第1話 変わらない日常...なはずだった
日が昇り、田んぼに張られた水がぎらぎらと輝いている。
まだ苗が植えられていない田んぼは、遠くから見るとただの四角い水たまりにしか見えない。
ここは、日本の田舎町。それも『ド』がつくほどの田舎町。
田んぼと畑が広がっている中で、一軒の家がポツンと建っていた。
14歳の時雨羽衣は、この町に住む中学2年生、なのだが、どうやら入学式に出たっきり学校に通っていないらしい。
一度、親や先生に押されて行ったことはある。
しかし普段外に出ないせいか、ただ運が悪かったのか、羽衣は学校の階段でこけて脚を骨折し、入院する羽目になった。
この一件で心も折れてしまった羽衣は、退院後一切外に出ることはなかった。
「羽衣ー朝ごはんよー」
隣の部屋からいつもの声が聞こえてくる。
「はーい、今行くから」
羽衣は重い身体をゆっくりと起こした。
ベッドの上には、ぐちゃぐちゃになったイヤホンとスマホが乱雑に置かれている。
机には裁縫道具が、作業途中の状態で放置されている。
羽衣は部屋を出てリビングへ向かう。
外を見ると、庭に植えられたチューリップが咲いていた。
そっか、もう春なんだ、と羽衣は感じた。
リビングへ入ると、羽衣の鼻を刺すような焦げた匂いがした。
お母さんまた卵焼き焦がしたんだ、と羽衣は黙ってイスに座った。
「ごめんね羽衣、また焦がしちゃって」
白いお皿に盛られたこげこげ卵をチラ見しながらお母さんは言った。
「いいって、大丈夫だから」
焦げた朝ごはんを出されるのはもう慣れっこな羽衣にとって、被害が卵だけなのはむしろ幸運だった。
一番酷かった時は、元の色がわからないほど黒焦げになった鮭(と思われる魚)が出された。こればっかりは流石に食べきれなかったが、幸いにもお母さんは自分の料理の腕前をよく理解していて、最近は全品焦げていることは少なくなった。
「ごちそうさま」
お皿とコップを片付け、洗面所で歯を磨き、顔を洗った羽衣は、自分の部屋に戻った。
「ふわぁ〜〜」
羽衣はベッドに飛び込むと、その辺にあったクッションを抱きしめた。
落ち着かない、やっぱり落ち着かない。
羽衣は昨晩、ネットの友達から衝撃的な事実を告げられた。
『私、もうUちゃんと話せないんだ。引っ越ししたら、ネットとはもうおさらばするから。また、どっかで会えればいいね! raikaより』
ショックだった。
家にずっといる羽衣にとって、ネットの友達『raika』は特別な存在だった。
好きなもの、趣味、今見ているアニメ、嫌いな食べ物...唯一違うのは性格くらいな、羽衣と瓜二つな子だった。
「私たち、双子みたいだね」
そんな言葉を羽衣は思い出した。
羽衣は一人っ子だ。おまけに病弱だったため小学生の頃は入退院を繰り返す日々を送っていた。
そんな生活を送っていれば、当然学校へなんか行けないし、友達もできない。最初は羽衣のクラスメイト達もお見舞いに来てくれたが、入院を重ねていくうちに来なくなった。小学6年生の頃、ようやく体調が安定し羽衣は入院生活から卒業した。そして学校へ行くようになったが、小学校生活のほとんどを病院で過ごした羽衣が学校に馴染めるはずもなく、すぐに自分の部屋に引きこもるようになった。病院で勉強を教えてもらったおかげで学力に問題はなかった。逆にコミュニケーションの方はボロボロで、見知らぬ人に話しかけられるとすぐに頭がオーバーヒートしてしまう。
そんな羽衣を救ってくれた人と、もう二度と会えない。話せない。
「嫌だ...」
あのメッセージが送られてきた後、彼女のアカウントはひっそりと消されていた。
今は羽衣のメッセージ欄に『unknown』という名前とメッセージが残っているだけ。
「私、どうなっちゃうのかな」
白い毛先をくるくると人差し指で巻きながら呟く。
昔、「お前、白髪じゃん!もしかしておばあちゃん!?」とからかわれたこの白い髪も、羽衣のコンプレックスの一つだった。
「もう、私、ダメかも」
羽衣ははぁ...と深いため息をつくと、そのまま深い眠りについた。
「......い、起きて、羽衣!」
遠くの方からいつもの声が聞こえてくる。お母さんだ。
「ん〜なぁに〜」
目をこすりながら羽衣は答えた。
「ほら、早く着替えて、大事なことがあるの」
大事なことって何なんだろう、と羽衣は考えてつつ、パジャマを脱いで、タンスの中にあった白と青のストライプ柄のTシャツに袖を通した。
ズボンを履いて、急いで部屋を出ると、外はもう真っ暗だった。どうやら羽衣はあの後10時間近く寝ていたらしい。
「ほら、もう来てるから!」
お母さんの大声が聞こえた。そんなに焦ってどうしたんだろ... 羽衣の中で、謎はますます深まっていくばかりだ。
廊下を走って玄関へ向かうと、そこに1人の少女が立っていた。
この家に来るのは、宅配便のお兄さんと、近所のおばさん、それとたまに帰ってくる単身赴任中のお父さんくらいしかいない。少なくても羽衣の頭の中にこんな少女が来るという情報はない。
あれ、この子誰...学校の人?近所の人?誰、誰なの...
羽衣の頭の中はもうパニック状態で、玄関前で立ち止まったまま直立不動で動かない。
「羽衣、この子はね...羽衣の妹、だよ」
この瞬間、羽衣の頭は完全にオーバーヒートした。
妹!?え、どういうこと、どういうこと、私は一人っ子だから、え、養子??でも私と同じくらいの背だし、え...
羽衣の口からは「え、あ、」という声が漏れていた。
よく見てみると、彼女の髪は羽衣と同じように白く、そして長かった。大きなキャリーバックを横に置いて、こちらをじっと見ている。すると、彼女が口を開いた。
「あたしの名前は時雨明莉!今日からまた一緒に暮らせるね!」
『また』という言葉に、羽衣の頭はさらに混乱した。
この子は昔私と一緒にいたってこと...?もしかして何かの冗談?、と考えれば考えるほど思考が錯綜していく。
「まぁ明莉、とりあえず靴脱いで上がって」
そう聞くと明莉は靴をさっさと脱いで、大きなキャリーバックをよいしょ、と持ち上げた。
ゴロゴロゴロ、とキャリーバックを引く音が響く。
お母さんの後をついて行くと、私の部屋の前に着いた。明莉は物珍しそうな目で家の中を見回している。
「お母さん、私の部屋だけど...」
羽衣は大体のことは察していた。明莉と2人で部屋を使え、ということなんだろうと思った。
「ほんとはもう一部屋あるんだけど、雨漏りしてて大変だから。明莉、ここでいい?」
「うん!全然大丈夫!!」
羽衣にとって、明莉はホテルに来てはしゃぐ女の子のような感じがした。
今までほとんど自分しか入らなかった「聖域」に、さっき会ったばかりの子を入れるというのは、羽衣にとっては大事だった。けれど羽衣は、それが不快ではなかった。
「それじゃ!おっじゃまっしまーーす」
明莉は勢いよくドアを開けると、羽衣の部屋に飛び込んだ。
「うわぁ〜羽衣ちゃんのにおいだー!」
鼻をすんすんさせながらはしゃぐ明莉を見て、羽衣は苦笑いを浮かべていた。
「ねぇねぇ、私どこで寝るの?」
あ、たしかに、と羽衣は思った。こんな時はきっとお母さんが予備のお布団でも持ってきてくれるはすだ、と期待した。が、そんな思いとは真逆の言葉が羽衣の耳に入ってきた。
「うーん、せっかくだし、そのベッドで2人で寝たら?そのベッド、女の子2人なら狭くないと思うわ」
お母さん...と羽衣の表情は苦笑いからただの苦い顔に変わった。病院にいたときも、退院してからも、寝る時はいつも1人。誰かと寝た記憶なんて羽衣にはほとんどなかった。
「やったー!羽衣ちゃんと寝れる〜」
ぴょんぴょんベッドの上で跳ねる明莉を横目に、羽衣はキャリーバックを部屋の中に引きづり込んだ。
「それじゃ、晩御飯の準備ができたら呼ぶから」
お母さんはそう言うとリビングの方へ帰っていった。
はぁ...とため息をつく羽衣を、明莉はじっと見ている。
「どうしたのー?何か嫌なことでもあった?」
別に明莉が来たことは嫌じゃない、と羽衣は思っていた。しかし、突然来た『お客さん』が自分の部屋ではしゃいでいる現実を羽衣は飲み込むことができないようで、その場に立ち尽くしていた。
すると明莉は、
「ねぇーねぇーお話しよーよー」
と羽衣の手を握ってブンブンと振り回した。
「あ、明莉、ちゃん」
羽衣は戸惑いながらも返事をする。
「おおー!やっと話してくれた!」
明莉は嬉しそうに笑うと、さらに強く羽衣の腕を振る。
「あの、痛い痛い...」
「ごめん!つい嬉しくって!」
明莉が手を離すと、羽衣の手は少し赤くなっていた。明莉の手の温もりが、まだ残っている。
「羽衣ちゃん、ここ座ろうよ」
ぽんぽん、と明莉がベッドを叩く。
2人はベッドの上に腰を下ろした。
「あ、あの、私、なんて呼んだらいいの...?」
羽衣は不安そうに尋ねる。
「あたしのことは、『あかり』とか『あかりん』って呼んでほしいなぁ」
「そ、それじゃ『あかりちゃん』で...」
「うーん、ま、いっか。あたしは羽衣って呼びたいんだけど、それでいい?」
羽衣がコクンと頷くと、明莉はにこっと笑った。
しばらく無言が続く。
すると明莉は羽衣をそっと抱きしめて、耳元で囁いた。
「ねぇ羽衣、あたし達、双子なんだよ...今までずーっと顔合わせなかったけど、そんなの関係ないよね」
羽衣は顔を真っ赤にして、明莉の言葉を聞いていた。
「だからさ、お互い好きなことも、嫌なことも、ぜーんぶ共有できるんだよ、私たちなら」
羽衣は自分の体温がどんどん上がっていくのを感じていた。明莉の腕の中にいるせいなのか、照れているだけなのか。羽衣にはわからなかった。
明莉はそっと羽衣から離れると、ふふっと笑った。
「やっぱり同じにおいがする!流石双子だねー」
羽衣はぽーっとしていて、返事を返そうとしない。
その様子を見た明莉は
「んもー!なんか言ってよー!」
と人差し指で羽衣のほっぺを押した。
「ん、ちょっと、恥ずかしい...」
と羽衣が呟いた。
「恥ずかしいって、あたし達姉妹だよ!?しかも、羽衣の方がお姉ちゃんなのに」
そういえばそうだった、と羽衣はハッとした。
「わ、私、お姉ちゃん...」
「あはは、なんかロボットみたい」
よく笑う人だな、と羽衣は感じた。