不実を解く
目を覚ます
おそらく、普段と変わりない時間だろう
外からは覚めたばかりの目には少しばかり痛い程の日差しがカーテンの隙間から射し込んでいる
僅かに腕に動かしづらさと違和感を感じるが、何時もの事かと視線だけをよこす
小さな、子どもと見まがう程の小さな手が俺の手首をしっかりとつかんでいた
掌に隠れていて見えづらいものの、ああ、だがこいつの髪はいつ何時であろうと混じり気のない黒だ
シーツに散らばる黒髪は、少し前まで手入れなどまったくされていなかったせいで傷みきっていた事などおくびにも出さな程に艶めいている
空いた手で髪を梳こうとして、しかし今こいつが目を覚ましたら少し面倒かと思い、手が止まる
行き場を失った手は、仕方がないかと未だにつかんだままになっている小さな手を剥がすために動かし、ベッドから離れた
今日は起きなかったようだ
何かにつけてこいつは眠りが浅い
物音や生き物の動き、ちょっとした何かしらで簡単に目を覚ます
だが、時々こいつは感覚が鈍い
あれだけ小さな物音で目を覚ます癖に、騒音などは気にも留めない
おかしな奴だ
一晩握りしめられていた手首はあいつの体温が染み付いたように温かい
着替えを済ませ、食事を摂り、しばらく本を読みながら寛いでいるとあいつは寝ぼけ眼を緩慢な動作で擦りながら「おはよう」と言った
相変わらず朝が弱い
だが水が嫌いなこいつのことだ、言ったところで顔を洗うことなどしないだろう
おぼつかない足取りのままソファへと腰を降した姿を確認してから側まで歩み寄り、未だ夢と現を行き来している髪を緩く愛でた
傷みの少ない指通りのいい髪は触り心地が良く、飽きない
くすぐったいのか心地いいのかどちらとも取れる緩慢な反応を見せると、先程までとはあきらかに違う、蠱惑的な何かを宿した目と視線が絡んだ
こいつにそんな計算はないだろうが
「目が覚めたか」
「うん、おはよう」
「食事はどうする」
「もうちょっとしたら食べる」
それが続きをうながす合図だという事は理解している、離そうとしていた掌にすり寄ってきた頭に沿わせるようにして包み撫でた
髪を撫で付け、梳くように触られる事をこいつは好んでいる
反対に髪が乱れる程に乱雑に撫でられることを嫌い、近づく事すらしなくなる
判りやすいが、解りづらい奴だ
「お腹すいた」
しばらくして満足したのか頭を離して呟いた言葉に一度頷いてから側を離れた
用意されている食事を温め直し、いつの間にかテーブルに行儀よく座っていたこいつの前に並べてやれば嬉しそうに微笑んで手を合わせていた
故郷の習慣なのだろう染み付いたその動作は、しかしどことなくこいつには似合わないと思えた
けして上品でも優雅でもない食事風景ではあるが、静かに行儀よく食べている姿は素直に好感が持てる
それに、他人の前ではあまり表情の変わらないこいつが、親しい者の前では表情を和らげるところを見られる事は気に入っている
この場では、俺だけの特権、というものだ
食べ終わったのか律儀にもう一度手を合わせているのを確認してから、綺麗になった皿を重ねて流しへと運ぶ
「今日は天気良さそうだね」
「ああ」
実りのない会話を好むこいつは、何かにつけて何でもない話題を投げかけてきては投げ返すことを拒む
今に始まったことではないそれを今さらあれこれと言う必要はないが、心地良さすら感じている俺ではもはや拒むことすら叶わないだろう
…いや、拒むことを俺自身が拒んでいるのか…
解決の糸口すらつかめぬ不毛な思考を早々に切り上げて投げ出した、きっとこいつにはそんな事を言ったところで解りはせぬだろう
「共に死んでみるか」
脈絡のない言葉にきょとりと目を見開いたこいつは、しかしすぐに意味を理解したのかその上でにこりと笑った
「一緒に生きてくれた方が嬉しいよ?」
ああ、なんて狡く酷い甘言なのだろう
選択肢など初めから用意されていないと言うのに、さもそれがあるかのように思わせてこの俺に選ばせるのだ
無意識に、無意味に、無邪気に、無抵抗に、無責任に…
何も出来ぬ憐れな子供だと思わせ、近づいた者達を躊躇いもなく玩び、飽きれば道端に転がる小石のようにわすれてしまう
ああ、無垢とはこれほどまでに恐ろしいものだったか
…それでも離れぬように、離れられぬように女々しくしがみついている俺の、なんと滑稽な様よ
「ねえ、今日のお茶の時間、食べたいものある?」
「甘いものは苦手だ
だが、お前の好きなものなら善処はしよう」
「えへへっ、じゃあうんと美味しいもの作らせなきゃ」
少女のようにはにかみ、子どものようにはしゃぐこの女の笑顔の前にどれだけの人間が血を流し、息絶えたかをこいつは気にも留めていない
こいつにとってそんな事は取るに足らないくだらぬ世迷言に過ぎぬのだから
「不実を解く」
(だって、ここに月は存在しないから)