私の太陽が沈んだ日
「――うーっ……」
ベビーカーに乗せられた赤ちゃんが、唇を引き結んで突然唸り出す。
次の瞬間には、ぽろぽろと小さな雫を落とすのだ。
目を見開いた私を見て、幼馴染みの彼女は、あぁ、と細い息を吐く。
突然泣き出した赤ちゃんに、お母さんは慌てているが、幼馴染みの彼女がゆるりと足をそちらに向け、そっとベビーカーを覗き込む。
そうして、ベビーカーの中に転がっていたガラガラを手に取り、左右に振った。
お母さんはキョトンとしているし、赤ちゃんはえぐえぐと愚図りながら彼女を見上げる。
私も何が何だか。
「……ありがとうございます」
泣き止んだ赤ちゃんを見て、お母さんが緩く頭を下げたが、彼女がガラガラを振る手は止まらない。
屈み込んだ状態で、顔だけを上げた彼女は、「黄昏泣きですよ」と薄く笑みを作った。
唇だけを引き上げる笑みだけれど、酷く柔らかな印象を与える。
「赤ちゃんって、夕方になると泣き出すんですよね。だから、黄昏泣き」
ガラガラと玩具が音を立てて、赤ちゃんはそちらに興味が引かれたのか、涙の跡が残る顔のまま、玩具へと小さな手を伸ばす。
椛のような手の平は、ぷくぷくとしていて、柔らかそうだ。
「何で泣くのか、詳しくは分かってないらしいですけど。昼から夜への切り替わりに付いていけないのか、お日様がいなくなるのが寂しいのかも知れませんね」
ガラガラの玩具を赤ちゃんに握らせた彼女は、ゆっくりと腰を上げる。
長めのプリーツスカートが、その動きに合わせて左右に揺れた。
お母さんは初めて聞いた話なのか、目を見開いて、ほう、と息を吐いている。
因みに私は初めて聞いた。
彼女が動かしていたように、ガラガラの玩具を揺らしている赤ちゃんは、きゃっきゃっと笑い声を上げている。
鞄を肩に引っ掛け直した彼女が、私を見て歩き出すから、私も慌てて足を動かした。
***
思い出すのは、赤ちゃんの泣き声と、ガラガラの玩具の音だった。
手首に引っ掛けた数珠を取り外し指に引っ掛けて回す。
ジャラジャラと擦れ合う音が、鼓膜を揺らした。
昔撮った写真の中の彼女は、やはり唇だけを引き上げる、薄い笑みを浮かべている。
彼女の笑顔を撮るのが下手くそな私が、唯一綺麗に撮れた彼女の笑顔。
「美緒」
「……緒美」
指先から外れて飛んでしまった数珠を拾い上げた男が、私の名前を呼んだ。
視線を向けた先には、青みがかった黒髪の、見慣れた姿がそこにある。
仕事で着ているスーツとは別の喪服で、何となくいつもと違う感じがした。
同い年で名前もそっくりだけど、決して双子なんてものじゃなくて、身内だけど親戚に当たるイトコだ。
あまりにも距離が近過ぎて、兄妹のような関係でもあったけれど、書類上、正式な関係ではイトコ。
今も昔も変わらずに、仲のいいイトコだった。
「しっかりしろよ」
「……変なの。しっかりしてるよ」
くすくすと小さな笑い声を漏らし、目に掛かってしまう長さになった髪を払う。
本当なら目に掛からないように、定期的に切り揃えているのだけれど、彼女がいなくなってしまってからは、そんな暇を作れなかった。
彼は、拾い上げた数珠を私に握らせ、眉を寄せながら私の顔を見つめる。
見慣れた顔だけれど、端正な顔立ちを正面から見つめるのは、少し、恥ずかしいかもしれない。
曖昧に笑って見せれば、眉間に刻まれたシワが深くなった。
「太陽が沈むのは、寂しいことだよね」
「……何言ってっか分かんねぇよ」
「でも、また明日も太陽は昇って、また、沈むんだよね」
彼は眉間にシワを作り過ぎて、怖い顔になっていた。
握らされた数珠を手首に引っ掛け、私はジャラジャラと音を立てながら笑う。
赤ちゃんにガラガラの玩具を振っていた、あの日の彼女のように。
「でもね、太陽みたいだって思ってた人は、太陽じゃなくて人だから。だから、戻って来ないんだよ」
赤ちゃんの泣き声が聞こえた気がしたけれど、ここに赤ちゃんはいない。
鼓膜が妙に震えて、目の前の彼が、何かを言っているのに上手く聞き取れない。
熱くなった瞼を感じながら目を閉じたその先には、燃えるような赤い太陽が、ゆっくりと地平線に沈む姿が見えた気がした。