間話1.とある少年の夢
「…姉さんが、死んだ…?」
突然の知らせに、俺は呆然とした。
慌てて病院に駆けつけると、そこには変わり果てた姉の姿があった。
姉に縋り付いて泣いている母と、そんな母を傍らで支えつつ、見たこともないくらい顔を歪ませて姉を見つめる父の姿が目に入る。
うちは、とても仲の良い家族だったと思う。二十歳を過ぎて、大学生になって、姉が働き出しても月に一度は家族揃って外食に出掛けた。
姉とは年が二つしか離れていないこともあって、それなりに仲が良かった。姉はゲームが大好きで、だけどゲームはそんなに得意ではないから、姉の代わりに俺がプレイしたりしていた。
そんな姉の最近のお気に入りは乙女ゲームと言われるゲームで、その乙女ゲームですら俺は姉の代わりにやってあげていた。お蔭で、知りたくもない乙女ゲームの知識が身についてしまった。
俺がきちんとクリアをすると「さすがだね!」と俺をとても上げて、そしてすぐに次のゲームを持ってきて…そんな日々が、俺にとって当たり前だったのに。
「…姉さん…」
姉の手にそっと触れると、ぞっとするほど冷たかった。
その冷たさに、姉が帰らぬ人となったのだと、実感せざるを得なかった。
「お願いー!」そう言って俺にゲームを進めてと強請る姉の姿を、もう永遠に見ることは叶わないのだと、残酷な現実を突きつけられた。
姉の死因は、頭部の強打による脳挫傷らしい。
そしてその原因を作ったのは、姉に言い寄っていた男に好意を抱いていた女だった。
その女は姉に逆恨みをして、悪い知り合いに頼んで姉を誘拐し、暴行を加えてもう男に近寄るなと脅したのだという。しかし、その暴行の際に手加減を間違えのか、はたまた姉が抵抗をしてたまたまそうなったのかわからないが、運悪く頭を強く打ってそのまま帰らぬ人となった。
その女と女の知り合いたちは警察によって捕まった。警察を通じて俺たち遺族はその女と面会をしたが、その女が口にしたのは信じられない言葉だった。
「あたしは悪くない! あの女が、横取りをするから…! あたしは悪くない!」
泣きながら自分は悪くないのだと主張する女。
自分のせいで人が一人死んだというのに、ましてやその遺族を目の前にして言う言葉なのだろうか。
母は唖然とし、普段滅多に怒らない父は怒りを露わにして女に掴みかかろうとするのを警察官に止められた。
女との面会が終わって家に帰ると、母は泣き崩れた。
「あんな…あんな人のせいであの子は…!」
「母さん…」
許せない、許せないと泣きながら叫ぶ母の背中を父はそっと撫でた。
きっと父も同じ気持ちなのだろう。母の背を撫でていない方のてはきつく握り締められていた。
そんな母を父に任せ、俺は自分の部屋へ戻った。
部屋について目にしたのは、姉が死ぬ少し前に「お願い!」と言って渡してきた乙女ゲームだった。どのキャラも攻略済みで、姉が満足そうに見ていたのを覚えている。
そのゲームを手に取ると、涙が出てきた。
姉は、決して美人というわけではなかったけれど、愛嬌のある人懐っこい人だった。あんな風に死ぬべき人ではなかった。
なのに姉は、たった一人の、それもくだらない嫉妬のせいで死んだのだ。
―――女なんて、気持ち悪い。
俺は先ほどの女の姿を見て、心からそう思った。
姉が死んだと知って、「可哀想」と言いつつ俺に言い寄ってくる女たち。人の弱みに付け込むように「大丈夫、あたしが傍にいるよ」と自分勝手な意見を押し付けてくる女たち。
おまえたちに何がわかる。姉が死んだのを理由に、俺に近づこうとするおまえたちに。
女なんて、嫌いだ。俺は心から、そう思った。
姉の葬式が終わり、四十九日も終えて、ようやくうちも少しずつ元の生活へ戻っていった。
だけど姉を失った喪失感はいつまで経っても消えない。きっとこれは一生消えることのないものなのだろう。
俺も普通の生活に戻った。だけど、女は徹底的に避けた。
嫌悪感を丸出しにすれば大抵奴らは引く。中には引き下がらない奴もいたが、徹底的を無視をし続ければ怒るか諦めるかのどちらかになって、俺から離れていく。
それでいい。女なんて、一生関わりたくない。
普通の生活に戻れたような気になっていた俺だが、たまに眠れない夜がある。
そういう時はぶらぶらと近くを歩く。散歩をすれば気がまぎれるし、歩き疲れて寝れる確率も高くなるのだ。
近くのコンビニの前を通りかかったとき、「ありがとうございましたー」というコンビニの店員の声が聞こえ、中から一人の女が出てきた。
女は手に小さなビニール袋を下げていて、薄いビニールから見えた中身はどうやら酒のようだった。
女と言うだけで嫌な気分になる。俺は顔をしかめて足早にコンビニから遠ざかろうとした。しかし、女が絡んできた。
「あれー? お兄さん、こんな夜中にどうしたのー?」
…酔っ払いなようだ。若干、呂律が回っていない。
俺は嫌悪感を丸出しにして女を見つめると、何がおかしいのか女は笑いだす。
この女は笑い上戸なのだろうか。
「お兄さん元気ないねー? そういうときはぁ、これですよ!」
じゃん! と言って袋から取り出したのはチューハイだった。
「元気がないときにお酒飲むと、元気になれるよぉ。これ、お姉さんの奢りだから! 家帰って飲んで!」
それともここで飲む? と女はにこにこと笑いながら俺に酒を押し付けた。
俺は何故かそれを受け取ってしまい、慌てて返そうとすると女は「いいからいいからぁ」と言ってご機嫌そうに立ち去ってしまった。
一体なんなのだろう。それに、この酒を一体どうしたらいいのだろう。
俺は手に持った缶を見てため息を吐く。その缶を服のポケットに突っ込み女とは反対方向を歩こうとして、やめた。
やっぱりこれは返そうと思ったのだ。見ず知らずの人間から貰うのはよくない。
女を追いかけるために俺は小走りで走った。女にようやく追いつき、俺は「おい」と女を呼ぶ。女は緩慢な仕草で振り向き、俺を見てふにゃっと笑った。
「これ返す」と告げようとした俺を、さっきまで笑っていたはずの女は目を見開いて見ていた。
なんだ、と思うとすぐに俺は女によって突き飛ばされた。
突き飛ばされた俺はみっともなく地面に尻餅をつき、女に文句を言おうと顔を上げたとき、キキキィ! とタイヤの掏れる音がすぐ近くで聞こえ、ドン! と何かに当たる音が響いた。
俺が呆然としていると、俺のすぐ先で赤い水たまりが出来ていた。
あれは、いったいなんだ。
回らない頭で水たまりの先を見ると、さっきまで笑っていた女から大量の血が流れていた。ああ、これが水たまりの原因なのかと、良く回らない頭で考え、俺は血の気が引いていくのを確かに感じた。
俺は慌てて女に駆け寄り、「おい!」と呼びかける。
女は濁った目で俺を見て、「だいじょーぶ…? けが、なかった…?」と小さな声で呟いた。
なんでだ、こんな目に遭ったのに、なんで他人の心配なんてできる?
俺が怪我はないと言うと「よかったぁ…」と女は小さく笑い、そして目を閉じた。
人の命が失われる瞬間に、俺は立ち会ってしまった。
俺はわからなくなった。
姉の命を奪ったのが女なら、俺の命を救ったのも女で。
女という生き物は自分の事しか考えない生き物ではなかったのか。
女の家族は、俺を責めなかった。
「あの子らしい」と泣き笑いさえ浮かべた。
わからない。わからない。
どうして女は最期まで俺の心配をしたのか。どうして女の家族は俺を責めないのか。
誰かこの答えを教えてくれ――――
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ゆっくりと意識が覚醒していく。目を開ければそこは見慣れた俺の寮の部屋だった。
緩慢な動作で体を起こすと、頬が濡れていることに気付く。
(俺は…泣いていた…? なぜ?)
考えても理由はわからない。
ただ、先ほどまで夢を見ていた気がする。それも、あまり良い夢とは言い難い内容のものを。
昔からこういうことはたまにあった。最近ではめっきり無くなっていたというのに、どうして今になってまた。
しかしどんなに考えても思い出せないのは昔からのことで、俺は考えるのを早々に放棄した。
俺は着替えるためにベットから抜け出し、掛けてあった制服の袖を通す。
さて、今日はどうしようか。
そんなことを考えながら着替えを済まし教室に行くと、姉が楽しそうに一人の女子生徒と話をしていた。
スイート・ラブ・グリマルディ。
最近の姉のお気に入りで、唯一、女性で生徒会入りを果たした才女。
ふわふわの髪をリボンで止めて、生徒会メンバーの証である赤いリボンをきっちりと結んだとても可愛らしい令嬢。
そして、生まれて初めて俺に興味を持たない女。
そんな彼女を、俺もまた姉と同じく気に入っている。
さて、今日はなにをして彼女を揶揄おうか。
そんなことを考えつつ、俺は姉たちに近づいた。
「ルフィ、少しよろしいかしら?」
俺がいつものように愛想を振りまいて俺に取り入ろうとしている令嬢たちといると、姉さんが突然声を掛けてきた。姉さんがこうしてわざわざ話しかけてくるのは珍しい。
俺は彼女たちに「ごめん、ちょっと行ってくる」と断りを入れて姉さんのもとへ近づく。すると姉さんは付いてきなさい、とばかりに俺に背を向けて歩き出した。仕方がないのでその後に続く。
姉さんは人気の少ない場所まで俺を連れていくと、普段は上品な笑みを浮かべているその表情を凍らせて、冷たい目で俺を睨んだ。
「一体、どういうつもりなの?」
「どういうつもりって?」
なんの話か察しはついているが、敢えて気付かないふりをして聞き返す。しかし、姉さんにはそんな俺のことなんて筒抜けなようで、さらにきつく俺を睨む。
「スティのことに決まっているでしょう。スティには近づかないでと、あんなに言ったのに」
「無理でしょ。俺は生徒会に入ることになっていたんだから」
「それでも! 極力近づかないようにするって約束だったじゃない」
「彼女、揶揄うと面白いんだよね。だからつい、ね?」
「ルフィーノ!」
とうとう声を荒げた姉さんに俺は肩を竦めた。
どうして姉さんはそんなに彼女に肩入れするのか。面白いのはわかるけど。
「いいじゃないの、シナリオ通りにはなってないんでしょ?」
「…それでも、あなたはスティに関わらないで」
はいはい、と適当に返事をする俺に、姉さんは怖い顔をした。
「良いこと、ルフィーノ。スティを酷い目に遭わせたら、わたくしは絶対にあなたを許さないわ」
感情を押し殺した声でそう言って姉さんは俺に背を向けて立ち去った。
俺はそんな姉さんを見送ったあと、思わず笑みを浮かべてしまう。
「絶対に許さない、ね……」
彼女を気に入っているのは姉さんだけじゃない。
俺に愛想のあの字すら振り撒かない彼女を俺は気に入っている。その態度で、彼女が俺をリッツォ公爵家の跡取りとして見ていないことがわかるから。
大抵の者は俺に取り入ろうと必死な中で、彼女だけはそんな気配は全く見せない。憧れの念すら抱いていないのだ。そんな彼女がとても物珍しくて、その態度が少しだけ嬉しいような面白くないような、複雑な心境だ。絶対振り向かせてみせるという想いと、逆にそのままでいて欲しいという想いと、相反する気持ちがあって、結局俺は彼女をどうしたいのかと自分で苦笑してしまう。
どうして姉さんが頑なに俺が彼女に構うのをやめさせようとするのかわからない。
だけど、もう遅い。俺は彼女に興味を持ってしまった。どんなに姉が嫌がろうと、俺は彼女に構うのをやめない。俺は彼女を酷い目に遭わすつもりもないし、姉の心配は杞憂に終わるだろう。
そう楽観的に考えていたことを俺が後悔するのは、まだ先の話だった。