一村雨
一村雨
二十八
要介は調子も沈んで、
「一体、どうなさる意なんです」
「路々話しましょう。さあ急いで、また消えてしまうと不可ません」
「あんなものに取り合わないで、柏屋へお帰りなさい、よ、ともかく」
ご新造は落ち着き澄まして、
「だったら、あなたが養子になって下さいますかい」
「ええ!」
と、その時、
「あれ、光るものが」ご新造が要介にハッと寄り添う。
黒雲が立った大空を環形に貫いて、ふわふわと、松林の上から、乾の方角(*1)に渡って行く一条の青い光。二人の上を通った瞬間、艶麗な婦人の凄味を帯びた片頬が直ぐ目の前にあり、岸の露草も俤に立って……、この光景は決して忘れられないものとなった。要介はそれが消えるまで屹と見詰めてから、
「山鳥です」と言った。
「ああ、ちょうどあの方角ですね。その観世物のある所は」
「そうです」と、言ったが、まさにその辺だと思うと、要介は身体が自ずと戦くのを覚えた。
その時は戦慄いたのではあるが、観世物小屋に着いてからの、この若者の血気溢れた行動は、思わず快哉を叫ぶものがあったのである。
途中で颯と村雨(*2)があって、薄の露や榛の木の雫にも濡れたので、やがて辿り着いた社の前の、一条道の角にある葭簀茶屋の蔭に彳んだ時、ご新造は手拭いで襟を拭き、おくれ毛を掻き上げて、さあと、それを要介に渡した。要介もそれで額を拭う中、ご新造は湿って手に絡まっている袖を捲き、下締めをしめ直す。言うまでもなく、庭下駄は田圃道に脱ぎ棄てた。素足のまま、蓮池の突き当たりを窺うと、観世物小屋は、暗の中に朦朧として、その筵戸と幕が見えるだけだったが、パッと火影がさして、焚き火をしているのが認められた。
窺い澄ますと、ご新造は些とも猶予わず、裸足でするすると、泥濘を踏んで前に向かい進む。要介も後について、やがて小屋の前に着いたが、正面には一杯に蔽い物がしてあるので、中の様子は透かし見られない。
ここで今度は、要介が手招きをして、顔で知らせて前に立ち、それから小屋の後ろに廻ると、松の樹を小楯に取った筵の合わせ目を、左右から二人して差し覗いた。例の悪臭が面を打った。覚悟はしていても、見れば恐るべき面である。
島田の方と切禿の人形はそのままの状態に置かれ、行燈の灯が点されて、煙草盆も置いてある。
要介が忍んだ左の方の囲いの隅には、とろとろと顕れ、ひらひらと燃える炎があった。刈り集めた薄の穂を一毟りづつ突っ込み突っ込み、焚き火をして真っ黒な手を翳しているのは、やはり小川の岸でのっそりと腕組みをして、お園が濁水を飲むのを見ていた襤褸を纏った漢であった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と呟きながら、尼はばちゃばちゃと洗濯に余念がない。地に筵を敷き、小盥に水を湛えて、円髷の婦人を襦袢のまま筵の上へ仰向けに引き摺りだし、袖から腕を抜き、蒼白い上半身の肌を露わにさせて盥へ橋渡しにしている。そして、宵に見物人に話した通り、白い布を水に浸しては、そのふくらかな乳房のあたりを洗っているのであった。
炎は見ている方にもその閃きは届いていて、円髷ががッくりと仰向けにされ、腕は一ツだけ組み立てた人形の体を抜けて筵の上に、もう一ツはぶらりと地に垂れて、頼りなげに掌を開いたまま、例の凄い顔の、耳まで裂けた口許の牙が下草を噛んで金色の目を見開いているのが見て取れた。
耐えかねて要介が、つかまった小松の枝を揺さぶって地団駄を踏むのとほとんど同時、筵をばッさり掻き分けて、ご新造は衝と小屋に入ると、一尺と間を取らず、突然裳裾を前に払って、片足を上げ、盥の上にある白いものを確乎と踏まえて、斜めに屹と瞰下ろした。蹲って洗っている尼と面を見合わせたが、
「や、外面如菩薩内心如夜叉か!」とは最後まで呻かさせず、盥を踏み返し、足許に転がる人形の円髷をむんずと取った。右手にははっしと持った抜き身の懐剣。
氷柱を裂くかと、キラリとして、地盤を台に、細首をガッキと切って、すっくと立つ。
この時、先刻から身構えしていた例の泥亀野郎が、横飛びに飛びかかると、花菖蒲の咲く池の水が濁って、色がうつろう状に、ご新造の姿は漢に揉まれた。袖も裳裾も乱れる中に、二、三度懐剣の尖は閃いたのだが、黒髪の根元をむんずと取られて、
「あれ!」と言うと、たじたじと蹌踉けながら、
「さあ、来て!」と烈しい一声。
「おう」と言うのももどかしいほどに、要介は一文字に躍り込み、出し抜けに泥亀の腕を撲くと、振り向く所をもぎ放して、両手でその咽喉を確乎と緊めて、竹の柵に押し突けると、漢はたちまちぐたりとなって、死んだようになり、対手をしようともしなくなった。要介はこんな場合にも、手が漢の身内に触れた時、ヒヤリと滑って、あたかも蓴菜に触れたようだったのを覚えている。
ご新造は一揉みされて、黒髪も颯と乱れ、手に懐剣を提げたなり、切り取った怪しい首の髻を掴んで熟と見たが、戦々と震うと、はたと大地に投げ付けた。
「やったぞ!」と要介は敵を取って絞めたのと、このご新造の挙動に大満足。
「さあ、尼、尼、見ろ、畜生、外面如菩薩内心如夜叉がどうした。それ、その如菩薩に味方をして、お為ごかし(*3)をした面を打ち払くぞ、ざまぁみろ」
尼はビクともせず、動きもしないで、例の襟首を長く垂れた抜き衣紋で、
俯向いて、下唇を舌のように翻しながら、
「やれ迷うな、迷うな、なむあみだぶ、なむあみだぶ……」
「このご恩は忘れません」とご新造は、衝と寄って、手を柔かに、今要介が漢を絞めて突っ張っている二の腕の所に掛け、そこに前髪を押し当てたが、振り仰いで、
「もう些とそうやっていてくださいよ」
と言うより早く、柵を越えて、身軽に床の上に飛び上がると、行燈を払き倒し、切禿を蹴飛ばして、立ち直ったかと思うと、今度は、島田髷の長襦袢の襟を掴んで、ずるずると引き摺り、旧の土間にひらりと下りた。そして、犬猫に鼬を合わせたような俤が見えなくなるまで、縦横散々に思うさま、懐剣で切り崩した。
それを鞘に納めると、腕まくりして、一枚囲いの筵の中央を引き掴んで剥がし、焚き火とすれすれに立ち掛けた。そして、薄の束を一抱、ずばと投げ入れると、下の方から煙がぶすぶすと燻ると同時に、黄に墨が混じったのが渦巻き立った。わっ! と要介が捉えた奴を突き飛ばした時、小屋に満ち満ちた一杯の煙の真ん中がパッと裂けて、土竜が真っ赤な骸でちょろちょろと這い出した。と見るや!
「もう、これで可うございます。お逃げなすって下さいまし。ご迷惑はかけません」と、声高に呼ぶ声も煙に紛れ、炎のあかりに手を取り合って、小屋を二人で駈け出した。確かに水茶屋の所まで、一緒だったと思ったのが、危急の折から気持ちが焦って、要介は唯一人茫然と社の道に彳んでいたのである。
「先生、先生、もし、東京の先生」と背後から胴間声。
はっと見返ると、半六親仁が家紋の入った木瓜提灯を提げ、雨傘を一本、苞背負にして、手に菅笠、皺だらけの額を寄せ、目を見張って、ニヤニヤ。
「まあ、お前さま、何処へ行かっせえた。人に念を入れておきながら、油元結買じゃな。はて、それならば可うがすけれど、帽子は薄原へ置いたなり、家じゃな、案じてござらっしゃる。その中雨になりましたんで、雨具を持ってお迎えに、恐らくこの道だと見当をつけて参りやした。私の目はどうでがす」
要介がぼんやりしているのをあれこれ見て、
「女郎買いに目堰笠(*4)や頬被りはよく聞くが、お前様、その後ろ鉢巻きは何でがすね」
雨に濡れたのを拭くようにと、葭簀の蔭で婦人がくれたのを、討ち入りの勢いで、無意識に要介は鉢巻をしたのであった。
物をも言わず、半六に手を曳かれるようにして、要介は夜の二時半頃、桜木村に帰った。寝床は別室に設けてあったのを幸いに、何事も明日のことにしようと誰にも会わず、生きた心地もしないまま、掻巻を引っ被ぎ、前後不覚の中に眠りに落ちた。
夜が明けると快晴だったが、要介は冷汗を浴びて、全身湿った綿のようにくたくたになりながらも、昨夜のことをあれやこれやと考えていた。
このまま遁げては面目が立たないと、庵の美人が可懐しく思い出されるだけに、放火の罪も背負って立つ気で、自首して出る意であった。
それとなく様子を聞くと、小旦那の家は村の長で、塀の外には火の見櫓の階子が立っているにもかかわらず、北多摩にも南にも消し炭が飛んだという話もない。
あまりの不思議さに、恐る恐る、ふたたび杉の下道を潜り、鳥居を抜けてみると、その日も祭礼であった。神楽堂も観世物も笛太鼓の音が盛んで、押し返すような人出の賑わい。
角の掛茶屋とその蓮池、洲のようなそれもあったが、見れば塵葉一ツ落ちておらず、ただ押し返すほどの雑踏に、そこだけは一本の松があるだけで、子ども等が遊んでもいなかったのである。
直ぐに駒返へ行って様子を、と思ったけれども、相手は婦人である。しかも世を隔てた暮らしぶり。普通に枝折戸から訪れても、人に顔を見せることはないだろうと考え、止めにした。
東京の下宿に帰って、ぼんやりしていると、日が経って、多吉とお園が尋ねて来た。桜木村で聞いて、要介の住居が分かったのだという。
この時、持ってきたのは、筆跡の見事な礼状が一通と、記念となった彼の時の手拭いであった。憚るから名は言わないが、さる陸軍中将の娘である柏屋のご新造は、あの夜以降は、容易く人には会わないとのこと。ただし、その情が通って、若い二人は柏屋の跡を継ぐことになったのである。
要介は静かに暮らしている庵を驚かそうとは、敢えて思わないけれども、どうしても解せないのが、怪しさに充ち充ちたあの尼の興行である。これを得意の代数式で占ってみたが、答えは不可解を示すXと出るだけであった。
*1 乾の方角……北西の方角
*2 村雨……強く降ってすぐ止む雨
*3 お為ごかし……人のためのように見せかけて、実際は自分の利益を図ること
*4 目堰笠……顔をかくすためにかぶる深い編み笠
(了)
今回で、「袖屏風」の現代語勝手訳は終了しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品は青空文庫にはまだないようですが、検索すると、原文を読めるサイトもありました。
私の勝手訳は、読み返せば、読み返すほど、文章が熟れておらず、料理で言えば「ダマ」のようになっている部分が目立ちます。反省です。
読者の皆さまには、是非、原文で鏡花の文章をお読みいただければと思います。