秘密のキスは一度きり
とうとう婚約者が決まってしまった。
顔合わせは一月後、夏季休暇に入ってすぐの第三日曜日。
父であるテーバー子爵からの手紙には、相手の名前や詳細の記述は一切ない。
やはり目立ち過ぎたのだろう。
後悔が胸に押し寄せるが、もうそんなことを考えても決まってしまったことは覆らない。
ロレッタは重い息を吐いて目を瞑る。
数ヶ月前、外国語の授業の自由課題で、旧アリイタ語で書かれたお伽噺を三ヶ国語で翻訳したのだが、どういう訳かそれが学園に在籍している一学年下の王妹殿下の目に留まり、いくつかの外国の物語の翻訳を願われたことが原因だ。
昔から物語が好きで、外国の物語や古語で書かれたお伽噺を訳していたのだが、完全な趣味の域だったのでロレッタは大変驚いた。
そして、驚き慄きながらも翻訳をしたものを恐る恐る提出した。
すると、これまたその翻訳が王妹殿下に好評で、学園で目立たなかったロレッタは一気に有名になってしまった。
語学に精通していて、王妹殿下の覚え目出度い女生徒である、と。
結果、ロレッタは注目を浴びることとなった。
普段声をかけられないような面々から話しかけられることは光栄なことなのだろうが、目立つのが苦手なロレッタにはとても苦痛な出来事だった。
授業中も、休み時間も、委員会の当番時にも、いかなる時も刺さる視線のせいで三キロほど体重が減ってしまった。
しかし、そんな視線が煩かったのはほんの少しの期間だった。
それもそのはず。
ロレッタの成績は語学系以外、中の中。
そして容姿は、普通過ぎるほどに普通──ありきたりな茶色の髪と同色の瞳。色白だがそれ故に、そばかすが目立つ痩せっぽちで特徴のない見た目をしている。
なので、とびきり可愛いと噂の転入生のおかげで三週間もすれば痛いほどの視線はなくなった。
ああ、これで平和な学園ライフが送れる、と安堵の息を吐いた矢先、ロレッタは父に呼びだされた。
そして、
『これで良い縁談の話がくるだろう』
でかした、と。
父はそう言ってロレッタを褒めた。
しかし、ロレッタは全く嬉しくなかった。
そもそも兄と姉がいる末っ子のロレッタの結婚は自由にしていいと言われていたのだ。
それがなくなったのだから、落ち込むのは当然である。
それが父には分からないのだろう。
こっそり泣いたことは記憶に新しい。
ロレッタには今、好きな人がいる。
学年が一つ上のヴァージル・ロフトン・レナードだ。
二年連続同じ図書委員会に属している彼は、柔らかそうな明るい色の猫っ毛を『軟弱そうに見えるから嫌だ』と、言う拗ねる顔が可愛い人である。
まだ学園に入学して間もない頃、図書室の受付席に座って読書をしたり課題をすることが苦ではないロレッタは、受付当番を代わってほしいと頼まれると特に気にもせずにそれを請け負っていたのだが、その様子をたまたま見たヴァージルが『もしかして、押し付けられてる?』と心配してくれたことが恋のきっかけだ。
『断りにくかったら俺に言ってね』と、心配そうに眉を下げた彼にロレッタの心臓が跳ねた。
それを機にロレッタは、ヴァージルに目をかけてもらっている。
一後輩としてだが、好きな人に気にかけてもらうということは、とても嬉しいことだ。
正義感が強くて、友人が多くて、教師からも信頼されていて、でも時折自習時間に学園を抜け出して街に降りて買い食いするという、ロレッタには到底できないやんちゃぶりを発揮するヴァージル。
そんなヴァージルの話を聞くのが楽しくて、図書委員会の受付当番が彼と被った日は、読書をするよりも二人で言葉を交わすことが何よりも嬉しい。
横顔が綺麗で、ロレッタがハードカバー越しに盗み見ていると、頬杖を突いたヴァージルが目線だけをこちらに向けて『どうした?』と小さく聞いてくるのが堪らなく好きで、だけど何回もしては失礼なので、できるだけ視線を頭に全く入ってこない活字にやりながらドキドキしたり、静かな空間でこそりとお喋りしたりと、ロレッタは初恋を大事に、そしてひっそりと慈しんでいた。
だけど、ロレッタはこの恋が叶うなんて思っていなかった。
これっぽちも。
今も思っていない。
なんせ、ヴァージルは人気がある。
過去、受付の当番が一緒の時に彼が呼び出されていた場面に何度か遭遇したこともある。
彼がロレッタに『告白された』などと報告したことは一度もないが、彼を呼び出した女の子達の表情を見れば一目瞭然だ。
◇
父の手紙には、『顔合わせだから気軽な気持ちで』と書かれていたけれど、この婚約は成るだろう。
……学園を卒業するまで待ってくれる人だといいのだけれど。
ロレッタはそんなことを思いながら、頭に入ってこない本の頁を眺める。
「はあ」
大好きな人と一緒に過ごせる当番の日だ。溜め息は絶対に吐かないようにしようと思っていたロレッタは、自分が大きな溜め息を吐いてしまったのかと慌てて、隣りにいるヴァージルを見やると、頬杖を突いている彼と目が合った。
「はあ」
溜め息を吐いていたのは、ヴァージルだった。
「……何か憂い事が?」
こそりと聞くと、ヴァージルは「そんなとこ」と言って、困ったように弱々しく微笑んだ。
その様子に、ロレッタは眉を下げる。
ロレッタが好奇心の視線に参っていた時、その様子に気付いたヴァージルは元気付けてくれた。
当番を代わってくれて、寮に早く帰れるように気遣ってもくれた。
礼を言うと、ごくごく軽い口調で『気にしないで』と言ってくれた。
声が大きくて目立ちたがりな同級生に『目立っていいじゃん』と言われた後だっただけに、ヴァージルの対応がとても嬉しかった。
まあそのせいで益々彼のことが好きになってしまって、叶わない恋を育てることになったのだけど。
それはそれ、これはこれだ。
今こそ、ヴァージルに恩返しをする時である。
「悩み事は口にすれば、解決すると言います。私で良かったら、聞かせてください」
他言は致しません、とロレッタが言葉を締めると、ヴァージルは「ん」とだけ言って頬杖の恰好を崩してカウンターに突っ伏した。
ただの後輩風情に話してくれるわけないか、とロレッタが俯くタイミングで「ロレッタ」と名前を呼ばれた。
甘えるような声色にドキドキしながら、ロレッタが「はい」と返事をすると、澄んだ水色の目と目が合った。
「婚約者ができたんだ」
「そう、なんですか……」
がんっと、頭を殴られたくらいの衝撃がロレッタを襲った。
「相手は俺の一個上で、俺の学園卒業と同時に結婚だって、今日の朝、電報が届いて知ったんだけど……俺、次男だろ? 結婚は自由でいいって言われてたから、なんかショック受けてんの。笑えるでしょ、女々しくて」
いえ、そんな。
ロレッタは小さくそう言って首を左右に振る。
「あの、つまり、先輩は想う方がいらっしゃったのに、婚約者ができてしまって落ち込んでるのでしょうか?」
知りたくないのに、気が付けば、質問はロレッタの口から溢れてしまっていた。
聞いたら、後悔すると分かっているのに。
「うん、そうだね」
「……」
どうしよう、泣きそうだ。
「卒業する時に告白するつもりだったけど、まあ、もうできないな、告白は」
「どうしてです?」
「政略結婚だとしても奥さんのことは大事にするべきだから」
ああ、素敵だなあと、ロレッタは思った。
そして思ったままの言葉が溢れた。
「先輩のそういうところ、とっても素敵です。……想われてる方も、結婚なさる方も、羨ましいです」
「……え? 待って。羨ましいってどういう意味?」
むくりと起き上がったヴァージルが目を真ん丸にしていたのを見て、ロレッタは慌てて、ガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
「あ、あ、す、すみません! その、えっと! そんな風に誠実な考えを持っている先輩が、素敵、ってことで! あの、深い意味は、」
「ふ。声でか」
「す、みませんっ!」
図書室には人数が少ないが生徒が何人かいて、顰めた眉でこちらを見る生徒にロレッタは慌てて頭を下げた。
ヴァージルに「落ち着いて」と言われて手首を引かれてロレッタが席に座ると、「ありがとう」と礼を言われた。
ロレッタは何もしていないのに。
「ロレッタの言う通り聞いてもらえたら、少しすっきりした」
「私で良かったら、いつでも何でも話してください。絶対言いふらしたりしませんから」
「ん。またなんかあったらまた聞いて」
「はいっ!」
大きな声で返事をしてしまい、焦ったロレッタはぐるりと図書館を見渡す。
が、どうやら要らぬ心配だったようだ。安堵の息を吐く。
「はは」
笑うヴァージルは、まだロレッタの手首を緩く掴んでいて、心臓の鼓動が早まった。
「腕、細」と呟くロレッタの手首を掴むヴァージルの親指は中指の第二関節に重なっている。
「……先輩の手が、大きいんですよ」
ヴァージルの手の温度が高く、ロレッタはわーっと叫びだしたくなった。
「ロレッタもさ、なんかあったら俺に相談して」
手がぱっと離されたと同時に放たれた言葉に、ロレッタは首を傾げた。
「今日、元気ないから。……あー、先に聞けばよかったのにね、俺の話なんかして……」
「そんなことないです、私が話してって言ったんですから気にしないでください」
「そ?」
「はいっ」
「じゃあ、次はロレッタの番だ」
「次って……」
「『悩み事は口にすれば、解決すると言います』なんじゃないの?」
そう言って笑うヴァージルにロレッタは身を縮めて、「あの」と、もごもご話し始めた。
「実は、私も婚約が決まりまして……」
ロレッタは言っている途中で視界が少し揺れ、最後まで言葉が紡げなかった。
「誰と、って聞いてもいい?」
ほら、とヴァージルにハンカチを渡され受け取って謝ると、頭を撫でられて、現金にも喜びで涙が引っ込んだ。
「それは私も知らなくて」
「……泣くほど結婚が嫌?」
さっきまで笑っていたのに心配そうな顔をしているヴァージルは、勘違いしている。
この涙は、彼の婚約者への嫉妬のものなのに。
「い、いえ、結婚自体が嫌というか、その、私も先輩と同じで結婚の自由が許されていたので、少しショックを受けてしまって」
「俺と同じ? てことは、結婚したい男がいるってこと?」
「いえ、ただの片想いです」
「告白は?」
「迷惑をかけたくないんです。それに、私なんかに好かれたって嬉しくないと思います。……身の程を弁えれば、できません」
呼び出しから帰ってきた彼はいつも少し疲れが滲んだ表情をしていた。
それがとても綺麗な人でも、可愛い人でも、彼の表情にはいつも同じ色があった。
迷惑だと思われたくない。
それで避けられたりでもしたら、と考えると怖くて堪らない。
告白なんて以ての外だ。
「俺なら、嬉しいけど」
「…………え?」
嬉しい? 何が?
「もしも、俺が、ロレッタに好きって言われたら嬉しいよ」
ヴァージルの眉は皺が寄っている。
「いいな。そいつが羨ましくって、妬ましい」
それは、心底悔しい時の彼の癖だった。
先月の体術の試験で三番だったことを報告した際に見せたのと同じ顔をしている。
あの時も、『一番が良かった』と言ってこんな風に眉を顰めていた。
「……先輩、です」
言わないつもりだったのに、気持ちが口から飛び出していた。
え、と聞き返すヴァージルにロレッタは「先輩が『そいつ』って言った人です」と続けて、「え」の口の形のまま固まっている彼に言う。
「好きです。私、先輩のことが、好きです」
ぎゅっと目を瞑って言った言葉は小さかった。
しかも、返事がなくて、ロレッタは不安になりそろりと目を開けて顔を上げた。
「先輩、あの……?」
聞こえましたか、と聞こうとしたタイミングで、ヴァージルが椅子からずり落ちた。
「わ、先輩、大丈夫ですか?」
「……は?」
ヴァージルは、着地に失敗してぽかんとしている猫みたいな顔をしている。
図書室内をちらりと確認してからカウンターの椅子を除けてしゃがむと、ヴァージルに腕を引き寄せられた。
「……え、ま、まじで? ロレッタ、俺のこと好きなの?」
「は、はい、『まじ』です、好きです」
「うわ、どうしよ、嬉しい。あ、俺も、ロレッタのことが好きだ……はあ、なんか格好悪い告白だ、ごめん」
「いいです、嬉しいです。それに、格好悪くないです。先輩はいつでも格好良いですから!」
嬉し過ぎて余計なことを言ってしまったようだ──ロレッタはいつも、言葉を発してすぐにやらかしに気が付く。
揶揄われてしまうかも、と思ったのにヴァージルはそうしなかった。
それどころか、
「ごめんついでに、キスしてもいい?」
なんて聞いてくる。
ごめんついで???
「……あの、さっき、『政略結婚だとしても奥さんのことは大事にする』って言ってませんでした?」
「ごめん。聞かなかったことしてくれると助かる」
「素敵だって思ったのに」
「うん、ごめん」
「……」
真っ赤な顔でロレッタがヴァージルを睨むと、彼は眉を下げてからしょんぼりといった風に目を伏せた──ロレッタは彼のこの仕草にとても弱い。
「ほんとごめん。でも、好きな子が俺のこと好きって言ってたら、我慢できないよ……だめ? 嫌?」
ロレッタは負けた。
婚約者さんに悪いからだめです! と言って拒否するのが正解だろうと分かってはいたが、ロレッタは気付けば目を瞑っていた。
だって、嫌じゃない。
刹那、首に手が回り、ふに、と柔らかいものを唇に押し当てられて呼吸が止まる。
それはとても短い時間だった。
でも、数秒触れるだけで離れただけなのに、ロレッタは茹でられたように全身がすっかり熱くなってしまった。
「……私、もう先輩と受付当番できる気がしません」
「え、なんで」
「思い出しちゃうから……」
ロレッタが手のひらで顔を覆いながら囁くように言うと、「うん、俺も」と至極真面目で且つ深刻そうな声が返ってきた。
ロレッタは今まで心をときめかせていた恋愛小説が霞んでしまう、と思った。
そして、忘れるには時間がかかるだろうな、とも思った。
──翌日から二人が顔を合わせることはなくなり、そのまま夏季休暇を迎えることとなった。
◇◇◇
あの秘密のキスを心の支えに、生きていこう。
なんて、思っていたことがロレッタにもあった。
ありましたとも!
あの日以来、会うことをやめ、遠くから眺めては視界をぼやけさせ、悲恋に酔っていましたとも!
と、いうロレッタの心の中の声が聞こえるようである。
お分かりいただけるだろうが過去形だ。
「ヴァージル・ロフトン・レナードです」
「……ロレッタ・フラー・テーバーと申します」
──つまり、そういうことだ。
「この度は顔合わせのお時間を取っていただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、わざわざお越しいただきありがとうございます」
父同士がにこやかに握手を交わす横で、早朝より頭のてっぺんから足の先までピカピカに磨かれ、薄桃色のドレスでラッピングされたロレッタは、目の前にいる髪を固めて後ろに撫で付けている正装姿のヴァージルに見惚れていた。
黒いジャケットに同色のスラックスを纏う彼は、制服姿とは違った魅力がある──有り体に言って、とても格好良い。
そんな風に夢見心地でぽんやりしていたロレッタは、ヴァージルと目が合った。
可愛い、とヴァージルの音のない声で言われたロレッタの顔が熱い。
「花はお好きかな?」
彼の父であるレナード伯爵が、ロレッタに尋ねてきた。
父との話の流れを聞いていなかったロレッタが少し慌てて「はい」と、赤い顔のまま返事を返すと、「庭を案内しましょう、ジニアが見頃なのです」と余所行きの声のヴァージルに手を差し出された。
おずおずと手を取ると、「行きましょう」とこれまた作った声で言われ、ぎこちなく頷く。
「はい……」
ロレッタは緊張して手の汗がすごいことになっていて、手袋が湿っぽい。
ドキドキしながら部屋を出る時、「可愛らしいお嬢さんを息子は気に入ったようです」と言うレナード伯爵夫人の声と、「娘の顔を見まして? 素敵なご子息に見惚れてましたわね」と返す母の声が聞こえて、ロレッタはいたたまれない気持ちになった。
◇
「ロレッタは俺が相手っていつ知った?」
「昨日、知りました」
そう、彼が婚約者ということを、ロレッタは顔合わせ前日に聞いたのである。
学園の寮から帰省した夏季休暇の三日目。そういえば顔合わせする婚約者のお名前は? と母に聞いて大層呆れられ、父から『ヴァージル・ロフトン・レナード伯爵令息殿だ』と教えられ、信じられずに繰り返し聞いて、三回同じことを返され、四回目の質問ではついに怒られた。
手紙に書かなかった父が悪いことは明らかで、父も母にしっかり叱られていたが。
そして、婚約者の名前や詳細を知らなかったのはヴァージルも同じであった。
「俺は帰省がぎりぎりだったから、今朝知ったんだ。電報で『一つ下』っていうのがロレッタで、『卒業を待たれる側』もロレッタだったってことも」
ヴァージルは婚約者が自分よりも一つ上で、自分の卒業を待って婚姻を結ぶと思っていたのだが、これが勘違いだった。
この勘違いがなければ、ロレッタが彼の婚約者に嫉妬して泣くこともなかっただろう……。
つまり、ロレッタが自分に嫉妬することもなかったということだ。
「でも、仕方ありませんよ、電報は送れる文字が限られてますから」
「それにしたっていい加減だと思わない? いくら忙しいとはいえ……」
レナード伯爵は海運業を営んでおり、夫婦揃って急遽家を空けることとなった為、港町から電報を打ったそうだ。
「ふふ。でも、私の父も手紙に先輩の名前を書き忘れていましたし、おあいこです」
「確かに。ロレッタのお父上が俺の名前を書いていれば、あんなに盛り上がらなかったしね」
『あんなに盛り上がらなかった』という言葉にロレッタは赤みが収まってきていた顔を再び真っ赤に染めて、ヴァージルを睨んだ。
が、睨まれたヴァージルは、ふっと笑うだけで余裕綽々だ。
「まあ少し考えれば分かることだったんだ、外国語に明るいロレッタが海運業に必要だって。でも、ショックでそこまで頭回らなかったんだよなあ。加えて、父さんの不親切な電報で、勘違いしちゃってさ」
ヴァージルは学園を卒業後、彼の父と兄の仕事を手伝うことが決まっている。
「私がお役に立てればいいのですが」
「外国語が話せなくたって側にいてくれたらそれだけで嬉しいよ?」
「あ、はい」
照れて素っ気ない返事をしても彼はご機嫌に見えて、なんか狡い。
「兄さんがもう結婚してて本当に良かった」
「え?」
「下手したらロレッタは俺の義姉さんになってたってことだろ? ……想像するとゾッとする」
彼の手が、ロレッタの手を拐った。
ヴァージルの手はとても大きいので、こうして手を繋いでいるとロレッタの手がとても小さいもののように感じられて面映い。
彼の手指はごつごつと骨ばっているので、指を絡めて解け難い繋ぎ方をするとロレッタの細い指は少し痛むのだが、離れたいとはほんの少しも思えなかった。
歩いているうちにレナード伯爵自慢の庭に到着した。
白、赤、桃、橙、黄、緑のジニアが咲き誇る庭は圧巻の一言だ。
ロレッタは自分の目が喜んでいるのが分かった。
ロレッタの実家の庭は緑と白を基調にした庭なので、こういったカラフルで鮮やかな庭は見ていてとても楽しいのだ。
そう言うと、ヴァージルは「俺は緑と白の庭のがいいけどね」と戯けるように言ってロレッタを笑わせた。
しかし、彼はそう言いつつ花が好きなのだろう。
その証拠にガゼボに行く道の途中に咲く花の名を教えてくれる。花言葉まで知っているのだから、これで『好きじゃない』は通じない。
彼の『好き』は分かりやすくていい。
ガゼボに着くとロレッタだけが座らされ、その足元にヴァージルが跪いた。
少し遠くからこちらを覗っていたメイド達の驚く声が風に乗って届いて、ロレッタはまるで夢の中にいるような心地になった。
なんだか、自分が特別な何かになれたかのような、そんな気持ちだ。
「ロレッタ・フラー・テーバー嬢、私と夫婦になっていただけますか?」
「……はい、喜んで」
感極まったけれど、ロレッタはなんとか返事ができた。
ロレッタが断るはずがないのに。
どうしてそんな安心した顔をしているのか、とおかしくて笑みが溢れた。
「初めて会った時から可愛いなって思ってたんだ、ロレッタのこと」
ゆっくり立ち上がったヴァージルが、ロレッタの隣に座りながら言う。
「え、嘘です」
ロレッタは可愛くない。十人並みだ。
「嘘じゃないよ。話したらもっと話したくなって、当番を一緒の曜日にしたくて代わってもらってた」
「さ、さすがにそれは嘘ですよね……?」
確かに当番が被る日は多かったけれど……。
「嘘じゃないってば。牽制も頑張った。そのおかげで今じゃ皆、空気を読んで当番を譲ってくれるし、虫もついてない。有り難いよね」
「嘘!」
ケンセイ? けんせいって何語だっけ? ん? 虫?
「だから、嘘じゃないよ、もう。読んだ本の感想を言うロレッタの顔が可愛くて、俺は興味もないのにロレッタのお薦めの恋愛小説を十冊も読んだ。面白いって言ったけど、あれこそが嘘だよ」
「嘘!?」
あんなに面白いのに!?
……さきほど『好き』が分かりやすいと思ったばかりなのに、すっかり騙されていたようだ。
ロレッタは思わず、じとりとした目でヴァージルを見てしまう。
「ええっと、卒業する時に『結婚を前提にお付き合いしてください』って言うつもりだったのは本当だよ?」
「もしそうだったら、私は絶対さきほどと同じ返事をしていました。……私、先輩のことが大好きだもの。先輩のお嫁さんになれるなんて、夢みたい……」
瞬間、ロレッタは自分がとんでもなく恥ずかしい言葉を言ったことに気が付いた。
「い、今言ったことは、忘れてください」
「どうして」
「恥ずかしいからです……意地悪なこと聞かないでください」
「分かった。そのかわり、キスしてもいい?」
そのかわり???
……あれ? 前にもこんなことがあったような?
しっしっ、とメイド達に下がるように手で払う仕草をするヴァージルに、ロレッタが頬を膨らませるけれど、彼には全く堪えてない。
「嫌?」
肩を引き寄せられ、顔を覗き込まれ、水色の瞳から目が逸らせない。
けれど、ヴァージルはロレッタが逃げられるような力加減で、選択肢をくれていた。
ロレッタが嫌だと言ったら、きっと彼は何でもない顔で離れるだろう。
でも、それは言いたくない。
それに逃げる理由もない。
「嫌じゃないです……」
「ふ。顔、赤。可愛い」
「……先輩は憎たらしい顔してます」
「ごめん。でも好きでしょ?」
ロレッタはヴァージルにお薦めの恋愛小説を読ませてやる、と決めて目を閉じた。
【完】