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ブックレビュー

ブックレビュー2 中村文則『私の消滅』

作者: みかげ石

 私は彼の本を二三読んだに過ぎませんが、いわゆる純文学のジャンルにおいて群を抜いた感性と表現力を持った作家だと思います。ほかの芥川賞作家が気の毒に思えるほど、彼の書くものは鮮烈で抗いがたい引力を持っているというのでしょうか。

 そういう時代を牽引しうる作家を評価できるなどとは思いませんが、私が感じたものを何かしら言葉にしておかないと、これからもおそらく彼の本を手に取る未来の自分に対して示しがつかないとも思いますので、少しは心を砕いてみたいと思います。

 なおこの作品は、「ネタバレ」をしてしまうと作品そのものの価値を損なうようにも思いますので、その辺りの配慮をした上で書くことになるでしょう。『西の魔女』を読み終えてすぐ、これを読むのは苦しいものがありましたし、中身に触れずに感想を書くことも、これはこれで神経を使いそうですが。



中村文則著 『私の消滅』 (文春文庫 175頁)

おすすめ度 ☆4 (10段階の8)


あらすじ

 山林にある古びたコテージの狭い部屋。机の上にあるページの開かれた他人の手記。「このページをめくれば、あなたはこれまでの人生の全てを失うかもしれない」――そう書かれた手記は、「僕」がこれから成り代わろうとしている「小塚」という男の人生を記したものでした。

 部屋の奥にある白いスーツケース。その中に入っているはずの男の死体。それを山林に埋めればすべてが終わり、「僕」は新たな身分を手に入れることになる。

 たとえ誰かの人生に成り代わろうと、彼が人生でやり残したものにまで義務を負いはしない。そう考えながらも、「僕」は小塚の手記をめくっていきます。


レビュー 

 小説ではこうして、「僕」が「小塚」の陰鬱な人生を、手記を通じて追体験する体で進められるのですが、読み進めるにつれて読み手はいくつかのミスリーディングに気付かされることになります。つまりは作家がそう仕向けている訳で、その最たるものがこの物語のひとつの核をなすのですが、彼(作家)は物語の中盤においてあっさりとこの核を開いて見せるのです。「……もう分かりますね」と。

 読み手はこの瞬間から、重苦しい予感を抱きながら物語の渦中に否応なく呼び出されることになるでしょう。私もあの瞬間は、どこか自分が汚されたように感じましたし、現に書かれたものを信じたくないという心理がしばらくは働いていたように思います。

 だからというのもあります。私はこのとき、この作品とは直接関係のないある絵画のことが頭に浮かびました。レンブラントの聖書画のことです。このやり口は、あれとおそらく同じだ、と。


 17世紀オランダの画家レンブラントに『スザンナと長老たち』という作品があります。沐浴中の美しい人妻に劣情を抱いたふたりの不埒者が迫るという聖書のワンシーンを描いたもので、聖書画と言えば当時は最も格式あるジャンルでしたから、複数の画家がこれを描いていますし、レンブラントも制作に長い期間をかけて豊かに完成させているのですが、私が思い浮かべたのは初期のバージョンのものです。

(絵をご覧になりたい方はウィキペディア『スザンナと長老たち』のページ最下部へどうぞ)


 このバージョンには、どういう訳か「ふたりの不埒者」の姿がありません。彼らの存在を窺い知るにはただひとり画面に取り残された夫人の不安げな瞳を見つめるほかないのですが、そうした瞬間、鑑賞者はある不可解な感覚に襲われることになります。つまりは、彼女の瞳がこれほどまでに明確にこちらを拒絶しているということは、です。「もしかして私は、あの恥ずべき長老として彼女に眼差されているのではないだろうか」と。

 このとき鑑賞者は、物語の次元へと呼び出されるとともに、あの忌まわしい男たちと共犯関係を結ばされることになります。それも、ただこの作品に立ち会ってしまったという、それだけの廉で。本来ならば私たちはむしろ、彼女の側に寄り添う者としてこの作品に立ち会ったというのにです。

 

 私たちは普段、物語に描かれる人物の誰に思いを寄せるべきか考える自由があると、そう信じています。ですが、その自由を何らかの仕掛けで制限するような作品に出くわしてしまった場合、私たちはどのように振る舞うべきなのでしょうか。ここでの夫人との関係で言い直せば、こういうことになります。私たちは、夫人から受けた拒絶と侮蔑の眼差しを、冤罪であると正当に主張することができるのでしょうか。

 馬鹿げた話かもしれませんが、これは案外難しい頓智のように私は思います。私は絵画を通じて現に彼女の裸体を楽しみ、彼女の全身が表す恐怖までをも味わっているのです。それが性的な動機でないからといって、彼女は私を赦してくれるでしょうか。「あなたは彼ら(長老たち)とは違います」と、最後にはそう微笑んでくれるのでしょうか。おそらく、望みは薄いでしょう。


 中村文則という作家の扱う悪意はいつも洗練されていますが、こういう優れた悪巧みをする人間というのはいつの時代にもいるものです。歴史的な文脈においては、レンブラントはこの作品に並々ならぬ情熱を傾けていたようですから、この初期作品は彼の構想を実現するための部分的な習作という見方が確かなのかもしれません。ですが、歴史に疎い私からすれば、このことはあくまで人間という文脈の中で捉えたい気持ちがどこかにあります。

 権威付けられた古びた様式の中でしか正統にものを語れなくなるとき、人はこのような隠語や遊びめいた創意を作品の中に忍ばせることになるのでしょう。レンブラントはおそらく、同時代の鑑賞者たちに向けてこう囁いているようにも思えるのです。ねぇ、あなただって本当はもう、聖書画には飽き飽きしてるんでしょう、と。


(これは完全な余談ですが、17世紀のヨーロッパは「神から人間へ」という世界の主役交代とも言うべき壮大なパラダイムシフトの過渡期にあったと言われています。教会権力が依然として強固な力をふるいながらも、人間たちは自らの理性の輝きによって、つまりは神の恩寵や啓示に拠らずに、この世界の成り立ちや理を解き明かしていくことになります。これまで「(神の)下に置かれたもの〈サブジェクト〉」と自ら位置づけてきた人間が、まさに主体〈サブジェクト〉として躍り出るための助走期間だったということですね。この時代に『ドン・キホーテ』が書かれたり、レンブラントのこうした意匠も、「私」という自己の表出が強く意識された結果として現れたものと受け止めるのが、おそらく自然な理解なのでしょう)


 ここでは小説の中身に触れはしませんが、おそらくこれでこの作品の優れた構成について、それがどういうものか伝えることができたように思います。

 「私」という存在が玉突き事故のように変転するこの物語にあって、読み手はそれなりの負荷を伴いながら、自らの視座をどこに据えるべきか探ることになるでしょう。誰もが傷つき、誰もが互いに互いを、また自らをも損ねるようにして進む痛ましい物語ではありますが、汲むべきものがどこにあるのか。そして私自身が何に痛みを覚え、彼らに何を願うのか。そこに自覚的でありさえすれば、この物語は局所的な凄烈さを越えて、ただ静かで、熱を帯び始めたばかりの小さな温もりを感じとることができるような気がしています。

 この作家は、人の悪意を弄んでいるのではありません。その行き着く先が彼には視えるからといって、愉悦をもってそれを描き出しているのでもありません。彼はただ、打たれているのでしょう。この人間社会の植え付けた悪意が、どのような土壌のもとで個人に芽吹き、育まれ、実を結び、そして新たな悪意の種を再び社会へと撒き散らすのか、このほとんど自然法則とも言えるほどに純粋な生育を見せる悪意の様態に、あるいは、この社会が備え持つ悪意のフローラ(植物相)というものに、彼は打たれているのです。

 そのなかで彼が問うものはいつも明確です。このような悪意に現に損なわれ続けなければならないのが人間であるとしたならば、どうして人は、いいえ、どうやって人は生きることができるのだろうかと、彼はただこのことを何度でも問うているのでしょう。彼は書いています。


「……そもそも、なぜ人は悲劇を経験しなければならないのだろう? そしてその悲劇をわざわざ記憶にとどめ、そのことで、その後の人生まで損なわれなければならないのだろう? それが当然というのなら、僕はその当然さを拒否する。なぜこんなに苦しまなければならない? なぜこんな苦しみに耐えなければならない? 僕のこの行為が倫理的に間違っていたとして、それが何だというのだろう?」


 私が彼を信じられるのは、彼の作品がいつもこの思いに貫かれているからです。描くものが凄烈でも、それを描く彼にどこか清廉なものを感じるのはこのためでしょう。彼の描く人物たちが得ようとする「小さな温度」というものが、読み手の心に届く頃にはなぜか強い熱を帯びているのも、やはりこのためなのだと私は思います。

 この作家には、言葉を尽くして向かう価値がある。私に言われなくても、彼はすでにその歩みに見合う評価がなされているものと思いますが。そしてもし、何かの拍子でここまで読まれた方がいたのなら、どうか彼の作品そのものに触れてみてください。そこにはおそらく、許せないものがあるでしょう。受け入れられないものや、救いのないものもあるでしょう。それでも、それだけではないということがきっと、読まれる方には伝わるはずです。そう信じています。


 評点としては、どなたにでも薦められるものではないという点と、あとひとつ伝えておきたいことがあります。それは、私が女性であったなら、果たしてこの物語を(そして、私がこれまで読んだ彼の小説を含めて)今の私が感じるままに受け入れることができただろうか、というものです。

 一口に言えば、この物語を女性はどう受け止めるのかと言ってもよいのですが、彼の文学において女性はどのように救済され、また自らを救済することになるのか。私にとっては、今作もそのことが心に暗い影を落とすものとなったように思います。彼はすでにそうしたものに言葉を与えているのかもしれませんが、この作品においては保留ということで評点は8としておきます。

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