2話 : ファーストインパクト
視線が釘付けになった。ギターケースに眠る彼女に。
きれいに生えそろったまつ毛が動いた。ゆっくりと瞼があいて、瑠璃色の瞳が現れる。その動き一瞬一瞬に、僕は魅了された。
ぼんやりとしていた瞳に、みるみるうちに光が宿る。瞳がはっと煌めいたその瞬間、彼女は勢いよく体を起こした。
「セージ!」
――僕の叔父の名を呼んで。
僕は驚きでのけ反っていた。その、最もかっこ悪い態勢のまま、彼女と目が合う。
「あなた、誰?」
彼女が怪訝そうに首をかしげると、黄色の愛らしいポニーテイルがとろんと揺れた。
驚く僕の様子を見て、彼女は満足げにほくそ笑む。
「ふうん、あなた、一応あたしの姿が見えているのね」
みずみずしく、弾むような声を聴くと、心臓の鼓動はさらに早くなった。
「君は、誰…?」
「聞くまでもないじゃない。でも分かってないようだから教えてあげるわ」
そう言って彼女は立ち上がった。背は低い。147センチとか、そのくらいだと思う。チューブトップで隠された胸も、大きく…ない。外見は12歳くらいだろうか。
黒いレザーのショートパンツから伸びた形のいい太ももが動いて、ギターケースからゆっくりと踏み出した。
胸を張って凛と仁王立ちをキメた彼女を、僕は腰を抜かしたまま見惚れていた。
「あたしはジェニィ。世界でいちばんの、セージのエレクトリックギターよ!」
女の子が、自分はギターだと言う。しかも、清士おじさんの。
でも僕は納得していた。彼女の容姿、声、雰囲気や香り。すべて、僕が会いたかった叔父のフランホールジュニアそのものだったからだ。
「それはつまり…僕は、清士おじさんのギターが女の子に見えてるってこと?」
「そうね。正確には、“ギターの魂の姿”を見てるってことになるわ」
全然わかんないけど。でも、ジェニィという女の子=叔父のフランホールジュニアということで間違いなさそうだ。
「ほら、体はこっち」
彼女はギターケースの中に入ったままのフランホールジュニアを指さした。
「あたしは、このギターの魂。心なの。セージがあたしを愛してくれたから、こうやって具現化してるのよ」
そういうと彼女は、赤らんだ頬を両手で包んで笑った。とにかく、清士おじさんにメロメロなのはよくわかった。叔父さんが本当にうらやましい。
「それで、セージはどこなの?あたし、ずーうっと眠っていたような気がする。セージも早く弾きたがってるはずだわ!」
きらきらした瞳で言われれば言われるほどに、本当のことを告げていいのか迷った。
「おじさんは…清士おじさんは…」
しかし、叔父さんはいない。叔父は、このフランホールジュニア、ジェニィを残してもう5年も帰らないのだ。嘘をついても、叔父は現れないのだ。
「5年前に、いなくなったんだ」
僕がその呪文のような事実を口にしたとき、時間が止まったようだった。
僕も、ジェニィも、微塵も動かない瞬間があった。
「5年…?うそでしょ…」
「本当だよ」
ジェニィの瞳が揺らいだ。
「今、2015年、10月なんだ」
僕は、スマートホンのカレンダーを、彼女に示した。その数字を目にした瞬間、動揺の色が濃くなる。
「そんなのありえない!セージが、あたしを置いていくなんてこと…!5年間もあたしを弾かないだなんて…」
瑠璃色の瞳がにじむ。
「セージはどこにいるの?」
「僕もわからない」
「嘘つかないで!知ってるんでしょ!」
「知らないんだ」
ジェニィが唇を噛んだ。ぐ、と涙をこらえるように拳を握ったが、次の瞬間…
「うわあああ――――ん!」
目から大粒の涙があふれて、大きな泣声を上げ始めた。
「あ、え!?ご、ごめん!ちょっとまって!」
僕はもちろん動揺した。家族に聞かれたらひとたまりもない。この状況をどう説明すればいいんだ!
それでもジェニィは泣きやまない。ついには膝を折って蹲り、わあわあと泣き出した。
女の子を泣かせた経験など一度もなければ、慰めた経験もない。しかも、慰めたところで叔父さんが帰ってくるわけでもない。
「ティッシュ…!ティッシュ!」
僕は狼狽しながら、涙や鼻水をふけるものを探していた。
ジェニィの悲しみの咆哮が響く中、僕は「ちょっとまって!」とか、「いったん落ち着こう」とか言いながらウロウロと部屋を徘徊した。
その時だった。部屋のドアが開いた。母が立っている。
まずい、終わった。血の気が引いて、倒れそうだ。
「侑斗、独りでなにしてるの」
母は僕を蔑むような眼で見ている。
「え…?」
ひとり?
僕はその衝撃で、言い訳をするのを忘れた。
「趣味に興じるのもいいけど、静かにやりなさいよ。お父さんに見つかったら面倒くさいんだから」
母はそれだけ言うと、ぱたりとドアを閉めた。
母は、父とは違い、叔父には親身に接していた。この部屋も、叔父がいつ帰ってきてもいいように、換気や掃除をしてくれている。僕の趣味にも寛容だ。
とりあえず、助かった。そして、分かったことが一つ。
僕以外、ジェニィの姿や声が、見えていないようだ。
あまり声をたてるわけにもいかない上に、励ます言葉も見つからないまま、僕はジェニィの傍にティッシュペーパーを置き、座って泣きやむのを待つことにした。
彼女は時たま、ティッシュペーパーを取り、鼻をかんだりして、また思い出して泣く、というのを繰り返した。
ようやく彼女が落ち着いたのは、夕食をとり、風呂に入り、両親が寝静まった深夜であった。
僕がずっとそばにいても、叔父との思い出の回想には迷惑だろうと思い、部屋を出た。深夜にもう一度叔父の部屋を訪れてみると、泣きまくって完全燃焼したジェニィが、ティッシュペーパーのお花畑の中で抜け殻のように座っていた。
「落ち着いた?」
僕はそういってミネラルウォーターを差し出した。ティッシュで鼻をかめるようなので、水も飲めるんじゃないかと思ったからだ。
ジェニィは、僕の手からミネラルウォーターを奪うと、のどを鳴らして飲んだ。しかし、水は減っていない。散らばったティッシュをよく見れば、鼻水で濡れているわけでもなかった。魂なので、物理的干渉には限度があるようだ。
満足するまで水を飲むと、彼女はしゃっくりを挙げながら、僕にペットボトルを寄越した。
「ぜんぶ、置いていったのね」
ジェニィはぼんやりと、部屋のCDやレコード、漫画などを見渡した。
「うん…」
「大好きだった、ロックンロールも」
「うん…」
「思い出も…」
僕は言葉に詰まっていた。置いて行かれたのは、僕もジェニィも同じだ。叔父が帰ってこなくなって1カ月の頃は、僕もとても落ち込んだ。何度も泣いた。しかし、5年も経つと喪失感は残っても、ずっとくよくよしているわけでもなくなる。時間とロックンロール、そしてジェニィが、僕の心の傷を癒してくれた。
しかし、ジェニィは今日、叔父を失ったのだ。
ジェニィは、膝を抱えて丸くなり、何かを考えているようだった。そして、僕の顔をまじまじと見てくる。なんだろう。そんなかわいい顔で見つめられると恥ずかしい。
「あなた、知ってるわ」
そして、ずい、と僕に這いよった。
「昔、あたしを弾いたことない?あなたが小さかったころよ」
僕は驚いた。かつて、一度だけ叔父がフランホールジュニアを触らせてくれた、あの時だ。小学5年生の、初めてギターに触れた日だ。
「あなた、よく、セージがあたしを弾いてるとき、ここの部屋に遊びにきてたでしょ」
そう、よく叔父は、僕がこの部屋で秘密基地ごっこをしていると、ギターをシャカシャカと弾いていた。
「わかったわ。あなた、セージの…なんていったかしら…お父さんの子供のきょうだいの…」
「甥?」
「そう!甥でしょ!たしか名前は…よしお!」
「ゆうとです」
「そう、ユートよ!」
ユート。ジェニィは、僕の名前をそう呼んだ。シビれた。そのきらきらとした声で、僕の名前を、ジェニィが呼んだのだ。
感動して固まっていると、何?と彼女が首を傾げた。かわいい。ずっと見ていられる。超かわいい。あれ、僕はいつからロリコンに……
「…いや、嬉しくて。ずっとほら、憧れてたから」
僕が照れながら言うと、ジェニィはふうん、と目を細めた。
「5年前はそうは思えなかったけど」
「あの時はね。でも、清士おじさんがいなくなって、すごく寂しくて、ここに籠るようになってから、ロックンロールに助けられたんだ。ロックンロールと、清士おじさんの弾く、君に」
そう言うと、ジェニィの頬が少し赤くなるのがわかった。
「当り前よ、あたしとセージはベストカップルなんだから!」
彼女は嬉しそうに胸を張る。
「でも、どうして君が見えるようになったんだろ。母さんは見えなかったのに」
「あなたが、あたしを、“そーゆー目”で見てしまうくらい、好きだからでしょ」
僕の疑問に、ジェニィは頬杖をついて答えた。
「世の中には、ギターに異常な愛着を示す人がいるのよ。恋しちゃうのね。そういう人たちが、“あたしのようなもの”を作り出すの」
つまり、念のようなものだろうか、と僕は考えた。
「ギターは木で作られているし、そういうのが入りやすいのかもね」
ジェニィは人ごとのように言う。
「同じ嗜好を持つ人は、あたしの姿も見えるし、声も聴こえると思うわ」
ジェニィの話を聞いて、僕は昔にした、叔父との会話を思い出した。
小学生の頃だったと思う。
僕は叔父に聞いた。
「清士おじちゃんはどうしてそんなにギターが上手なの?」
叔父は悪戯っぽく笑って、こう答えた。
「侑斗、猫語がわかる人達がいるって、知ってる?」
「しらない」
「いるんだって。猫が好きすぎて、猫と話すことが出来る人たちって」
「うそお」
「ホントなんだよ。きっと。それと同じで、俺もギターの声がわかるから」
当時は叔父が冗談を言って、僕をからかっているのかと思っていた。
でも、叔父は本当の話をしていたのかもしれない。
「ユートは、セージから何か聞いてないわけ?」
ジェニィが、自分の“本体”のボディを指でいじりながら言った。
「なんにも聞いてない」
僕は、「ちょっとね」と言ってこの家を出ていく叔父の後ろ姿を思い出していた。記憶が遠くなっているのか、それとも朝日が眩しかったのか、その姿は霞んでいた。
「ジェニィは、聞いてないの?」
僕がそういうと、ジェニィがジトッとした目視線を送ってきた。
「ジェニィ…さん…は」
僕が丁寧な呼び方に変更すると彼女は満足げに顔を上げた。けれど、すぐに悲しそうに眼を伏せる。
「セージは、あたしに『暫く弾けなくなる』って言ったわ…どうしても、やるべきことがあるからって」
ジェニィはうつむいた。
「待っていてくれって、あたしに言ったの。またすぐ、一緒にやろうって」
ぎゅっと、拳をつくって、レザーパンツを握っていた。
「セージはファジーフォックスをやめて、色々悩んでたみたいだから、もし“それ”をすることで元気になってくれたらって思って、あたし、待ってるっていったの」
また、ジェニィの目に涙が溜まってきていた。
「でも…セージは…」
叔父は、戻ってこないのだった。
「…だけど、僕は君がこの家にいたから、清士おじさんが戻ってくるとずっと信じて待っていられたんだ」
僕の言葉に、ジェニィははたと顔を挙げた。
「あんなに大事にしていた君を、売らずにこの部屋に残したのは、またこの家に帰ってきて君を弾くためだと思ったから」
その僕の言葉に、ジェニィの瞳は宝石のように輝きを増した。
「そうよ…!もうあたしをすっかり手放す気なら、売っちゃうのが普通だもの!」
ジェニィは嬉しそうに立ち上がる。先ほどの憂いに満ちた表情はどこへやら。どうやら、切り替えが速いタイプらしい。
「セージは、きっとあたしを迎えに来れない理由があるのよ。たぶん。きっと。いえ、絶対!」
よくわからない想像の末、彼女は言った。
「そうとなれば、こちらから会いに行けばいいのよ!」
「でもどうするの?僕もジェニィさんも、清士おじさんからどこへ何しに行くか聞いてないし…」
僕の不安を打ち消すかのように不敵な顔をして、彼女は言った。
「ユート、わたしを誰だと思っているのよ」
ずい、と僕に顔を近づける。いい匂いがする。
「あたしはセージのフランホールジュニアよ!何年も、ずっと、セージと一緒にたくさんのライブやレコーディングをこなしてきた、このあたしよ!」
「つまり、アテがあると…」
そういうこと、と彼女は満足げにほほ笑んだ。
「まずは、あたしの調節をしないとね。5年も入りっぱなしだったもの。弦もはらなくちゃ」
「そっか。そうしないと弾けないもんね」
僕のその発言がお気に召さなかったようで、ジェニィは蔑んだ目で僕を見た。
「ユートがあたしを?冗談でしょ!絶対いや、100億年早いわよ。ユートじゃ絶対に気持ちよくなれない!」
「気持ちよく!?」
僕はその卑猥すぎる発言に度肝を抜かれた。なんで卑猥かと思ったのかは、想像してほしい。
言い放った本人も、顔を赤くした。
「こ、言葉の蚊帳よ!」
「言葉の綾です」
「綾!」
翌日。
僕は下北沢に降り立った。もちろん片腕には、ジェニィが入ったハードケースを携えている。
ジェニィが叔父を探そうと提案した翌日は、幸いにも休日だった。
彼女は、下北沢のある楽器店に連れて行けと僕にせがんだのだ。目的は彼女の“健康診断”かつ、情報収集である。どうしてもその楽器店にいるリペアマンでないとダメらしい。
だけれども、ジェニィは微塵も店の場所を覚えていなかった。覚えていたのは、下北沢にあるということと、『コメット』という店名だけである。滅多に下北沢など降り立ったことがない僕は、下北沢南口で足を止めていた。
南口は、ギターを背負った若いバンドマンたちやカップルの待ち合わせでにぎわっていた。石を投げればバンドマンにあたる。下北沢はそういう街だ。ライブハウスも非常に多い。下北沢のすべての地下階段はライブハウスに通ずる。嘘じゃない。たぶん。
「ねえもう着いた?」
ケースの中からくぐもった声が聞こえている。僕だけに。
「今下北沢駅についたところ」
周囲を気にしてこそこそと答えた。
「コメットは見つかった?」
「ちょっと待っていまスマホで…」
「まどろっこしいわね!ちょっとケースあけて!その隙に出るから!」
ジェニィが騒ぎだしたので、仕方なくハードケースをパカリと一瞬開け、閉じた。どうやら自分の力では出てこられない仕様らしい。
それより、うっかり人目を気にせず喋ったり、ケースを開けたりしたので、隣で待ち合わせをしていたらしき女子が僕と距離を取った。
しかし、そんなこともお構いなしに、ジェニィは「なにこれ!駅が工事されて変わってる」だの「セージが好きだったラーメン屋がない!」だのちょろちょろと動き回る。
僕はスマートホンを耳にあて、通話をするふりをしながら、彼女に停止命令をだした。
なんとか店のホームページの分かりにくい地図と、ジェニィの記憶を手繰り寄せることで、『USED・ヴィンテージギターと修理の店 コメット』にたどり着くことが出来た。
コメットは、おしゃれなビルの3階に入っていた。通好みの楽器屋特有の、入りにくい独特の雰囲気は、限られた音楽好きのみを歓迎しているかのようである。適当に着てきてしまったニルヴァーナのロンT、超恥ずかしい。
「コーサクっていう店員を探して。きっとあたしのことも見えると思うわ」
ジェニィにそう言われ、店のドアを押した。
店内は広く、所狭しと壁中にギターがディスプレイされていた。いくつかのディスプレイ用のラックが二列並べられ、人がすれ違うことが出来る程度の通路を作っている。脇に試奏用のアンプと椅子が置かれ、音楽雑誌やレコードのコーナーと、ギターの弦やチューナーなどの小物類のコーナーもあった。
そこそこ有名な店なのか、僕以外にもお客が数人、ギターを物色していた。
ヴィンテージと聞いて覚悟はしていたが、やはり、ジェニィと同じ“そういうギター”を多数みかけた。グラマラスなセミアコギターにウィンクを投げられ、テンションが上がった。
彼女たちの容姿は、一人ひとり異なる。それも、見た目の年齢、身長、髪の色、服装や装飾品、体格まで。この容姿ってどうやって決まってるんだろう。
カウンターに店員を見つけた。
「すみません」
「はーい」
店員はひょろっとした、茶髪の男性だった。横で、ジェニィが「この人じゃないわ」とつぶやいた。
「あの、こうさくさん?って店員さん、いらっしゃいますか」
仕方なく聞くことにしたが、下の名前で尋ねたので、店員が少し怪訝な顔をした。だって、ジェニィが『コーサク』の苗字を教えてくれないのだ。たぶん知らないんだろうけど。
「あー、いますよ。ちょっと待っててくださいねー」
そういうと彼は奥の暖簾の方に引っ込んでいった。
「蚫谷さーん、なんか、友達?来てるっすよー」
え、友達?と思ったけれど、下の名前で聞いてしまったので、そう思われても仕方がない。でもジェニィはきっと友達なんだろうし、あながち間違っていない。それにしても、アワビヤって苗字、すごいな。と考えていると、暖簾の奥で人影が揺れ、『アワビヤ コーサク』が現れた。
彼の外見はそれはもう濃かった。
まず、髪型。なんというのかよくわからないけど、ソフトモヒカン。後頭部の一部長い部分を、ちょんとヘアゴムで纏めている。そして、ピアス。両耳に銀色のピアスがいくつもぶら下がっている。唇に二つ。そして左繭上の一つ。おまけに目。コンタクトだとは思うけれど、黒目を敢えて小さくしている。おかげで出来上がった三白眼が、僕を見下ろしていた。こんな外見なのにどうして黒いエプロンが似合っているのかを教えてほしい。
もう一度言うけど、適当に着てきたニルヴァーナのロンTが超、超恥ずかしい。
「お久しぶりね、コーサク」
ジェニィが背の高いコーサクさんを見上げて声をかけた。コーサクさんの三白眼が、僕の傍らのジェニィに移動する。僕は蛇に睨まれた蛙からようやく卒業した。
「え、まじ?ジェニィ?」
コーサクさんはジェニィの姿に驚いている様子だった。高い背をかがめて、まじまじとジェニィを見つめる。
「嘘だろ、本物?」
ジェニィは顎をしゃくってギターケースを開くように僕を促した。僕は完全にジェニィの下僕である。
僕は、仰せのままに、カウンターにケースを乗せ、開いた。
「本物よ。5年の眠りから目覚めたの」
そういって、彼女はくるりと後ろを向き、お尻を突き出した。
彼女の小ぶりで引き締まったお尻…いや、レザーショートパンツの右側に、ステッカーが貼ってある。それは紛れもなく、ファジーフォックスの、キツネを模したロゴだった。しかし、現行のものとは微妙に違うデザインだ。僕も初めて見た。
コーサクさんは、ジェニィの本体を手に取り、裏を返した。そこには、ジェニィのパンツに貼ってあるものと同一のステッカーが貼られていた。
「マジなやつだね」
そう言ってコーサクさんは頷いた。
「で、どうゆうこった。お前が清士とあっさり離れるわけねーだろ。なんでこの兄ちゃんと一緒にいんだ」
コーサクさんは、カウンターに頬杖を突いた。
「セージ、5年前に家を出たのよ。やらなくちゃならないことがあるって。でも、待ってられなくなったから、あたしが迎えに行くことにしたの。久しぶりの再会だから、完璧に調整する必要があるでしょ?だからコーサク、あたしのリペアと、セージの居場所を教えなさい。あなたなら知ってるのよね?」
ジェニィの話を聞く感じだと、コーサクさんはどうやら叔父と関係があるらしい。
コーサクさんはジェニィの話を聞き終えると、じっと彼女を見つめて、言い放った。
「清士の居場所は、俺も知らん」
「え!?なんでよ!流石になんか聞いてると思ったのに!」
コーサクさんはそんなこと言われてもなあ、と言って首を傾げる。
「俺が最後に会ったの、5年前にお前と一緒にリペア来たときだし。それからあいつは、一瞬も顔出してねーよ。でも、あいつが居なくなったの、この界隈じゃ有名だけどね。お前、捨てられたんじゃね?」
ジェニィがきいきいと、捨てられたなんて100億パーセントありえないわ!と反撃していた。
叔父はどうやら、バンド仲間や友人とも連絡を絶っているようだ。僕は思わず口をはさんだ。
「なんで居なくなったとか、噂流れてたりしませか?」
「そーだな、理由は知らんけど…俺が聞いたことあるのは、ファジーフォックス解散してから、仕事さがしてたとか、かな」
叔父が仕事を探していた…。少なくとも、音楽業界ではなさそうだ。
「ところで、兄ちゃんは何者なの?なんでジェニィと?」
「僕、早瀬 侑斗といいます。早瀬 清士の甥です。叔父の部屋に置いてあったジェニィのギターケースを開けて。流れで、叔父が5年も帰ってこないんで、探そうってことに」
「あ、ふうん。あいつ、早瀬って苗字だったんだ。じゃ、ユートちゃんがこいつ見えんのも、清士の英才教育ってやつ?」
ニヤニヤ笑いながら、親指でジェニィを示す。コワ面だけど、いい人そうだ。でも、ユートちゃんて、なんだ。
「そんなところです」
なんだか恥ずかしい。ギターが女の子に見えるようになるって、やっぱり普通に考えると変だ。僕の性癖なのだろうか。どうしよう、やばい。でも、かくいうコーサクさんも、ギターが女の子に見えているのだ。
コーサクさんは、僕をまじまじと観察すると、僕のロンTの柄に視線を止めて、ぷ、と笑った。ちょっとやめてよ気にしてたんだから。
「それ、知らないで着てる人って多いよね。あ、ユートちゃんはそういうつもりじゃないんだろうけど。で、どうするジェニィ、リペアだけでもしてくか?」
その問いかけに、ジェニィはじゃあお願い、と言った。聞き流しそうになったけど、リペアっていくらくらいするんだろう。そう考えているうちに、コーサクさんは、ジェニィの本体を観察し始めた。
「湿度調節剤を入れてハードケースに保存してたみたいだし、おまけに弦も張ってなかったから、状態は悪くないな。でも、湿度調節剤の効果がとっくに切れてるから、多少の木材の痛みがあるね。俺が気になるところ、軽くリペアしとくよ。そんなかからないと思うから、店で待ってて」
そう言って奥へ消えてゆこうとするコーサクさんを慌てて引き留めた。
「あの!いくらくらいかかりますか?」
生憎、3年生になる春に、受験を理由に酒屋のバイトを辞め、収入は減っている。僕はドキドキしながら、コーサクさんの返答を待った。
「こいつ、58年物のババアだし、超貴重なギターだから、100億円」
「え!?」
「とか言って~お代はジェニィの場合、取らねえんだ」
コーサクさんの言葉に僕は尚も驚いた。
「そういう、約束なんだよ」
僕はぽかんとして、財布を取り出す手を止めた。約束?叔父との、だろうか。コーサクさんは、店長なんだろうか。
というか、ジェニィって、僕のずっと年上だ。年齢は容姿に反映されるわけではないらしい。
「あ、ジェニィ、弦張る?」
「張らない!」
コーサクさんの問いかけに彼女は即答だ。本当に僕に弾かせる気がないらしい。叔父とすぐに会えない今、ジェニィが弾いてほしい人はいないのだ。分かってはいたけれど、がっかりである。
僕が肩を落としていたときだった。
「今のフランホールジュニア、早瀬君の?」
どこかで聞いたことがあるような声で話しかけられた。振り返ると、ギターケースを担いだ生島君が立っていた。
長々とお読みいただき、ありがとうございます。
ジェニィがようやく動き出す回でした。
頑張って書きますので、今後もよろしくお願い致します!