったが、涙声でそう言うとバタバタと梯子を降りていった。
呆然とアゼルが出て行くのを見送り、手の中に残された小さなキャッチを見る。
暗がりの中でも指先に付いた赤黒い汚れが見て取れた。
ふと脳裏に甦る、あの、赤。
茹だるような暑さ。
干草に混じる、鉄錆の臭い。
表情が消えた妹。
思い出すな。
思い出すな。
「…っ」
急に悪寒が走り、キャッチを投げ捨てシーツで指先の染みを乱暴に舐り取る。
「……くそっ」
悪態を吐きながら頭を抱えて、レイズはベッドに倒れこんだ。
レイズは相当ご機嫌斜めだったらしいです。
ファーストピアスって、先が尖ってるし、キャッチが異様に固いし、嫌いです。