第一話
「ねぇ、あーくん。今日一緒に帰らない?」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴るや否や、晃の横から声をかける少女の姿があった。
彼女の名前は、悠木 結華。
長い黒髪に、白いカチューシャがトレードマークの美少女。透き通るような白い肌と、同性からも羨望の眼差しを集めるほどのスラっとしたモデル体型から学年一どころか学校一の美少女との呼び声も高い。そして今朝、平凡人朱神晃を囲っていた四人の内の一人である。
読書を好む文学少女であり、その清楚な立ち振る舞いや誰にでも優しい温厚な性格から男女問わず多くの者に人気がある。また、成績も優秀であり学年でも上位5位以内に必ず名前が載るほどである。
そして晃の家の隣に住んでいる、所謂『幼馴染』でもある。
偶然か必然か。家だけでなくクラスでも隣の席を陣取っている彼女が、帰宅部であり、また近所に住んでいる晃に一緒に下校することを提案することは、いつものことであった。
いつものことではあるのだが、それでも周囲の男子生徒から嫉妬の眼差しを向けられないわけではない。ともすれば殺気さえ籠っていそうな視線を受け流しながら、晃は結華に向けて両掌を合わせて頭を下げた。
「わりぃ!今日はこのあと用事があってさ…」
「ううん、全然大丈夫だよ。でも、いったい何の用事なの?」
「それが、また会長に生徒会の仕事を手伝うように言われててさ」
「あーくん、会長さんからすっごく頼りにされてるね…よかったら私も手伝おうか?」
「いや、どれくらいかかるかも分かんないし、多分肉体労働だと思うから結華は先に帰っててくれ」
「うん、分かったよ」
そう言って結華は嫌な顔一つせず、にっこりと晃に笑いかけた。
このとき、晃がクラス一の美少女である悠木結華からの誘いを断ったこと。それも、別の美少女からのお誘いを理由に断ったことで、クラスの男子生徒から晃への怒りのボルテージは臨界点を突破しようとしていた。
しかしそんな彼らの怒りを沈下させたのは他でもない、結華の笑顔であった。
他の女のところに行くと宣言されたにも関わらず、それに難色を示すどころか、むしろ頼られていることを褒めるという優しさ。
彼女に対するクラスの男子生徒の心は今、数人の例外を除いて一つとなっていた。「結華たんマジ天使」、と。
ちなみにその例外の代表であり、人一人くらいなら簡単に殺せそうなほど熱い視線を浴びながらも平気な顔をしている朱神晃の胸中といえば。
――よしっ、今日は二人での下校イベントを回避できたぞ。結華の話は興味ない本の話ばっかでつまんないからな。
と、心の中でサムズアップをしながら勝利の余韻に浸っていた。
控えめに言って屑である。
だが晃はそんな喜びの感情を億尾にも出さず、まるでデートに遅れてきてひたすら謝り続けている男のごとく申し訳なさそうな表情を顔に張り付けながら、何度も結華に謝っていた。
そしてタイミングを見計らい、わざとらしく壁にかけてある時計を確認すると、今度は『やってしまった』というような表情を浮かべる。
「やべっ、遅れたらまた会長に怒られちまう!今日はホントすまん、結華。また明日な!」
「うん!あーくんもお仕事頑張ってね!」
そう言ってひらひらと手を振る結華に手を振り返しながら、晃は慌ただしく教室を出ていった。
彼の口角が吊り上がっていたのに気づいた者は、果たして存在したのだろうか。
「遅い!30分も遅刻するだなんて、アナタ一体何を考えてますの!?」
「す、すみません!会長!」
息を切らしながら生徒会室の扉を開けた晃に向かい飛んできたのは、労いの言葉ではなく叱咤の言葉であった。
声の主は、金髪碧眼と日本人離れした顔立ちの美少女。
晃たちからは会長と呼ばれている彼女の名前は奏 月。
晃たちの通う高校の『生徒会長』であり、晃にとっては一つ上の学年の先輩でもある。
彼女も例に漏れず非常に人気の高い美少女ではあるが、その理由は目立つ外見と整った美貌だけではない。
生徒会を取り仕切る手腕は本物であり、その溢れるカリスマ性により人望も厚い。生徒会選挙に立候補したときは全投票数の内、9割9分以上を獲得するという偉業を成し遂げたことで有名だ。
そんな彼女が何故、生徒会の雑務に晃を手伝わせているのか。
それは、月が生徒会長選挙に立候補したときから彼女のことを手助けしていたのが晃であったからに他ならない。
仕事はできるが高飛車で高慢な性格であった月を更正させ、生徒会長という役職にまで登り詰めさせた影の功労者こそが晃なのであった。
そんな晃に対して月が好意を抱くことは至極順当なことであり。生徒会の仕事の手伝いに託けて晃との接点を持とうとするのは、為政者としてはナンセンスであっても恋する乙女としてはある意味まっとうな行為であると言えよう。
遅れてやってきた晃は、ばつの悪そうな顔をして月に謝った。
「本当、すみません。ちょっとクラスの奴に頼みごとをされまして…それをこなしてたら遅くなっちゃいました」
そう言って晃は両の掌を月に向けてかざした。
その手は所々が黒く汚れており、皮膚の色も薄っすらと赤く変色していた。それはおそらく、何かの力仕事をこなしてきたかのようで。
「…ふん。ワタクシ以外にもアナタのことを頼る人がいるのですね。まぁ、ワタクシは寛大ですから?そういうことなら許して差し上げましょう」
そう言いながら月は制服の胸ポケットから白いレースのハンカチを取り出すと、晃に向けて差し出した。
「ほら、これを使いなさい。そんな手で生徒会室を汚されても困りますからね」
「で、でも会長、そんな高そうなハンカチを汚すわけには」
「そんなつまらないことを気にする必要はありません…もう、手を貸しなさい」
なかなかハンカチを受け取らない晃にしびれを切らした月は、おもむろに晃の手を取ると何の躊躇もなく彼の手を拭き始めた。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
優しく、丁寧に、でも少しだけ乱暴に。
静寂に包まれた生徒会室で、月はただ黙々と晃の手を拭き続ける。
晃の手に視線を落とし続け、強く手を拭いていることが彼女なりの照れ隠しであることに気づいている様子を、晃は一切見せることはない。
もちろんそんなことには最初から気づいており、気づいたうえであえて黙っているのだが。
彼の無言は『会長恥ずかしそうだし、黙っててあげよう』などというイケメン味に溢れた気遣いでは、断じてない。決してない。
「…いってぇぇぇぇ!擦りすぎで痛いんだよ、この怪力ゴリラ女が!」などと、口が裂けても言えないような感想しか心から湧いてこなかったためである。閉口の他なかったから。それだけである。
「ほ、ほら!これで大丈夫ですわ!」
「は、はは。ありがとうございます、会長」
「いいですわ、別に。これくらいなんともありませんもの。ええ、本当に」
気まずそうな雰囲気でお互いに顔を逸らしながら会話する二人の横顔は、真っ赤な頬の月と、頬を痙攣させながら真っ青な顔をする晃とでとても対照的なものだ。
晃は心の中でぼやく。
――くそっ、失敗した。あんな汚いところでサボるんじゃなかった。
時を遡ること30分。
幼馴染との下校イベントを回避した晃であったが、その際に使用した言い訳は本当のことであった。
放課後になったらすぐに生徒会室に来るように。そう月から言われていたため、教室からダッシュで抜け出した晃は脇目もふらず生徒会室に向かった……わけではなかった。
彼が向かった先は屋上へと続く階段の踊り場。一階に位置する生徒会室とは真逆の、四階の一角である。
普段屋上の扉は閉鎖されているため、教師はおろか生徒さえも滅多に通ることはない。おまけに踊り場の奥は階段の下からは完全なる死角になっているという、サボりの穴場スポット。
そんな人気の少ない場所に晃が向かったのは、クラスメイトからの頼まれごとをこなすため、というわけではない。当然違う。
彼は、あまりにも生徒会室に行きたくなかったが故に逃げたのだ。
もちろん、晃もバカではない。月は生徒だけでなく教師たちからの人気も高い生徒会長。そんな月からのお願い、もとい、命令を無視して帰ったことが露見すれば、彼女だけでなく他の多くの者からの心象を悪くすることは明白である。
そのため彼には生徒会室に行く以外の選択肢はなかった。
けど行きたくない。行かなきゃいけないことは分かってるけど、行きたくない。
そんなアルバイトの出勤直前のような心境にあった彼が出した結論は、とりあえずサボって先延ばしにしよう、であった。
何の解決にもなっておらず、ただ問題を先送りにするだけ。そんなことは百も承知であった。だが、サボる。少しでもサボる。それが朱神晃という人間なのである。
さて、晃がサボっていた踊り場は普段から人通りの少ない場所であり、当然掃除も行き届いているわけではない。
そんな場所で座り込み、両手を床につけながら、30分音楽を聴き続けているとどうなるか。手は汚れ、両腕にかけていた体重で掌が押され、赤くなってしまうのは自明の理である。
そうして偶発的にできた己の掌の容態をとっさにサボりの言い訳に使ったわけだが、今回はそのせいで月から照れ隠しの猛攻を受けてしまったというわけだ。ちなみに、月の握力は全国の男子高校生における握力の平均値、どころかこの学校の体育教師(男)たちよりもさらに高い、ということだけ明示しておこう。
それから二人は、生徒会の仕事に取り掛かった。
仕事に入ると、流石は生徒会長、それまでの甘酸っぱい雰囲気の一切を払拭して仕事に取り組んでいた。
晃は月のサポートに徹していた。
ちなみに、彼が今日月に手伝いを強要された理由は、月以外の生徒会メンバー全員が用事や体調不良で来ることができなくなってしまったからであった。
それを聞かされたところで、「そんなの知ったこっちゃねーよ」という感想しか抱かないのが晃クオリティではあるのだが。
「んーっ!やっと終わりましたわ!」
暫くして、今日やるべき仕事を全て終わらせた月は椅子に座ったまま大きく伸びをした。強調される豊満なバストに普通の男子高校生ならばブラックホールのごとく視線を吸い込まれるものだが、晃は目線を向けるどころか盗み見さえしない。心底興味がないのである。
「お疲れ様です、会長。ではいい時間ですし、そろそろ帰りましょうか」
仕事が終わるや否や、帰宅を提案する晃。さっさと帰宅してしまいたいという気持ちが僅かに漏れてしまっていたが、仕事終わりの解放感から月がそれに気付くことはなかった。
「すみません。仕事はこれで終わりなのですが、ワタクシはここにある資料を生徒会顧問のところへ届けなければなりませんの。ですからアナタは先に帰っていてくださらないかしら?」
「そうですか…じゃあ今日は先に帰らせてもらいます。会長、また明日!」
「えぇ、また明日お会いしましょう、アキラ」
お互い別れを告げた後、「本当はアキラと一緒に帰る予定でしたのに…あの顧問のせいで…」などと背後から聞こえたが、晃は聞こえなかったことにして振り向くことなく生徒会室を後にした。