There is no smoke without fire.
結局ドーンが家に帰り着いたのは、いつもリリスが起床する時間の少し前だった。
屋敷の前でしばし立ち止まってなにやら考える素振りをすると、その足でリリスの部屋に向かう。
より詳しく客観的に言うと、女公爵邸の敷地に入ってからそのまま庭を突っ切って、リリスの私室の窓の脇に生えた樹によじ登り、どうやってか鍵のかかっている窓からリリスの寝室に乗り込んだ。
要するに面倒な面々に会いたくないので、自分の家なのに玄関を無視して最短ルートでリリスの元に直行したのだった。
……そして、現在に至る。
「…リリス様、リリス様ってば。朝だよー」
身体に圧し掛かる重みと耳元で自分を呼ぶ声に、リリスの水底に沈んでいた意識が気泡を巻き込みながら浮上する。
「……」
「おはよう、リリス様」
目を開くと、案の定視界いっぱいに養い子の笑顔があった。
窓は閉めて寝たはずなのに、朝のひんやりした風が頬を撫でる。
「…今帰ってきたの?」
「うん、ただいま」
寝起きのかすれ声に答えて、放蕩息子の金色の瞳が愉しげに光った。
…鍵はちゃんとかけたはずなのに。
昨晩の記憶を確認しながら、麗しい眉間に小さな皺が寄る。
「また、キアランに怒られるわよ?」
こんな風に寝室に上がりこんできたりするから、あらぬ噂も立とうもの。
火の無いところに煙は立たぬ、と言うが、火を出している当の本人たちはお互い周りに何と言われようがもはや気にもしていない。
とは言ってもキアランはじめ使用人たちはそうもいかないらしく、昨夜も有り難い小言を頂いたばかりだが。
「だって、朝からキアランに捕まったらせっかくの朝ご飯が不味くなるって」
ヘレイナに悪いでしょ?
最大の火元はそんな的外れなことを言って、人差し指でリリスの栗色の髪をくるくると玩びながらクスクス笑う。
「早く支度して一緒にご飯食べようよ。…次はいつになるかわかんないんだしさ?」
早くも何も、自分が上に乗っかっているから動けないというのに。
ドーンと前回朝食を食べたのはつい最近のことだが、その前は…すぐには思い出せないくらい前のことだ。ダスクの時を合わせても、養い子と朝食を共にするのは、週に2回あればいい方だろう。昼食はリリスが仕事だとビジネスランチで外に出ることが多い。夕食も然りで夕食会や夜会に招待されることも日常的な彼女は、自邸で、更に養い子と一緒に夕食を摂ることは稀だった。
ね、早くっ、と言いながら少年は養母に圧し掛かっていた身体を起こし、続いてリリスの背に腕を回して軽々と上半身を起こした。
寝起きにいきなり頭を動かされて軽いめまいを起こしたが、その安定感にリリスは内心感嘆の声を上げる。この5年での彼の成長を改めて感じずにはいられない瞬間だった。
出逢ったときは少女と見紛うばかりだった風貌は…あまり変わっていないものの、声変わりもしたし、線は細いがこの1年で背も急に伸びた。最近は女性と間違われて軟派される回数が激減したと、先日ドーンが嬉しそうに話していた。ダスクも同意見だろう。
キアラン辺りにすると、そもそも勝手に出歩いたりしなければ軟派されることもない、とか何とか渋い顔で言われそうだが。
貴族の礼儀作法も身に付き、勉強を教えている家庭教師も賢いと褒めてくれる。素地がしっかり出来てきてなお、涼しい顔をして飄々と夜の街に出て行くダスク。
そして今目の前にいる彼の相方は、その成長を角度のずれた合わせ鏡のように乱反射し、斜に構えて世界を自由奔放に渡り歩く。口を開けば謎掛けと皮肉と冗談ばかりだが。
普通の子供とは違う部分も多く初めのうちは戸惑いもしたが、リリスにとっては育ち盛りの息子が二人いる気分だった。
「今日は何をするの?お仕事?」
ぃよっと、とベッドから降りながら今日の予定を聞いてくる。
「今日は、…孤児院回りかしらね」
ようやくドーンがどいてくれたので、リリスもベッドから起き出した。
窓から入り込む冷気に身震いが出る。
「ふぅーん」
窓を開けっぱなしにした張本人は、自分で聞いておきながら興味無さげな声を出してくるりと踵を返した。
「ドーンは、今日あと何時間くらい?」
窓を閉めながら、椅子に掛けてあった外套を取って部屋を出て行こうとするドーンに声を掛ける。
「…2時間くらいかな」
待ってるから早くねー。
と、打って変わって愉しそうに言い残して、朝の闖入者は寝室を出て行った。
養い子と入れ替わりに、朝の支度を手伝ってくれるメイドが入ってくる。
「おはようございます、ご主人様」
寝室と続きの部屋でドーンと鉢合わせしたはずだ。いつも通りの挨拶だったが、その目には好奇の色がありありと浮かんで見える。噂は本当だったのか、と。
「少し急ぎましょう。あの子が起きているうちに朝食を済ませないと」
美貌の主は侍女の視線も意に介さず、いつもと同じ調子で朝の支度に取り掛かった。
◆◆◆◆◆
今日の説教はいつもより長い。
目の前の少年の辞書に「時間帯を弁える」という文言が一切載っていないということは既に熟知しているキアランはじめ女公爵家の面々だったが、今日という今日は大目に見るわけにはいかなかった。
いくら形式上は母と子とはいえ、リリス様の寝室に窓からあがり込むなど。
警備担当にはきつく言っておかねばなるまい。いくら相手がいろいろと規格外だったとしてもだ。
ダスクとドーン、それぞれに問題児ではあるのだが、ドーンはダスクの比ではない。ダスクは家庭教師をつけていろいろ勉強させているが、ドーンはそれらしいものをほとんどしたことがなく、言葉遣いも礼儀作法もダスクと違って全く身につかず女公爵家に連れられてきた頃と未だ全然変わらない。
日中ドーンが出ているときに家庭教師を呼んだことがあるが、気分が乗らないと気配を察知してさっさと逃げ出すか、教師と向かい合っても相変わらず意味不明な質問ばかりを繰り出しているか、のどちらかだ。
かといって無学で無教養なのかと言えばそうでもなく、ダスクが習ったことは一応ドーンの知識としてもあるらしい。
「キアラン、ボクたち二人だけど脳みそはひとつなんだよ?」
そう言ってこの小生意気な小僧にクスクス笑われたのはいつのことか。
本当にそうならその態度も言葉遣いも、わざとやっているということになる。
―出来るなら、ダスクと同じように振舞えばいいものを。
そう苦言を呈するキアランに、この少年はなんと答えたか。
「リリス様の養子になったのはダスクでしょ?」
けど、ボクもリリス様が傷ついたり本当に困ったことになるようなことはしないから、安心していいよ?
階段の手摺を滑り降りながら言われても、説得力は皆無であった。
そんなドーンの素行をダスクに注意すれば、彼曰く自分ではどうしようもないと言う。
‘彼ら’は記憶として相方の活動を認識するが、お互いの行動に干渉することは一切出来ないらしい。こうしてダスクがキアランに文句を言われているという事はドーンも‘知っている’が、それを聞き入れるかどうかはドーン自身の判断に寄るもので、ダスクの側も同じだという。まるで‘他人事’のように。
だから何かあるとそれぞれが‘直接本人に’言ってくれ、と言うのだ。
しばらく不謹慎にもキアランの小言をクスクス笑いながら聞いていたドーンが、おもむろに口を開く。
「ねぇ、もう寝てもいい?」
キアランのイライラに油を注いだその一言で、そうはさせるかとさらに小言に拍車がかかる。それはこの女公爵家の不肖の息子お得意の逃げ口上だったから。
ダスクになってからでは遅い。ドーンに言わないと。
ただでさえ効き目が疑わしい説教が、本当に無意味なものになってしまう。
だがキアランの努力がこの5年間、実ったとは手放しでは言い難い。
特にドーンについては。
キアランの口調は厳しさを増したが、当の本人は馬耳東風と言った風で大きくあくびをしている。
「そもそも」
更に輪をかけて続けようとしたとき。
本当にその場でパタリと倒れて、事切れたように寝入ってしまった。
今回は前回のような逃げ口上ではなく、本当のタイムリミットだった。
その場に倒れこんで寝入っている少年を見やり、キアランは大きなため息を吐く。
この状態になると、その後は呼べど叩けど数時間は決して目が覚めることはない。
本音を言うとその場に放置しておきたいくらいなのだがそうもいかないので、使用人二人ががりで全く起きる気配の無い少年を寝室まで運ばせると、キアランは朝から口をへの字に曲げて通常の業務に戻るのだった。
◇◇†◇◇
目の前の青年を追いかけて、城下の屋根の上をひた走る。
その後ろ姿も。
頭上の空も。
眼下に広がる城下町も。
…あぁ、また色が無い。
自分はこの青年を知ってる。
知っているけれど。
………
誰だろう?
ちょっと待ってよ。
全力疾走とも言えるスピードで駆ける青年に声を掛ける。
言葉を紡いで、ようやく気が付く。
この世界には、音も無かった。
ボクの声も届かず、青年が息せき切って生垣の中の木戸を開ける。
木戸の中に広がる小さな世界には、
翻る洗濯物と、洗濯籠を抱えた少女が一人。
いきなり飛び込んできた青年とボクの方を振り返った瞬間。
突風で籠の中の洗濯物が舞った。
◇◇†◇◇
There is no smoke without fire.=火の無いところに煙は立たぬ。