An unbirthday present
星が瞬いてもにぎやかな通りをわずかに入ったところに、ごくごく小さな、テントとすら呼べないような張が闇に紛れて立っていた。隙間から、ごく僅かに漏れる薄明かりが無ければ、通りかかる人もその存在自体を見逃してしまいそうな、小さな、小さな帳。
若い娘は恐る恐る、その小さな帳の中を覗き込む。
暗いカンテラが一つ天頂から下がっており、ぼんやりと空間を照らしている。
中には小さな卓と、対の小さな椅子が二脚。卓の上には、これまた小さな時計と呼び鈴が一つずつ。
その奥にはフードを目深に被った人物が、一人。
その人物は、娘が幕をめくって中を覗き込んだにも関わらず微動だにしない。
意を決して、ごく小さく声をかけた。
「…あの……」
座っているので身長がわかりづらい上に、フードで顔も見えないので、声を発するまでその人物の性別も年齢も、確信が持てなかった。
「おねえさん、何が視たいの?」
ふいにフードの下から、驚くほど若いテノールの声が響いた。
◇◇◇†◇◇◇
――――――どくん。
心臓が跳ねる。
夜。
暗い室内に銀の月光が降り注ぐ。
そんなモノクロームと見紛うその世界で、闇を撥ね返して唯一鮮やかに映える、
赤。
自分の手を染める鮮血の、
朱。
背を向けて蹲る少年を中心に広がる、
紅。
周囲を取り囲む、頭蓋骨の群れ。
赤、 朱、 紅。
あぁ、お願いだから、
振り向かないで。
『あか』だけが映える、モノクロの世界。
◇◇◇†◇◇◇
毎週樹木の日はショッピング・デーだ。
普段17時の鐘と同時に店仕舞いをするこの国の商店も、毎週この日だけは夜分まで店を開ける。
レイズは屋根裏部屋を抜け出して、夜の商店街を何の気無しにぶらついていた。
気分転換だ。
街灯と店の明かりに浮かび上がる町並みは昼間と全く違う表情を見せ、少年の心を浮き立たせた。如何にかしてそのうちアゼルも連れ出そう、と心に決める。
若旦那のウォルターに師事して帽子製作の修行を始めて以来、昼間はほとんど作業部屋に缶詰の生活が続いている。
苦痛ではない。むしろ望んでいたことだ。当面の目標は、自分の作った帽子がHatsの店頭に並ぶこと。道程はまだまだ遠いのだが、それでも大きな夢に一歩近付いた。
ただ一つ気がかりなのは、オレが作業場に篭るようになってから一人で買出しに出ているアゼル。毎晩その日一日何事もなかったか、問いただして確認するのが夕食後の日課となっている。尋問される方は明らかに鬱陶しそうだが、ここは頑として譲れない。幸いここ数ヶ月、街の連中に絡まれたり、言い寄られたりはしていないらしい。オレの努力の賜物だろう。
それが終わると、夜はそのまま復習をするかベッドに沈んでしまうかなので、時々は息抜きがしたくなる。
週末も外には出るが、昼間だとかなりの高確率で過去に一度は伸したことのある連中に出くわしてしまう。伯爵家での射撃勝負に負けて以降、もうケンカはしないとアゼルと約束させられた手前、そいつらと会っても向こうから突っかかってこない限り、相手にしないように努めていた。
だが一度だけ、もう名前も覚えていない命知らずがリベンジを挑んできて、あっさり返り討ちにしてやったことがある。もちろん、オレからは仕掛けてない。どこも傷にならなかったし、服も調えて帰ったのに、アゼルはなぜか帰った途端に見破った。
正当防衛だとどれだけ言っても聞く耳を持たず、その後優に二週間は口を利いてもらえなかった。
…全く、誰のためだと。
幸か不幸か、それ以降レイズに勝てないことがわかってる連中のほとんどは直接ケンカを売ってくることは無いものの、遠巻きに癇に障る視線を送ってくる。…息抜きどころか、ストレスが溜まる一方だ。
結局2、3週に一度、そこそこ人も多くて暗くて、遠くから顔の判別しにくいショッピング・デーの日の夜に外に出るのが習慣になりつつあった。その方が、大通りのウィンドウもゆっくり眺められる。
――帽子は常に装いの鍵を握っている。洋服に付き従うだけではいけない。ただの形式美に埋もれてしまってはその意義は半減する。パートナーである洋服やジュエリーを引き立て、尚且つ身につける人自身の第一印象をも引き上げる存在でなければならない。
仕上げに帽子や髪飾りを飾ることで、初めて装いが完成するんだ。相応しいヘッドアクセサリが決まらないコーディネートなど、イチゴの載っていないショートケーキのようなものなんだよ。
パートナーを知ることは、とても大事なことだよ。帽子以外のことも、大いに学びなさい。
いつかの夕食での大旦那様の言葉は、帽子屋の仕事に対しての情熱に満ち溢れていて、この帽子屋で働いていることがとても誇らしくなったものだ。
その夜は、アゼルと二人で将来の自分たちの店について夜中まで語り合った。
一通りウインドウを眺めると、昼間と違う顔の見慣れた町並みをぶらつき、ジュース片手に店先を冷やかしたり、大通りの広場の噴水前で人間観察をするくらいで時間が過ぎる。
しばらくそうして過ごしてから、遅くならないうちに、何事もなかったかのように窓の傍にある枝を伝って屋根裏に戻るのだ。
大通りから一本入った通りで、普段は見向きもしない小間物屋で足が止まる。
店先に並ぶ髪留めが目に入り、先日アゼルが、髪が伸びてきて邪魔だから切ってしまおうか、なんてとんでもないことを言い出して慌てて止めたことを思い出した。
レイズは妹の髪がとても好きだった。
一つ下の妹は自分と同じ青紫の瞳をしているが、髪は自分のそれと違って、月の光を吸い込んだような銀色をしている。太陽の下できらめくそれもまぶしくて好きだったが、夕暮れ時に紅紫色の光を受けて染まったアゼルの髪は、この世のどんな銀糸にも負けないくらい綺麗だと思う。
部屋が違ってもレイズは毎朝アゼルを起こしてやるつもりだったが、最近はさすがに一人で起きなければと気が入ったのか、レイズが朝部屋に行くともう起き出している。それでも髪だけは、レイズが毎朝櫛を入れてやるのが変わらない日課だった。
だから、出来るだけ伸ばしていてほしいと言うのは、レイズの我儘だ。
…特に誕生日でもなんでもないけれど、アゼルに髪留めでも買ってやろうか。確か一つしか持っていなかったはずだし。
色とりどりに並ぶ髪留めを眺めていると、その中の一つが目に留まる。
薄いピンクの小さな花がいくつか寄っている周りに緑の葉が3枚ついているデザイン。嵌め込まれた色付きガラスが灯りを反射して煌めいた。これなら店の深緑の制服にも合うだろう。
髪留めの値段の相場なんて知らないが、ざっと他の品物と見比べると中の上くらいの値段。
…まぁ、たまにはいいか。
代金を払うと、大事にジャケットのポケットに仕舞い込んだ。
◆◆◆◆◆
そろそろ今日は閉めようか。
自分と客一人しか納まらない小さな帳を解体する。
いつもならショッピング・デーは掻き入れ時だが、普段ハート地区には立たないせいか、どうも客足は鈍かった。場所を見誤ったらしい。
次回はハート地区に立つ時は、もう一本上った通りが良いかも知れないな。けれど、
「やっぱり‘ストレートフラッシュ’が一番だな…」
一人ごちて荷物をまとめていると、
左手奥の角から、少年が現れた。片手にビンを持って、もう片方の手はジャケットのポケットに突っ込んでいた。
この通りは商店街を一本入った道。喧騒はここまで響くものの、実際の人通りの少ない。当然こんな時間にこんな所でなにやら荷物をまとめている自分はこの辺の人間じゃないし、かなり怪しいだろう。すっ、と遠巻きにすれ違われる。
ボクも横目でその姿を確認したその瞬間。
手にしていた椅子を取り落としそうになる。
目の前で再生される、忌まわしい真紅の映像。
心臓がいきなり自己主張を始めた。
――あぁ、忘れたかったのに。
…本当にこの少年なんだろうか。体格からして、若干年齢差があるけれど。
確証は、何も無い。
……あれは、いつのことだ?
ただ、その髪。…暗闇に浮かび上がる、その髪の色。
「………君っ…」
気がついたら呼び止めていた。
ボクの顔は、闇とフードでわかるまい。今のボクは、一体どんな顔をしているだろう?
暗闇に慣れた目にも、少年にしてはやや長めの髪が、わずかな月光りで暗赤色に浮かび上がった。闇の上に影が入って、その顔はほとんど見えない。
その色。
真紅の中心。
終ぞ顔はわからないけれど。
呼ばれて振り返った少年。
―――あぁ、お願いだから。
振り向かないで。
「…何か?」
世界の狭間に立っていたボクは、初めて聞くその声で‘こちらの世界’に引き戻される。
おそらく訝しげな表情でボクに目を凝らしているのだろう。当然だ。こんな夜道でいきなり呼び止められて、警戒心を持たないワケがない。
しかもこんなフードを目深に被った不審者に。
なんと、言祝げばいいだろう。
血の海に沈む少年に。
「凶暴な満月には、くれぐれも気をつけて……ね?」
いつも通り口角を吊り上げながら口をついて出た、いつも通りの遠回りな嘘のない言葉は、
祝福ではなく、警告だった。