花びらと誓約
「じゃあロゼ、くれぐれも人に気付かれないようにね。それから、着いても長居はしないこと」
ふわふわの白髪の女性は扉の前で念を押して、少女はこくんと頷いた。
「わかっていますわ、お師匠様。すぐに戻ってまいります」
長い赤毛をフードで隠すと、少女…ロゼは足早に裏道を進んで行く。
人気のないこの裏道は街の外の高台に続いていて、夜は闇そのものだったけれど、ロゼにとってそろは好都合だった。
やがて高台の草原にたどり着くと、ロゼは息を整える。
ヒースの花が咲く以外、花という花が見当たらない荒野の高台…
そこには無いはずの光景が、鮮やかに広がっていた。
橙、黄色、赤や紫、青に白…
色とりどりの大ぶりの花びらが、一帯を縁取るように広大な円を象っている。
ロゼはフードを外すと、小さく囁いた。
「こんばんは、この間のお礼を持ってきたの」
バスケットから瓶に入った新鮮なミルクと、焼きたてのクッキーを取り出すと、器に載せてそのまま草の上に置く。
刹那、頭上から小鳥のさえずりのような朗らかな声たちが立て続けに響いてきた。
「ロゼ?」
「エルディーナは元気?」
「今日も早く帰るの?」
重なった質問に、ロゼはひとつひとつ答えていく。
「久しぶりね、ロゼよ」
「お師匠様は最近腰を悪くして」
「ええ、今日もすぐに帰るわ」
流れるように言ったロゼの手を、ふいに何者かが取り、花の円の中へ導こうと引っ張った。
「ねえロゼ、こっちにおいでよ。果物だって飲み物だってたくさんあるし、君はこっちのほうが生きやすいでしょ?」
「行かないわ。あなたたちは素敵な存在よ? でも私は人間だから、あなたたちより早くに朽ちてしまう。人の世界は確かに大変だけど、もし寿命までずっとこちらで生き続けたら、こちらの素敵なものも見つかると思うの」
微笑んだロゼの指先は、何者かの手をやんわりと振り払う。
瞬間、何者かの姿があらわになった。
淡い金の髪に透き通る肌、妖艶なまでに美しいグリーンの瞳。
ロゼより少しだけ背の高い…
人間の世界でいうところの“妖精”が、そこにいた――。
「悲しい、何度誘っても、ロゼは来てくれない」
口を尖らせたあどけない表情を目にして、ロゼは一度まばたきをしてから、ゆっくりと呼吸を整える。
落ち着いて、言葉を紡いだ。
「この境界を越えてあなたたちの世界に行って、それで私はいつ、こちらに戻れるのかしら?」
「えっと、それは、その」
「シード、大好きよ。あなたたちみんな、大切。でもね、人と妖精の世界の境目への干渉は、きっとお互いの“好き”を壊してしまうわ。どちらも、リスクが大きすぎる。…私たちは、この距離でこうして会話ができるくらいが一番いいの」
シード、とは、その者の名ではない。
ロゼたち、妖精と通ずる一部の人間の間で“妖精たち”を意味する言葉だった。
目の前のひとりのシードは、軽くため息をつくと、ロゼに背を向ける。
「調剤知識のお礼は確かにもらっていくよ。またおいで、ロゼ」
光輝く蝶の群れが突如視界を遮り、気付いた時には彼らの姿も、広
い円を象っていた花びらも、全て消えていた。
「ありがとう」
ロゼは優雅に一礼して、素早く引き返した。
***
「今日も無事帰ったね、お疲れさま」
白髪の女性はロゼの頭をぽんぽんと軽く叩くと、温かい紅茶を差し出す。
甘い香りが、ロゼの体に残った微かな緊張感をほぐしていった。
「エルディーナ様、彼らの……シードの世界は、私たちの目にはどのように映るのでしょう?」
「さあね、私ら薬師は、シードの力を借りて薬草を煎じるけれど、互いの間に不可侵の領域がある。シードが自然と馴染み、私らが街明かりに馴染むには、それが必要不可欠なんだろうさ」
――いつだったか、彼らの世界に迷い込んだ人間がいたらしい。
その人間は大人だったけれど、子供のようになって帰ってきたとか、人間の言語を忘れて不思議な単語を話していたとか……
はたまた、詩歌の才を与えられたものの若すぎる寿命を迎えたとか。
風が伝えた人々の噂は、嘘か誠か。
その噂を聞くくらいがちょうどいいのかもしれないと身を引き締めつつも、ロゼは、惚けたようなため息をついた。
「互いに憧れは、尽きませんけどね」
再び口に含んだ紅茶にいつの間にか紛れていた大ぶりの花びらに、そっと微笑みながら。
*おわり*