Under the half moon
―――5年前の、ある夜。
この時もボクの相方は、飄々と、でも必死に生きていた。
いつだって相方の目を通して見た世界は、どんな夢よりも幸せで、哀しいんだ。
◆
逆光に黒く沈む馬車、その上で煌々と輝く上弦の半月。
あぁ、なんか視たことあるぞ、この画。
多くの映像に埋没して、さして気にしたことは無かったけど。
そんなことをぼんやり思いながら、馬車から降りてきた貴婦人を見上げる。
やはり逆光で顔立ちはよく見えない。暗い色の髪をして、青っぽい色のドレスを着ている。華奢な印象だが背は平均より少し高いだろうか。年齢は、これだけの視覚情報ではよくわからない。
無言で見上げていると、一歩近付いてきた貴婦人が、声をかけてきた。
「あなたが、倒したの?」
鈴が、鳴ったのかと思った。
「…そうだと言ったら?」
はっと我に返り、身構える。硬い声音で突っぱねると、傍らに控えていた従者が腰に差していた細身の剣に手を伸ばした。それをわずかに手で制し、辺りを見回す素振りをして、すご
いわね、とつぶやいた。
意識も無く倒れている大人たち、壊れた帳。確かにこんな惨状を築ける11歳はあまりいないだろう。
声の感じからすると、年は20代半ばくらいだろうか。最初は大人の年齢なんて全然わからなかったけど、たくさんのお客を相手にするうちに、なんとなくわかるようになってきた。
顔は見えないけれど、きっと美人なんだろう。
「強い子は、好きよ。でも、どうしてこんなことに?」
それにしても、きれいな声。かん高くない、耳に優しいソプラノ。うっかり気を許してしまいそうになる。
でも油断したらいけない。貴族の馬車が、どうしてこんな時間にこんな路地を通りかかるのか。
「…先読みの結果が気に入らなかったようで、モメたんです」
「まぁ、そんなことで未来は変えられやしないのに」
少し呆れたように、残念そうにつぶやいた後、黒く塗り潰された貴婦人は今度ははっきりと僕に向かってこう言った。
「先読み師さん、私の未来も占っていただけるかしら?」
「…生憎、今は商売道具が使い物にならないので」
「あら、占いの道具も壊れてしまったの?」
小さく首をかしげて心配そうに聞いてくる。
「…トランプだけは、無事です」
じゃあ大丈夫ね、と嬉しそうに言った。
「場所がここでなくてもいいのなら、私の家にいらっしゃいな」
さ、乗って、とこちらの返事も聞かずに踵を返しかける。
一瞬月に照らされた横顔は、絵から抜けて来たのかと思うくらい綺麗だった。
…今のぼくは、どっちだ?
「…今から、ですか?」
もう結構遅い時間だけれど。この貴婦人も、屋敷に帰る途中だったんだろう。
「帰る家はあるの?」
振り向いて意外そうに聞いてくる。路上生活者だとでも思われたのだろうか。
そうでなくたって、いきなり初対面の人間にそんなことを言われてホイホイついて行く程、子供じゃないんだけど。今時5歳児だって、ついて行かないと思う。
「帰る家は………ありますけど」
帰りたい家は、無い。
僕の警戒も意に介さず、こちらを向いてまた影に埋もれた美貌は微笑んだようだった。
「そう、失礼な事を言ってごめんなさいね。じゃあ、後日にしましょう。…そうね、明後日の夕方はどうかしら」
明後日の夕方。…どっちが出ているだろう。どうせ今からついて行っても、そろそろドーンが出る時間だから、同じことか。
僕が予約を取らない、取れない理由。
予約した時間に僕が出ているか確証が取れないから。ドーンでもカードは出来るけれど、彼に客商売は無理だ。
「…いいですよ。しかし、なぜ僕に?」
どうしてこの貴婦人は、夜道で出くわしただけの子供にここまで構うのか。
「前々からちょっと気になることがあってね、機会があれば視てもらいたいと思っていたの。…それに、あなた自身にも興味があるわね」
言ったでしょう?強い子は好きよ。
そう言ってクスっと笑った。
別に断っても良かったんだけど。
その時、僕の口から出た言葉は。
「………どちらに伺えば?」
「こちらから迎えを寄越させるわ。お家はどちら?」
「…馬車も入れない路地裏ですよ。表の通りにいつも行くお店があるので、そちらに来て下さい」
家の前にこんな馬車で来られても困るから、知り合いのオーナーがいるストレートフラッシュの前で待ち合わせを指定した。
時間を確認した後、では、またね。と貴婦人は今度こそ踵を返して馬車に向かう。
そしてステップに足を掛ける直前、何かを思い出したかのようにピタリと止まった。
そう言えば…
半分振り返って、零れた月光に縁取られた形のよい唇が最後に尋ねる。
「あなた…お名前は?」
◇◇†◇◇
噴き上げる朱に、照り返る赤薔薇。
この喜劇を天上から嬉々として見下ろしている、満月。
あたり一面の朱に身が竦む。
早く、早く。
誰かが叫ぶ。
どこかで、何かがガラガラと崩れる音がする。
あいつがまだ来ない。
何をしてるんだ。
………あいつって、誰だ?
逃げろ。
逃げろ。
朱に飲み込まれる前に。
闇に取り込まれる前に。
月に見い出される前に。
◇◇†◇◇
屋根の上で、少年が寝ていた。
座り込んで伸ばした足を組み、煙突に寄りかかって。
フードを被った頭がもぞりと動く。
頭を動かした拍子に、外套のフードがずり落ちる。紅茶色の前髪がフードに引っかかってはね上がった。
寄りかかっている煙突の端に留まる鳩たちが、下を覗き込んでいる。
「ん……」
眉間にしわが寄り、金色の瞳がゆっくりと開いた。
だがその瞳は焦点が合わず、寝惚けていると言うよりはどこか違う世界を見ているようだった。
ここではない世界を彷徨って数分、ようやく視線が定まってくる。
「う~、寒っっ」
屋根の上で、目を覚ました少年は外套の襟をかき合わせ、ぶるっと身震いした。
東の空はうっすらと紺とオレンジのグラデーションを見せている。
「ったく、こんなところで寝るなっつーの」
風邪引くじゃん。もうそろそろ寒いんだからさ。
さっきまでとは打って変わって軽い口調で一人ごちる。もう朝晩は冷え込む秋の日に、あろう事か屋根の上で寝落ちした相方に文句を言った。面と向かって言うことなんて絶対出来やしないのだから、所詮愚痴の域を出ないのだが。
「まぁ、昨日はエッタが長かったからしょうがないか」
早めに帰るつもりだったのに、エッタとダルシーに捕まって帰れなくなってしまったから。
それにしても。
「5年も経つっていうのに、混じり物も少なくて、キレイだこと」
ねぇ?と鳩に話しかけ、感心したような、呆れたような口調でクスクス笑った。
記憶というものは時間が経つに連れて細部が曖昧になり、他の記憶が混ざり、夢が軸を歪め、正体を失くしていく。
だが、ついさっきまで思い出していた記憶は、他のものとは比べ物にならないくらい純度が高かった。元々物覚えはいい方だと思うけど、それだけ印象が強かったのだろう。
運命を大きく変えた、あの夜が。
「さ、て、と。どうしよっかなー」
うーん、と伸びをして立ち上がって辺りを見渡した。
今日は何をしよう。朝方からボクが活動できるなんて久しぶりだし。限られた時間は有効に使いたいものだ。タイムリミットは、約6時間。ランチの前には落ちる。
刻々と色味を変える空を眺めながら、屋根の上でしばし悩む。
…相方はまっすぐ家に帰って欲しいようなことを思ってたけど、このまま帰ったら、朝食には早過ぎる。
そしてキアランに捕まったら朝食までの時間、延々お説教されるのがオチだ。ヘレイナは食事の準備中だとかまってくれないしな。
寒い屋根の上で考えていても埒が明かない。
喉がざらつく。案の定、風邪の引き始めか。
「とりあえず、あったかいの、飲もう」
早朝から開いているカフェに向かうべく、屋根の上を歩き出した。