Duke's strange daughter
最初は、ただの冗談だったのよ。
紅の光景を眺めつつ、美貌の貴婦人は口元を覆った扇の下で呟く。
その呟きは左に控える執事まで届くことなく、紅葉の中に吸い込まれた。
◆
―――昔々、女王様の治める国の公爵家に、一人のお嬢様がいらっしゃいました。
透き通るような白い肌に、栗色の艶やかな巻き毛と宝石を嵌め込んだような深い緑色の瞳は、見るものをみな虜にし、どこぞの貴族のご子息様から初めての求婚をお受けになったのは、わずか4歳のときのことでした――――――――
そんな御伽噺の主人公になれそうな、未来の社交界の華。
だが実際は友人も少なく、着飾るよりも少年のような格好をして、動物の世話ばかりをしている少女。
物心ついた時から大の動物好きで、様々な動物を飼ってきた。
屋敷で飼っていた馬や犬猫に始まり、ウサギやネズミ、小型の猿などの小動物、南方の国から取り寄せた色とりどりの珍しい魚や鳥、更にはカブトムシやクワガタなどの昆虫の類まで。
本来なら動物の世話などは使用人に任せておけばよいのだが、周りの、特に侍女たちは魚が気持ち悪いだとか、蛇が怖いだとか、きゃあきゃあ言って全く使いものにならず、必然的に一日の自由時間の大半を公爵令嬢自らが動物たちの世話に費やすことになった。
そんな中でも特に熱を上げたのが爬虫類。カサカサした感触、無表情だけれど愛嬌のある顔立ち。
自分がどんな気分でいても、日光の下で我関せずと言わんばかりに飄々として。
足の無い蛇たちも動きがユーモラスでかわいいが、小さい足をチョコチョコ動かして歩くトカゲ類は堪らなく愛らしい。
気がつくと数は増え、当初異国の動物たちの為に別邸に作らせたガラス張りの温室は、トカゲたちの楽園になってしまっていた。
◆
「動物好きの天使ように愛らしい姫」
度々貴族階級の人々の口の端に上るまだ幼い公爵家のご令嬢。生まれついた家柄と妖精と謳われた母から受け継いだ容姿で、貴族社会全体からその将来を注目され、当の本人の与り知らぬところで熾烈な許婚争いが繰り広げられることになった。
大人たちの思惑が絡み、リリスの幼い頃から父である公爵と政治的に近しい貴族の親に連れられて、少年たちが遊び相手として連れてこられる。最終的に娘であるリリスの嫁ぎ先を決めるのは公爵だが、子煩悩で知られる父公爵と共にリリス本人の心象も良いに越したことはないのだ。いつからかそう計算した貴族がリリスと年の近しい息子を連れて、公爵邸に仕事の話をしに来るようになった。
だがどうしてか、父はそんな貴族たちに対して自慢の娘を紹介することはなく、むしろ仕事などにかこつけて娘目当てに屋敷を訪ねてくる親子を積極的に娘に会わせようとはしなかった。そして中途半端に隠そうとするほど、人の耳目を惹きつけようというもの。
自分の不在時に尋ねてくる輩は丁重にお帰りいただくように、と執事にきつく言いつけてあったこと、そうでもしないとリリスのご機嫌伺いに列を成す貴族の数はリリスにお目通りの叶った親子の数倍にも上ったという事実は、リリスがたいぶ後になって知った事柄の一つだった。
そうは言っても一人で過ごしているご令嬢の遊び相手に…と言われると無碍にも断れない。確かに兄弟姉妹のいない彼女にとって年の近い遊び相手は貴重だったが、不運だったのは、幼いながらも自分の息子を紹介してくる大人たちの、こんな年端もいかない少女に媚を売る打算に満ちた笑顔の裏を読み取れてしまうだけの賢さを備えた少女だったこと。そしてそんな親の息のかかった息子たちも、少女の目には嫌悪の対象にしか映らなかったが、そんな心の内はおくびにも出さず、天使の笑顔で親子に挨拶をした。
一緒に遊んできなさいと言われて、下がり際に父がちらりと寄越す心配気な視線の真意を汲み取ることは出来なかったが、それでも目だけで大丈夫、と笑ってみせるのだった。
その時は、パパは私が男の子と仲良くするのが面白くないんだわ、くらいにしか思っていなかった。
貴族の娘として生まれたからには、将来は家が決めた相手のところに嫁ぐのだと物心ついたときから言い聞かされてきたし、最終的に自分の意思なんてその決定には介在できないのだということも幼いながら理解はしていた。
そうは言っても。
―将来の旦那様候補として引き合わされた相手だとしても、せめて自分の小さな可愛い友達とも仲良くしてくれる人じゃないと嫌。
少年たちを試し、むしろあちらから断ってくるように仕向けようと、ささやかな抵抗を試みた反抗期真っ只中の希代の美少女は、その少年たちに屋敷で世話をしている犬や猫、小動物たちに水槽の中の色とりどりの魚たち、自慢の友達を次々に紹介していった。何も知らない無邪気な少女の仮面を着けて。
最初は美貌に笑顔を載せて説明する少女に見惚れていた少年たちだが、その動物たちの種類の多さに呆気に取られ、仕舞いには彼らがそれまで会った中で一番可愛らしい令嬢が喜々として気味の悪い蛇やトカゲたちを抱っこしつつ紹介する様に、顔を引き攣らせることになる。さらに紹介されるだけならまだしも、「抱っこさせて差し上げますわ」と華奢な腕の中の一抱えもあるそれらを手渡されようものなら、半べそをかいて逃げ腰になってしまうのだった。
そしてそんな少年に一転、長い睫を悲しげに伏せ、こうつぶやく。
「私のお友達と仲良くしていただけないなんて…」
そんなことが続くうち、「動物好きの天使ように愛らしい姫」が「爬虫類をこよなく愛する変わった姫」にすり替わるのに、さほど時間はかからなかった。
それは図らずとも、父の杞憂を払拭する一材料となってくれたのだが。
それも、大分後になって知る事実。
当時の少年たちの顔を思い出し、クスッと笑いがこぼれる。
先ほどのつぶやきは届かなかったが、今の思い出し笑いはキアランの耳にも入ったらしく、怪訝な顔を向けてきた。
「いかがなさいました」
水の撥ねる音と粘着質な音が響く中、目の前の情景にはおよそ似つかわしくない柔らかな笑顔を古参の執事に向けた。
「結局あなただけね、一緒にこの場にいてくれるのは」
◆
そんなことを続けて数年。
他所の年近い令嬢たちは次々と婚約を発表し、世間の目はいやが応にも美貌の公爵令嬢に向けられる。
嫌々デビューした社交界では、姫たちの嫉妬の視線と若い貴族たちの熱い視線を一心に浴び、夜会に顔を出せばあっという間に周囲を取り囲まれる。たとえ「変わり者のトカゲ姫」だとしても、その美貌と身分を目当てに擦り寄ってくる人間は後を絶たなかった。人が嫌いなわけではなかったが、向けられる笑顔の奥にある欲に当てられて、気分が悪くなることもしばしば。
毎日公爵家にはどこかの夜会の招待状が届けられるも、リリスの足は自然と夜会から遠のいていった。
そろそろ、リリスも本当に嫁ぎ先を決めないといけない時分だったが、父は一向に花盛りの娘を嫁ぎ先を決める素振りを見せなかった。
渦中の本人もさして焦ることもなく、相変わらず勉強と動物の世話に勤しんでいたある日のこと。
家庭教師の授業の合間に回廊を歩いていたら、侍女たちのおしゃべりが耳に飛び込んできた。
「あー、腰が痛い」
「何、今日アレ?」
「そー、二日目なのー。あー、もう!ホント女って損よねー」
「あんた重たいんだっけ」
「そう、量も多いし。薬飲まないとやってられないのよ。毎月毎月もうイヤッ」
何の話をしているんだろう?
腰が痛いと言っている侍女は病気なんだろうか。アレとは何のことだろう。
具合が悪いなら無理に働かせるのはよくない。侍女長はそんな無体なことをする人間ではないはずだ。
「来たら来たでだるいし、来なかったら来なかったで問題だし」
「このときばかりは女やめたくなるわねぇ」
おしゃべりに花を咲かせている侍女に近づき声を掛けた。
「あなた、具合が悪いの?」
突然現れたお嬢様に驚いて、侍女二人はビクッと身を震わせた。
「お嬢様!申し訳ございません。すぐ仕事に戻りますので」
慌てて礼をとり、その場を去ろうとする侍女二人。その二人を引き止めて、なお言葉を掛ける。
「具合が悪いなら、無理はいけないわ。侍女長に言って休みなさいな」
リリスの言葉に侍女二人は顔を見合わせて、なぜか笑顔で、少し申し訳なさそうにこう言った。
「お心遣いありがとうございます。ですが、ご心配には及びません。彼女のはただの生理痛ですのよ」
「薬も飲みましたので、大丈夫ですわ」
「そうは言っても、毎月薬を飲まないといけない病気なんて放っておいてはいけないわ。きちんと治さないとダメよ」
心配してそう言ったのに、どうしたことか笑い出す二人。
「お嬢様、どんなに優秀なお医者様でも生理痛を無くすなんて出来ませんわ」
「そもそも生理は病気ではありませんし。よっぽどでなければ生理が理由で仕事を休むことはありません。お嬢様はお辛くないんですか?」
ちょっと、そんなこと聞いたら失礼よ、とだるいと言っていた侍女がもう一人を肘でつつく。
少しイライラしてきた。この二人は何を言っているのか。私のことをからかっているのではないか。
「生理なんてもの、私はかかったこと無くてよ。病気ではないなら、一体なんなの?」
生理にかかったことがない。
え、まだ?リリスの言葉に二人は驚いたような顔を見合わせる。
「あー、ほら、アレです。毎月女性に来る月のものですわ」
「生理」にかかっている方の侍女がなぜか声を落として言ってきた。
ほら、貴族様は呼び方が違うのかも知れないじゃない。
小声のままそんなことを言い合っている。
「…月のもの?」
だから一体何の…
苛立った声でそう続けようとした時。
「お前たち、何を油を売っているのです」
回廊に侍女長であり、リリスの礼儀作法の先生でもあるフィリーネが姿を見せた。
◆
フィリーネに今の話題を掻い摘んで説明する。するとなぜか聞いていた侍女長の顔が急激に青くなった。
知らぬ間に何か拙いことを言ったかと、その様子を見た侍女二人にも青が伝染していく。
「ねぇ、フィリーネ」
フィリーネにも「生理」という病気ではないモノは何なのかを問いただそうと口を開きかけるが、言葉を被せるようにフィリーネが声を上げた。
「お嬢様、お部屋でお話致しますのでお茶にしましょう。この話題はお嬢様が無闇に口にするものではありません。女史の講義は後日に振り替えていただきます」
あなたたちは仕事に戻りなさい。…今のことは、他言無用で。
青くなっていた侍女たちにそう言い付けて背を向けると、参りましょう、お嬢様、とリリスに口を挟む隙を与えず部屋に促した。