花火のようにはなれぬとも
当作品は『ブルジョワ評価企画』参加作です。
また、死を連想させる表現を含みます。
ご了承の上、閲覧下さいませ。
死のうと思った。
死のうと、思っていたのだ。
その日、男はそのためだけに夜道を歩いていた。当てもなく家を飛び出し鍵もかけぬまま、ただその頭の中は死で一杯だった。
引きずるように運ぶ足取りは重く、夜闇はただ男を手招きしていた。
すれ違う人にぶつかってはよろけ、睨まれても気にはならなかった。男はすでに目の前のことなどどうでもいいほどに、満たされていたのだ。
そしてそれが溢れ出るほどに。
喧騒が聞こえないほどに。
ただ眩しい街明かりから逃げるように、何か義務感のようなものに駆られていた。そこに向かわなければならないと思っていた。
それがどのような理由であったかは、今となっては分からない。
男は、殊に要領の悪い人間であった。
仕事で失敗を繰り返し怒られては、同じことを繰り返すような男であった。注意されるほどに萎縮し、悪化するだけを繰り返した。
思えば、いつもそうであった。
学生時代より、人にも恵まれず才能もない人間であった。それを自覚する頃には、日常にしがみついて、引き摺られるように生きるのが常であった。
必死だった。
上手く生きる事ができない男。
それでもなんとかやってきたのだ。
しかし、そういったことが積み重なって。
盲目に生きてきた今日この日。
突如目が開いたのだ。
あぁ、そうだ。
俺は死ななければならない、と。
そうして彷徨い始めた男は、流されて。ついに願いが叶う場所へと、辿り着いたのだ。
目の前に広がるのは、大きな河川。
この男の心の小さな様からすれば、その雄大にも感じる流れは全てを洗い流してしまうような。少なくとも、それを上から見た男にはそう思えたのだ。
少しばかりすえた匂いがしようが、どうでもよい。黒く流れるその大きな口は、男に早く来いと急かしている。
しばらく手入れがされていないのであろう、背の伸びてしまった草を踏み分けて進む。時折りぬかるみに足がついた気がした。
しかし汚れようが。
肌が切れようがどうでもよい。
どうでもよいのだ。
そこに横たわる、大蛇のような河だけが自分を救ってくれる。高鳴る鼓動は、まるで恋のように彼を囃し立てた。
そうして、たしかな冷たさが男の足を掴んだ――その時。
ヒュルルルルルド――――――ン!!!!
心臓を突き破るような。
底から湧き上がるようなその音に。
男はハッとし、足を止めたのだ。
音のありかを探すまでもなく。反射的に上げた視界に飛び込んできたのは――光。
夜空に咲く、大輪の花であった。
決して、凝ったものではない。
花の中では大きくはないかも知れない。
しかし間近で見れば、目が離せなくなる。
どんどん上がるそれに、しばらく立ち尽くした。最初は呆気に取られて。しかし次第に、目が離せなくなってそこにいた。
咲いては散る、一瞬の花。
男の止まりそうな心臓を無理やり動かすような、体の底から震わせる音と共に上がる色とりどりの――花火。
とうに夏などすぎた、時期外れの花。
役割が果たせなかった花。
例年ならば、人を集める花。
それはある種の弔いのようにも感じられるであろう大輪の花。しかしそれによって、男にひとつの感情を呼び覚まさせた。
「あぁ……綺麗だ……」
意図せず口から漏れたそれは、男自身を驚かせた。そして、瞬きをした男は前を見て――目の前に広がる河川を目にした。
今もなお、男の片足を捕まえて。
足元から引き摺り込もうと企むそれ。
縋り付いてくる冷たさを持ったそれ。
先ほどまで渇望したはずのそれが、何故だか突然恐ろしいものに思えたのだ。
ヒュルルルヒュルルルド――――ン!!
川面に乱反射する光と、その音は男を再び上に向かせた。花火は、ただ誰もいないその河川敷を覆うように上がり続ける。
それを縫い止められたように、見つめていた。
今、素直に。
男は、死にたくないと思った。
せめてこの、美しい花火を。虚しく散る大輪の花の美しさを、誰かに伝えたいと。この感情を言葉にしたいと思った。
本当にこの花は、要らぬものなのか。
一瞬の出来事として。
明日には、無かったことになるのだろうか。
こんなにも、美しいのに。
誰にも共感されず、見向きもされずに。
誰の心にも残れないのだろうか。
男が消えたら、この感情すら跡形も残らない。
暗闇で開いたその花は、たしかに男を照らした。男は気付かなかったかもしれないが、その頬には温かな何かが伝った。
予告もなかった花たちは、やがてひっそりと息を沈めていった。残ったのは夜空に煙る硝煙と、足元の冷たさだけだ。
しかし人知れず散った一瞬の花は、男の心に小さな火種を残したのだ。
しばらく瞬きもせず突っ立っていた男の頬を叩くように、思わず顔を顰める少し冷たい風が通り過ぎていった。
「……俺は、何をしているんだろうか……」
急に寒さを覚えて、男は踵を返して。
しかし、もう一度振り返った。
その顔は下を見るのではなく、上を見上げていた。
モヤのような煙が消えた空には、小さな光がたくさん見えた。その時男は、自分が下ばかり向いていた事を自覚した。
夜は、こんなにも光に溢れていたのか。
暗くなんて、もとよりなかったのか。
吸い込んだ空気は、少しばかり男の内側を冷やした。しかしだからこそ、男は生というものを実感したのだ。
今、生きている。
……とりあえず、今日は帰ろう。
そう思った男は、また前を向いて歩き出す。いくら闇が彼を呼んでも気付かなかった。
とぼとぼと、しかし確かな足取りで。
男は道を歩き出した。
途中、人に怪訝な顔を向けられた気がして、少しばかり恥ずかしくなった。男の足が大分濡れていたせいであろう。
歩き出すと、先ほどまで気にならなかった事が嘘のように気になり始める。
鍵を閉めてないが、大丈夫か。
今の自分の格好を、どう隠そうか。
そもそも今は何時で、ここはどこなのか。
気になることは多くあれど不思議な高揚感だけが、男の足を前へと歩かせた。
今、男は確かに前へ歩いていた。
それは歩かされているのではなく、意思のあるあゆみであった。そしてその顔は、憑き物が取れたように穏やかであった。
街灯は彼の帰りを歓迎するかのように明るく、いつもならうるさい喧噪や自動車の走り去る音さえファンファーレのように感じられた。
しかし同時に、人々の好機の視線を受けているように思われて、男は羞恥した。
やはり閉まってなどいなかったドアノブを引き、逃げて転がりこむようにしてやっとのことでたどり着いた家の安心感といったらない。
そして同時に、高揚感は増すばかりで。仕事の時以外触れることなどなかった、デスクの上にある無機質な黒い塊の電源を入れた。
ただ、この感動を。
この心から取り出した、ありのままのを。
誰かに伝えたい。伝えたいのだ。
あぁ、今この心臓を取り出せたのならば。この心臓に心があるというのならば、切り開いて見せつけたいくらいの衝動があるのだ。
それは確かに鼓動し。
大きく、音を立てている。
今を逃して、いつ伝えようというのか。
残念ながら悔しいが、この心臓を取り出すことはできない。これほど溢れて、苦しいほどだというのに。
だからこそ、男はそれを言葉という形で電子の海に捨てることにしたのだ。
知っている、誰も見向きはしない。
男は花火にはなれぬ。
願っても、空に咲くことさえ叶わない。
海の藻屑となることがオチだと、分かってはいるが……。
ただ、消えるためだけに生まれたこの火種を、自分の中で消すことだけはしたくなかったのだ。それはなんだか、惜しいのだ。
その掻き立てる衝動だけで書かれた1つの物語は、人知れず電子の海へ流された。少しの間眺めていたが、変わらぬ光景が続くだけであった。
数日、男は日常を続けていた。
素知らぬ顔で日常に戻っていた。
そしてあの感情は当然鎮火していた。
男にとって日常は、冷や水を浴び続けることと変わらぬ。当然だ、男はひどく不器用で、生きているだけで恥を晒しているのだから。
そのノミのような心臓は、いるだけで人を威圧するような、図体だけは立派な体に収まっている。中身など、誰が心配しようか。
しかし、心臓を変えることも。
身体を変えることも叶わない。
その上男は無口な男であった。
喋らぬ男の心の内など、どう察せようか。
これに気付かぬからこそ、男は要領が悪いのである。だが男は気付かぬからこそ、男なのであった。
しかし男とて人間である。
人に認められなければ傷つき。
ただボロ雑巾のように擦り切れる。
それが分からぬのは、男のせいではないが――空を見上げる余裕がない者は、足元を見るのだ。粗を探すには、男は格好の獲物であった。
そうやって、男はすぐに辛抱たまらなくなった。
今度こそ限界だ。
もう駄目だ。
やはり頑張ることなどできなかった。
そうして、一度は逃れたはずの河原へまたやってきたのだ。死という暗闇は、優しく男を引きずり込もうとしていた。
終わりをあげる。
優しい優しい、安寧をあげる。
もう苦しむ事などない、と。
川の流れは、そう男に囁いている。
こっちへおいでと、黒い口を開けている。
苦しみも記憶も全て、流してあげよう。
さあ、身を委ねるがいい。
綺麗に、真っさらに、無かったことに。
もうその声以外、聞こえない。
それに向かって一歩を踏み出した時、ズボンの右側で何かが震えた。少し驚いて取り出せば、なんという事はない。携帯端末だ。
特に、誰の連絡が来るでもない。
ただのセールスが舞い込むだけ。
しかしそれを見て、男はふと思い出した。
あれも、消さなければならない。
電子の海に流した、自分の手を離れた物語。感動の感情。それはもう男には要らぬもので、残る心は恥だけである。
衝動だけで書いたそれは――冷静に読み返せば大層拙く、上手さも技巧もない、熱の塊だ。
あぁ、あれを残してはいけない。
あれが残っていては、浮かばれない。
誰かの目を汚すだけ恥である。
男は殊に、あるいはノミの心臓ゆえに。
羞恥の心だけはひどく強く持っていた。
いつも、何かに怯えながら生きてきた。
もう心は決まっているのだ。
惑わされる事など何もない。
指先一つで、全ては消えるだろう――今からなくす自分のように。
手元にある無機質なそれを起動して、男は最期の準備を始めた。青白い光に照らされた男の顔は、隈が目立ち虚な瞳が嵌る口元が力なく開いた、しかし人形のような顔であった。
そうして指先を滑らせて、恥の塊を開いて――目を丸くした。
なんと。恥の塊に。
評価が入っている。
感謝が寄せられているではないか。
『まだ拙いかもしれないけれど、熱い感情が私の心を打ちました。なんだか頑張れそうです。ありがとうございます。あなたの作品がもっと見てみたいです』
それは短い言の葉であった。
無機質な、電子の光と文字の羅列だ。
側から見れば、間違いなくそうなのだ。
しかし男の冷え切って固まった心に、断固たる決意にひびをいれるには十分であった。あぁ、そこにあるのは同じ熱であった。
男から移った、あの小さな火種が。
誰かの心を温かく灯して。
その心で大きくなり、男に返ってきたのだ。
その凍えた心が、じわじわと溶けるほどの熱となって。
男は泣いた。赤子のように、わんわん泣いた。立ってなどいられなくなり、川辺に膝を落として、顔を覆ってもその声と涙は隠せなかった。
嬉しい、無駄じゃ無かった。
自分でも誰かに上を向かせられた。
あの美しさの片鱗を、確かに伝えられた。
恥を超越するほどの喜びが、男の体を駆け巡ったのだ。
様々な感情はぐちゃぐちゃになり、もう言葉にはならない。ただ流れる熱い雫と、喉の奥から漏れる嗚咽となって外に出てくる。
冷たい膝も、頭を撫でる風も。
集まってくる人も気にはならない。
その心には確かな光が灯り、心臓を動かしていた。
……交番に連れて行かれて、初めて恥を思い出したが。
一度知ってしまえば、人は欲深いもので。
男は、喜びを知ったのだ。
もう男に、暗闇の囁きは聞こえない。
聞こえるのは、男についた少なくも確かな読者の声だけであろう。男は今、そんな読者のために。彼らを楽しませるために筆を取っている。
所詮アマチュア。
されど、その心に卑賤はない。
確かな熱と心がこもっているのだ。
男は花火にはなれない。
あんな一瞬で、美しく散ることが男には惜しいからだ。男は確かに、人間なのだ。
あの日、男は名も知らぬ誰かを救い。
そして男もまた、名も知らぬ誰かに救われたのだ。
それを生涯、男は忘れない事であろう。
もし。名も知らぬ、しかしその言葉で確かに男を温めたその人に再び出会ったならば。
男は、羞恥を抱えながらも。
しかし恐れずに伝えることだろう。
「あなたのおかげで今日の私がいます。感謝してもしき切れない」、と。
この話はフィクションです。実在の人、物、団体とは一切関係ありません。
が。
どこかの記憶の片隅に、置いておいていただけたら幸いです。あなたの言葉には、評価には、確かに力があるのですから。