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The Hatter

そんなやりとりのうちに勝手口の薔薇の木戸を開けた。赤い薔薇が朝露に濡れてしっとり光り、木戸をくぐる度に薔薇の芳香が鼻をくすぐる。毎朝この木戸をくぐる瞬間が、アゼルの密かなお気に入りだった。



飛び石を渡ってキッチンのドアを開けると、マリアンとサーシャが忙しく立ち回っていた。野菜スープのいい匂いが立ち込める。


「ただいまー」

「レイズ、テーブルセッティングお願い」


テーブルにパンを置くと、帰ってくるなりサーシャに言われて、レイズはまだ少し不機嫌そうにテーブルセッティングを始める。


「どうしたんだい、レイズ? アゼル、出来たからベル鳴らして」


アゼルは廊下についている小振りの鐘を3回打った。食事の合図だ。




ほどなく全員がテーブルに着き、いつもと同じ朝食の風景。


この屋敷の住人は総勢7人。

大旦那様、若旦那のウォルター様と、一人娘のサーシャ、家事担当のマリアン、帽子職人のジェム、そしてレイズとアゼル。


他6名が通いで働いている。


あと一時間もしたら、皆出勤してくる時間だ。






忙しい帽子屋の一日の始まりである。






◆◆◆◆◆




今日も射撃の稽古が終わった後、クレスは屋敷を抜け出し裏手の森の中をひた走っていた。


飛ばせば、午後のお茶に間に合うかも知れない。



早くアゼルに会いたい。走りながら苦笑してしまう。

昨日もおとといも、その前も会ったのに。



いっそのこと、アゼルもうちの子になればいいのにな。

あ、でもあの赤毛のバカももれなく付いてくるだろうしなぁ。

……ウザいんだよな。


「…やっぱり一度シメるか」


小さく舌打ちをしてつぶやく。


フルスピードで駆けていた足を止めて、目当ての赤薔薇の木戸を開ける。

甘い匂いが漂う裏庭では、マリアンが洗濯物を取り込んでいた。


「あら坊ちゃん、また来たのかい」

「こんにちは、マリアン。アゼルいる?」


ちょくちょく通ううちに、すっかり帽子屋の面々とも顔なじみになってしまった。


マリアンはこの帽子屋のおかみさんのような存在。元々若い頃は貴族の家でメイドをしていたらしいのだが、本人曰く、貴族のお堅い雰囲気は水が合わなかったらしい。いい加減嫌気が差した頃に、その貴族の家にも出入りしていた大旦那に仕事の口はないか相談したところ、彼の家の住み込みの家政婦を打診され、翌日には引っ越していたそうな。



そんなマリアンは、オレが伯爵家の人間だと知っても、特に礼を取るわけでもなく、その辺の子供と同じ扱いをする。彼女曰く、一般家庭の裏木戸から前触れも無く供も付けずに一人で友達を訪ねて来るようなガキは、貴族扱いするに値しないのだそうだ。なぜなら、数多の尊い貴族様方と比べるのもおこがましいからだと言う。


「‘敬語’とは‘敬う’言葉、と書くんだよ」


彼女なりの、もっと貴族らしく振る舞え、という忠告なのかも知れないが、その一言で彼女のメイド時代が窺い知れようというもの。


そして、「あんたはアゼルの友達だろ?」とイタズラっぽくウィンクを飛ばしてきたのだ。




「あぁ、キッチンでクッキー焼いてるよ。」

「オッケー」



庭の飛び石を渡ってキッチンの勝手口を開けると、アゼルが真剣な眼差しでオーブンの中を覗き込んでいた。こちらを見もせずに話し出す。


「ねぇ、マリアン。あと3分くらいで焼けるんだけど、見た目こんな……」


マリアンが返事をしないことで振り返った途端。オレを認めると、ただでさえ大きな瞳を更に大きくした。


「クレス!もう来たの?早くない?」

「あぁ、猛ダッシュで走ってきたから」


その割には全然息も切れていない。


「フツーは走れる距離じゃないけどね…」


驚いた次は軽くため息をついて呆れていた。


「まぁウサギだからな」


なんてことない風に肩をすくめてみせる。


「クレスが一人で走ると、お屋敷からどのくらいで来れるの?」


戸棚からカップを取り出し、紅茶を注ぎながら聞いてくる。


「うーん、20分くらいかな」


ちなみにダイヤ地区のはずれにある屋敷から、ハート地区の中心にある帽子屋までは馬車で1時間はかかる距離だ。ちなみにアゼルを抱えて走ると35分くらいだろうか。


「えぇっ!?…っあっつ!」

「っ、大丈夫か?」


驚いて顔を上げた拍子にカップからお茶が溢れた。慌ててカップを取り上げ、手近にあったティータオルを当てる。


「『役者』って、やっぱりすごいんだね…」


感心したのか、呆れたのかわからない声音でつぶやきながら、紅茶を淹れなおしたカップを出してくれる。


「オレの場合は足が速いだけだけどな」


実は聴力と嗅覚も人のそれ以上にいいのだが。話したことあったかな。


「もうすぐ焼けるよ。座って待ってて。」


ミトンを手にオーブンの傍に向かうアゼル。


「変なモノ入れてないだろーな?」


ニヤニヤ笑いながらからかってみる。


「…無理して食べなくていいし。」


大きな青紫の瞳を細めてじっと睨んだと思うと、唇を尖らせ背中を向けられてしまった。


「一番最初に毒見してやるよ」


意地悪ぶって更に続ける。アゼルの焼いたのなら、全部食ってやってもいい。

…廊下から誰か来る。杖の音がするから大旦那か。


「他のみんなが腹壊す前に」



「クレスにはあげないんだからっ」

「お、クレセント坊ちゃんじゃないかね」


アゼルが怒鳴りながら振り返ったちょうどその時、廊下からHatsの主、レオナルドが杖をつきながら現れた。



「大旦那様」


思いがけず主人がやってきて、アゼルが少し慌てる。


「いい匂いに釣られてねぇ。呼ばれる前に降りてきてしまったよ」

「こんにちは、大旦那」


お邪魔しています、と立ち上がって挨拶をする。身分からすれば必要ないのだが、そうさせる何かが、この老人にはある。


「ゆっくりしていきなさい。…しっかし、伯爵家の坊ちゃんがクッキーの毒見とはなぁ」


本当にここの連中は、曲がりなりにも伯爵家令息のオレが自分たちの家の台所でお茶を飲んでいても、なんとも思っていないらしい。

…だからこそ、入り浸ってしまうのだが。


「ぃよっこいしょ…っと。…あぁ、ありがとう」


大旦那は膝が悪いらしく、いつも杖を使っていた。支えようと手を貸したアゼルに礼を言う。カラカラと笑いながらオレの向かいに腰を下ろした。



この国1番の帽子職人、レオナルド。齢70に届こうという彼は、先々代のハートの女王の時代から「王室御用達」の免状を頂き、芸術と呼ばれる美しい帽子を作り続けている第一人者だ。

だが当の本人は驕ることもなく、誰とでも気さくに言葉を交わす人物である。


現在は高齢を理由に現役を引退、息子のウォルターにHatsの看板を譲ったものの、現女王がレオナルド指名で帽子を注文し続けているので、今だ「王室御用達」の免状はレオナルドの下にある。この免状はHatsではなく、レオナルド個人が頂いているものだった。

だがレオナルド自身は70歳になる前に返上すると公言しており、次は誰が免状を頂くのかが貴族たちの間で密やかに注目を集めている。



「大丈夫です、大旦那様。クレスにはあげませんから」


大旦那にお茶を出しながらアゼルがまだ拗ねた声を出す。


「大旦那が腹壊したら困るだろ」


立ち上がってオーブンから天板を取り出しているアゼルに近寄る。


「…クレスの分にだけ水銀入れてやる」


…恐ろしいことをサラリと言ってのけやがった。おぉ、怖。と肩をすくめる。

そんなオレたちの様子を見ながら、大旦那はにこやかにカップに口をつけた。


天板から網にザラザラと移されるクッキーを背後からひとつつまんだ。

焼きたてのクッキーは中が柔らかくて甘かった。


「あっ、ダメって言ってんのにっ」

「中やわいぞ、これ」


いつもと違う歯ごたえに、思わず今自分の齧った断面を見やる。


「そりゃ焼きたてだから。冷めればいつも食べているようなサクサクになるよ」

「……そうなんだ」


母のお茶会で皿の上に載っているクッキーしか知らないオレは少し驚いた。


「ほら、クレスどいて。熱いから」


アゼルが2枚目の天板を出してきた。

もう一枚口に放り込んでテーブルに戻る。


「焼きたてもまた美味いだろう?」


まだ口をもごもごさせているオレに、目を細めてレオナルドが笑った。



「あらあら大旦那様、わざわざ降りて来なくてもお部屋まで運びますのに」


マリアンが大きな洗濯籠と一緒に勝手口から現れた。


「今日は天気がいいからね、たまには外でみんなでお茶にしようか。アゼルのクッキーも成功したようだし」


その場の女性陣の顔がパァッと輝く。



「もちろん、クレセント坊ちゃんも呼ばれてくれるね?」

「喜んで」


断る理由なんてどこにもない。


「じゃあ外にテーブルを用意しましょうね。みんな手が空くといいけれど」


私もお客様にお茶をお出ししたら参ります、とマリアンがうれしそうに言った。




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