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 婚約破棄、なんてさほど珍しいことではないのだ。少なくとも、私の生きるこの時代の私の周囲では。だって、世界済はめまぐるしく動いている。一分一秒刻々とお金は流れ、今この瞬間にも、あぶく銭に狂乱する者もあれば、代々続く繁栄に終止符を打った没落富豪もいる。

 私のような財閥の家に生まれた娘は、あくまで家の駒にしか過ぎない。誤解をして欲しくはない。私は悲観なんてしていない。長男である兄のように、文武両道を望まれ、稼業において業績を求められ、悩む必要はないのだ。私はただ言うとおりさえに生きれば――祖父や父が太鼓判を押す相手先に嫁いでゆけば、それ相応の生活は保証されるのだ。

政略結婚の道具になることは、何も私ひとりだけの運命ではない。女学校の友人たちはみな、顔もわからない将来の夫のために、花嫁修業をしてきた。好きでもない人と結婚なんて、と顔をしかめる子もいたけれど、私には恋愛というものは本の中で十分だった。なかなか手に入らない人気作をみなで読み回して、学校裏の花壇のそばのベンチに腰掛けて感想を言い合うとき、私は確かに恋をしていたと思う。切ない気持ちも、恋焦がれる気持ちも、私は空想ではありながら知っている。もとより感情というものは実体のないもの。ただ、それをこの現実世界で体験することへの期待は薄かった。


だから、久しぶりに会った婚約者が丁重に頭を下げたとき、私は怒りや悲しみはおろか、特筆すべき感情に身を委ねることができなかった。冷静に、これから先に起こるであろう厄介なことを想像した。

――そう、婚約者。祖父や父が一方的に決めた彼が、昼下がりの喫茶店で、卓をはさんだ目の前にいた。

 急な呼び出しを詫びて、口を開いた彼は、この婚約を終わりにして欲しいと頼んだ。私にできることはない。判断するのは私ではなくて、祖父と父だから。


「私は構いませんよ。ただ、ごめんなさい。おじいさまたちが気を鎮めて聞き入れてくれればいいのだけど」


 彼――山崎満瑠は、私の返事を聞いて、胸を撫で下ろしたようだった。若干上がり気味だった両肩が、ふと緩んだ。真一文字に結んだ唇には、弱々しい微笑みも浮かべている。


「その点については、大丈夫だと思います。私の家はここ数年業績が芳しくない。むしろこの破綻が契機になって、貴女にはもっと良い斡旋先が見つかるはずです」


そうですね、と私は頷いた。


「そう祈ることにします」


 最近メニューに登場したばかりのレモンソーダをストローでかき混ぜる。日光が射す店内には、輸入されたばかりの耳慣れない洋楽が流れている。健全な店内には少し似合わない、怪しいリズムと呪文のような歌詞の曲。


「こんなことになって、本当に申し訳ありません。けれども、本当に良かった。貴女が、話のわかる良い人で。腰を折るくらい低くしなくては、許してもらえないと思っていました」


 山崎満瑠は、片手で後頭部をかく仕草をした。凛々しい顔立ちの彼が苦笑混じりにそれをすると、親近感がどっとわく。彼はこうやって無意識のうちに人の懐に入り込む、昔から器用な人なのだ。

 私はレモンソーダを最後まで飲み干して、彼の次の言葉を待った。

 しかし、彼はにこにこ笑っているだけで、何かを語ろうとはしない。根負けをしたのは、私の方だった。


「両手で数える程お会いしていないのは確かですけれど、私はそんなに聞き分けの悪い子に見えました? 丁重に敬語までお使いになって」


 わざと拗ねた口調を真似て、そっぽを向いてみる。


「はは、そんなことはないよ」


 山崎満瑠は、ここまできて、ようやく、なにか吹っ切れたようで、整えていた髪のセットを片手で崩した。くしゃくしゃになった黒髪のあいだからのぞく目元には、少しだけ疲れがうかがえた。


「もし感情的な人だと思っていたら、正式に家同士のやりとりをする前にこうして打ち明けたりしない。君


 なら、婚約破棄をつきつけられても、涙も罵りの言葉すら出てこないのだろうと思ったから」


「そうね」と私は頷く。「でも、少し残念だと思うの」


 私はお行儀が悪いと知りつつ、テーブルに両肘をついて、両手のひらの上に顔をうずめた。礼儀作法にうるさいおばあ様がこの光景を見たら、どうやって私を叱ってくれるのだろうか。けれど、ミニスカートをはいて大股で気取って歩いている年上の女性を見かけるたびに、私は何を信じていればいいのかわからなくなる。足を露出させるのははしたないことだと、女学校でも家でも教わった――もちろんはしたないことだとは思うけれど。そして、今まで頑なにそう信じてきた自分が、そのスカートを目の当たりにして魅力を感じてしまうことが、私はまだ受け入れられなかった。


「貴方はいざというとき意外に頼りになるし、私の冷めた性格を知ってもそばにいてくれるし、面倒な男尊

女卑の思想ももってなさそうだし。結婚相手が貴方で、私は幸せな方だと思っていたから」


 山崎満瑠と初めて会ったのは、十三歳の頃だった。まだ婚約の話が出る前、純粋に親同士が、子供間の交流を深めてもらいたいと設けた席こそ、ふたりのはじまりだった。お互い、友人とお話をするより、書庫にこもって本を読むことを好む少し変わった子供だったので、このまま内にこもって社交性を失ったら一大事、と親達は相当に気をもんだらしい。肝心の二人については、当時は思春期の真っ只中で、最初こそお互いを意識して素っ気ない態度をとったり、会いたくないと駄々をこねたりしたが、三回目からはなんとなくお互いの後腐れのない性分を理解し合って、そこからは気の置けない仲として、会話をするようになり、何度か手紙のやりとりを重ねた。

 婚約者と決められてから最初に顔を合わせたときも、気恥かしさよりも、自分たちの色恋とは遠い仲を置いて先走ってしまう大人たちの暴走ぶりと、それに抗う術がなくただ受け入れるしかない自分たちの運命の翻弄ぶりに、ふたりで顔を見合わせて笑った。

 私たちの共通点は、聞き分けのいい子供だったこと。将来のことについて、親に反論した記憶は一切ない。つまりは、あきらめのいい子。そして夢のない冷めた子供。自分のいる家、そして立ち位置を把握して、そこからはみ出さないように生きてきた。満瑠は研究科志望だった父の影響を受けて、学問を極め、論文をいくつも執筆している。女性への態度も柔和で、下心を微塵も感じさせない無欲さと爽やかさもあって、派手に黄色い歓声こそ浴びないものの、彼の出待ちをする女学生は何度か見かけた。


「僕も、なんとなく君とは切っても切れない腐れ縁のようなものを感じていたから、少しだけ名残惜しい気がするよ」


「あら、婚約が解消しても、友人として会えるでしょう」


「あまりよろしくないよ。新しい相手が決まったらなおさら、不用意に異性とふたりきりで出かけないほうがいい」


「そういうものかしら」


 婚約者なのだから、もっと頻繁に会うといいと助言を受けたこともあったけれど、今度はすべて翻って、仲良くしてはいけないと、おじいさまたちに言われるのだろうか。なんだか、それは容易に想像がついた。

実際のところ、山崎満瑠は、何一つ変わっていないのに。突然悪い人になったわけでも、罪を犯したわけでもない。私だって、何も変わっていない。満瑠は数少ない友人だと思っているし、きっとこれからも私の良き友人であることに変わりはない。ならば、どうして、私たちは会ってはいけないと言われなくてはならないの?

 飲み干したグラスを店員が片付ける。特に言葉にしたわけではないのに、満瑠の前には追加の珈琲が運ばれ、私にはアイスクリームが渡される。食べるでしょ、と満瑠は笑う。

私は考えることをやめた。私が考えたところで、所詮おじいさまには逆らえないのだから、といつもの常套句を思い浮かべる。


「不自由な世の中ね」


「本当に、その通りだね。だから面白くもあるのだろうけどね」


 山崎満瑠はティーカップを持ち上げて珈琲を飲んだ。そういえば、と私は思い出す。彼は、逆境を楽しむ、そんなところがあった。好敵手がいればいるほど燃え上がり、無理だ困難と言われれば言われるだけ必死に努力して、結果的に学校で成果を残した。

 彼が、学生時代のときのように、あまりにも明るくきっぱりいうものだから、私は言葉に詰まった。悟られないように、スプーンを口に入れる。


「再建のための資金は、足りるの?」


「文字通り東奔西走しているよ。正直、先は見えないけど、どうにかする」


「ねえ、おじいさまに口添えしてあげましょうか」


 いいよ、と満瑠は迷いなく答えた。


「これ以上に君の家の不興を買いたくない」


「不興って、山崎家とは昔から親しかったし、こういうのは持ちつ持たれつでしょう。数年後には、私の家の方が傾いているかもしれない」


「君はわからないかもしれないけど、経済の領域は弱肉強食なんだ。そんな情けは無いに等しい」


「そう。じゃあ、私にできることはないのね」


「君がこうして婚約の解消を快く認めてくれるだけで、気持ちが軽くなったよ。ああ、失礼な意味ではなくて、僕が万が一どうにかなったときに、君の評判を巻き添えにするのは、違う気がしていたから。遅かれ早かれ、君のおじいさまが解消を進めるだろうけど、きちんと君にはけじめをつけて謝りたかったんだ。もしかすると、これが最後の別れになるかもしれないし」


「まさか、貴方まで変なことを考えているんじゃないでしょうね?」


 身を乗り出して訊くと、彼は呆れた顔で溜息を吐いた。


「そんなわけないだろ。僕は大丈夫」


 ――貴方は、どうしてそんなに。

 私は、聞いてみたい。

 私はここ数ヶ月のうちに満瑠に降りかかった出来事を思い出す。満瑠の父が借金を背負い、その返済に追われたこと。そのとき、有力商家の一人息子として生まれ育った貴方は、どう絶望したの?

 その噂を嗅ぎつけ、破産を危惧した取引先が一斉に契約を打ち切ったとき。貴方はこの世の中の仕組みをどう思った?

 頼みの綱だった大黒柱の父親が、投身自殺を図ったとき。貴方は、どういう感情をもって尊敬する父親の姿を思い浮かべた?

 遺書に記されていたこと。借金の原因が詐欺まがいのもので、会社を乗っ取ろうと画策した親戚の手による画策とわかったとき。貴方は、人間について、どう思ったの?

 幸せな人々が好き勝手におしゃべりをしているこの昼下がりの喫茶店の片隅で、婚約の解消を打ち明けたとき、貴方はどういう心情で私と向かい合ったの? たいした努力もしないくせに苦労もせず、相変わらずのうのうと生きている私をどう思っている?

 私は決して冷徹な人間ではない。この質問も、悪意なんてさらさらなくて、私は純粋に山崎満瑠について知りたかったのだ。彼がどう思って、どう判断したのか。目の前にいる山崎満瑠は、一体何を考えているのか。その飄々とした笑顔のしたで、ふさがらない傷を抱えているのだろうか。


「貴方は、きっと人を信じることができないわ。だって」


 自分の言葉に、自分の耳を疑った。満瑠も驚きの表情で言葉を失っているけれど、私だって相当な混乱状態で、なぜだか目頭の方まで熱くなってきた。山崎満瑠は、狼狽える私を見て、今しがた吐いた台詞の意図や経緯をきちんと察してくれたようだった。

 窓ガラスの向こうで、せわしなく行き交う人ごみをひどく優しい目で見つめながら、彼は言った。


「――あのさ。これからは、自由な世界になるんだよ」


 ――自由な世界? 思わず尋ねると、彼は真摯な目で私に向き直る。


「西洋文化の流入が激しいだろう。この聞きなれない洋楽が、あの見慣れないスカートが、自由を連れてやってくるんだよ。今すぐというわけにはいかないけれど、家の決めた相手とは結婚しなくて済む世の中に、ここも変わるはずだ。たくさんの人の中からひとりを好きになって、その人と結婚をする。僕らのように、許嫁なんて制度はなくなる」

 

 呆然とする私に、信じられなくても無理ないよ、と満瑠は続ける。


「僕は西洋の学問を専攻してきた。自由と平等――もう少しで、その鐘がこの街で聞こえる。そんな予感がする。だから、僕も自由に生きようと思うんだ。誰かを愛おしいと思うのも、誰かを憎らしいと思うのも、家が決めるんじゃない。誰かが決め付けるんじゃない。僕が、その中の最高の選択肢を自由に選ぶ。だから、大丈夫だよ、僕は」


 ところでなんだけど、と彼は言う。

 いつもと同じ、優しい瞳はそれ以外の感情を映さなくて、幼い頃から、満瑠の本心は読めなかった。


「君は僕と結婚するべきだと思うよ」


「――え?」


 山崎満瑠は、臆面もなくそう言い切った。


「君の望む生活の保証はしてあげられない。僕自身も生きていけるのか危うい。でも、君をここで手放すのは、――嫌だと思った」


 昔からの馴染みで、彼の言葉に嘘はないことはわかりきっているのに、私はにわかには信じられない。


「だって、貴方が言ったのよ。次の婚約者ができるって。そうしたら会えないって」


「勿論、当然のことを告げたまでだよ。どちらを選ぶのかは、君の自由だからね」


 満瑠は淡々と告げたあと、何事もなかったかのように再びカップに口を付ける。

 私のことを聞き分けのいい素直な子だと思っているおじいさまたちは、今ここで私の決断を聞いたら、倒れてしまうかもしれない。それでも、私は山崎満瑠とまだこんなふうに話をしていたい。彼がどんなふうに暗闇を切り裂いていくのかをそばで見ていきたい。そう思って

 私は膝下まである長いスカートをぎゅっと握りしめる。私の中で芽生えた感情――それはまだ恋愛感情というには幼くて、手放しで彼を欲しがることはできない。けれども、最大限に素直になって、元婚約者にこう叫ぶつもりでいる。

「私、スカートが履いてみたいわ。勿論、とびきり短いやつよ」




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