His odd adoptive mother
◇◇†◇◇
奇妙な部屋だ。
視線が痛い。
一段高くなったところに鎮座する、
大きな錫杖。
更に遥か手の届かない先には、
青薔薇と、赤薔薇。
――じゃらっ…
重い音。
心臓が跳ねる。
それまで全く気づかなかった、
すぐ隣に立つ存在。
本当の、視線の的。
冷や汗が頬を伝う。
心臓の音がどんどん早くなる。
怖い。
振り向くのが。
僕は嫌でしょうがないのに、
ボクはゆっくり右を向く。
…やっぱり顔は、見せてくれないんだね。
まだ、被った血が、落ちていないのか。
◇◇†◇◇
辺りが急に静かになった。大通りの喧騒が聞こえてくる。
「ぃよっ…と」
木箱から飛び降り、意識のない置いてけぼりの連中と見事に大破した自分の商売道具を見やる。
「言っておきますけど、僕、男ですから」
誰も聞いちゃいないけど。
大あくびが出る。もう眠いし、さっさと代金を徴収して帰ろう。
「先読みの代金と、帳や卓を買い換えるお金はもらいますからね」
さっきのは冗談で、財布ごと持って行ったりはしないけれど。
かがみこんで一番最初に客として来ていた男の懐をまさぐる。動かされて意識は戻らないまでも、うめき声が漏れた。
…足りないし。
しょうがない、他の人からももらうか。
遠くから急に馬車の音が聞こえてくる。角を曲がって来たのだろうか。
どんどん近付いてくる馬車の音。
この道を通るようだ。つと路上に転がった連中を見渡す。大通りとまではいかないが、そこそこ広い路。
轢かれることは…ないか。
気にせずもう一人の傍に寄って、同じように財布を探る。
案の定、右の方から馬車がやってきた。そして……すぐ脇で止まる。
…なんでここで止まるんだ?
隠れてやり過ごすべきだったか。
傍から見たら火事場泥棒みたいに見えたかな。でも、悪いのはこいつらだしね。
ひとまず手を止めて馬車の方を見上げる。その辺の辻馬車かと思いきや、近くで見たら飾り気はないがかなり高級な馬車だとわかる。
そんな馬車に乗れる人間が、何だってこんなところに。
眉をひそめる僕の目の前で、馬車のドアが開いた。
◆◆◆◆◆
―――ダスクがストレートフラッシュにて、エッタの初デートの話を延々聞かされている頃、時を同じくして女公爵邸では。
「ご主人様、またダスク様が見当たりません」
「…あら、いつごろから?」
「わかっている限りでは、今日の夕食の前までは寝室で寝ていらっしゃいました」
窓から望む月は中天に近い。
主人がまだ起きているとメイドに聞きキアランが私室に向かうと、リリスは残っていた仕事を片付け、就寝前のワインを飲んでいた。
報告を受けたリリスはワイングラスから口を離し、悠然と微笑む。
「いつものことでしょう。戻ってきたら、教えてね」
まぁ、帰ってきたら必ず本人が「ただいま」を言いに来るけれど、と独り言のようにつぶやいた。
それも、いつものことである。
一泊、またはそれ以上屋敷を空けた後、何事も無かったかのように平然とした素振りで主人のところに挨拶に行く。そして迎える主も、特に何の違和感も無く「お帰りなさい」と言葉をかける。
あまりにも自然すぎてうっかり日常の風景と化しているが、無断外泊をした子と、それを迎える保護者の光景ではない。断じてない、とキアランは思っている。これが貴族の家であっても、なくても、だ。
「リリス様、お言葉ですが、ダスク様の外泊癖もそろそろお考えになった方が」
もう再三申し上げておりますが、と語尾を濁す。
「あれは今更治るものでもないでしょうに。‘二人とも’ちゃんと説得できれば、どうかわからないけれど」
大丈夫よ、そう言って執事の進言を意に介さず、またグラスに口をつけた。
週に一度の恒例行事に、執事は辟易した様子で続ける。
「でしたら、リリス様から‘お二人’を説得してください。何度も言って聞かせてはおりますが、私共の言葉には耳を貸さないのです。私とて、彼の身の危険を言っているのではありませんが」
「キアラン」
数本の蝋燭と窓から降り注ぐ月明かりの下、絶世の美女と謳われる面の眼差しが細められる。
その美しさによって、表情の冷たさは自ずと3割増しに見えることを、自らの主人をしてよく知っている公爵家の使用人たちである。
申し訳ございません、失言でございました。と謝罪の礼を取った後、執事は更に続けた。
「彼がご自身の身をご自身で守れることはよく存じ上げております。私が心配しているのはそういう問題ではなく」
そんな悠長な女主人の様子に、初老の執事は内心ため息を吐いた。
彼女の父である先代の頃よりこの公爵家に仕えてきた。今目の前にいる彼女のことは、幼少期の頃からまるで年の離れた妹のように思っている。
忠誠を誓った先代からも今際の際に、くれぐれも、と託された大事な一人娘だ。
彼女の成そうとすることには惜しみなく協力し、常に彼女を影ながら支えようと尽力してきた。
彼女が他家へ嫁がず自ら爵位を継ぐと決心した時も、自ら団体を主宰して国全体の孤児院の整備に乗り出すとした時も。
だからこそ。
「もう子飼いとしてただ屋敷に置いていた頃と違います。公爵家の養子として社交界にも出しているのですから、外にいるところを顔を知った者に見られでもしたら」
いくら主のお気に入りと言えども。足を引っ張るような真似は見過ごすわけにはいかない。
「ありがとう、キアラン」
リリスはグラスを置き、椅子の上に足を上げて膝を抱え込んだ。
他の者の前ではこんな行儀の悪い格好はしないけれど、時折、幼い頃から傍にいる年の離れた兄のような執事の前でだけ。
でもね、と膝の上に頭を乗せてキアランの方を向く。緩く一つに結わえた栗色の艶やかな髪が重力に従ってサラリと流れた。
「あなたが調べても、わからなかったんでしょう?それに夜に辻を出し続けるのは、この家に迎えるときの条件だったから、何の理由も無く無理にやめさせることは難しいわね」
使用人たちがいくら言っても、リリスが黙認しているので聞き入れやしないのだ。
当初、キアランは無断で外に出て行くダスクに尾行を付けて不審な行動が無いか調べさせていた。否、そもそも夜自室の窓から外に出て一日二日帰ってこないこと自体、ものすごく不審なのだが。
もう以前のように路上で稼ぐ必要はなくなったのに、どうして毎週のように夜の街に出て行くのか。本人に問いただしても、「僕を待ってくれているお客さんがいますからね」と笑うだけだ。
他の貴族と裏で通じている、あるいは闇世界に関わっているなど本当の意味で危険なことはこれと言って報告されていない。ただ、わかったことは主にスペード地区で辻を立てていることと、その客たちをしても特に怪しげなところは見受けられず。行き着けのパブがあるが、そこでもやはり酔客相手に先読みをしているだけで、帰ってきたときの様子を見ても飲酒の痕跡は見られず、報告も無い。
本当に言葉通り、ただ先読みをするためだけに外に出て行っているようだった。
「養子になってからでしょう?窓から出て行くようになったのは。あなたがダメだと言ったからでしょうに。それをわざわざあなたの目を掻い潜ってまで外に出て行くなんて」
なかなかやるじゃない、とクスリと笑った。
「ですから、リリス様からやめるように言ってくださいと申し上げているんです」
キアランは口元を引き結び、わずかに渋面を作った。
小僧に出し抜かれているようで、面白くないことこの上ない。
なんて面白いのかしらね、と執事のしかめっ面を見てコロコロ笑う。
頭を起こして、ワイングラスを取る。傾けたグラスの中で血のような液体がゆるりと揺れた。
「だから手放さずに置いているんじゃない。もう今更周囲の評判なんて気にしないわ」
確かに、あの少年はいろいろな意味で他の子供と違う。そして目の前の我が主も、いろいろな意味で他の貴族連中とは異なる性質を持ち合わせた人物だ。
「いろいろな世界を渡り歩いているあの子だから面白いんじゃない。それが私があの子を傍に置く理由であって、もしあの子が他の子と変わらなくなってしまったらそれこそ」
お仕置きよ。
エメラルド色の瞳が妖しく光った。
グラスを空にすると、膝を椅子から下ろしおもむろに立ち上がる。
「おやすみ、キアラン」
「おやすみなさいませ」
深々と礼をして寝室に向かうリリスを見送る。
「あ、そうだわ」
ドアのところでリリスが振り返った。
「何でございましょう」
キアランも身を起こして応じる。
「もうそろそろ冬眠に入るわよね。明日にでも冬眠前最後の食事をさせましょう」
「…かしこまりました」
そう言い置いたリリスは再度礼をしたキアランを置いて、今度こそ寝室のドアに消えた。
◆◆◆◆◆
もう西の空に沈みかかった月を見やりながら、器用に家々の屋根を渡り歩く少年。
その速度が、徐々に落ちていく。
5年も前だってのに、よく覚えてるな、僕。
自分で感心する。記憶力がいいのは、僕じゃなくてドーンの方だと思っていたけど。
…あぁ、もう眠いや。
目の前にある煙突に寄りかかってずるずると座り込んだ。
寄り道しないで帰ってくれるといいけど。
そんなことを思いながら、相方の世界に引きずり込まれた。
ダスクの思い出話、あと1話くらい続きます。。。