5.お役目御免だからと言って虐められないわけではない
ルフィーノ様を華麗に無視したあの日以来、イザベラ様とカスティリオーニ様の態度が目に見えて軟化しました。
前までは挨拶をするだけで睨まれるような状態だったのが、今では朗らかに挨拶を返してくださるようになるという進歩ぶり。こればかりはルフィーノ様のお蔭だとしか言いようがありません。
しかし、それに反してわたしを見る周りの目が厳しいものになってきているような気がします。特に、女性からの目が。
ヴィリー様、ルフィーノ様を筆頭に、身分の高く優秀な方に目を掛けて頂いているわたしのこの状況が気に入らないのでしょう。学年で唯一生徒会入りを果たした令嬢とあらばなおのこと。
わたしの家の家格はさほど高くはありません。それが余計にわたしへのやっかみを増幅させているもようです。
だからと言ってそれを気にしても仕方ないので、わたしは出来るだけ気にしないように心掛けています。心掛けているだけでやはり気にはなってしまうのですが。
「スイート? なにをしているんです?」
わたしがきょろきょろとしながら学園の廊下を歩いていますと、イザベラ様が不思議そうな顔をしてわたしに声を掛けてくださいました。
わたしは「なんでもありません。お気になさらず」とその場をそそくさと去ろうとしたのですが、イザベラ様に邪魔されて去ることができませんでした。
「なんでもないことはないでしょう。探し物ですか?」
「…はい。実は授業で使うノートを失くしてしまいまして…どこかに落ちてないかなあ、と探していました」
「ノートを失くす…?」
イザベラ様は少し眉間に皺を寄せてわたしを見つめました。
…ああ、勘付かれてしまったでしょうか。ノートを失くしたのではなく、隠されたのだと。
わたしはヴィリー様やルフィーノ様を始めとする生徒会の皆さまのいないところで、地味な嫌がらせを受けておりました。
そう、例えば小さなものを隠すとか、ヴィリー様たちが居ない時に陰口をこれ見よがしに言ったりという程度の可愛らしいものですが。
しかし、あのノートは失くしたら困るのです。あのノートにはわたしの密かな趣味である似顔絵を描いた落書きが後ろの方にあるのです。
前世から絵を描くのが好きでした。その趣味を今世にも引き継いだらしく、わたしは幼いころより絵を描くのが好きでした。庭先に出ては花の絵を描き、雨の日にはカーティをモデルにして絵を描いたりして遊んでおりました。
絵を描くのは好きですが、その絵はとても人様に見せられるような代物ではありません。あんなものを見られたらわたしは恥ずかしくて死ねます。そういうレベルなのです。
「私も探すのを手伝いましょう」
「い、いえ。結構です。わたしのことはお構いなく」
「クラスメイトが困っているのに放っておけないでしょう。それに、あなたはヴィルマの大切な友人ですし」
ああ、そこですか。そこなんですね。実にらしい理由だとは思いますが。
引き下がる気配のないイザベラ様に、わたしが折れることにしました。こうしているのも時間の無駄ですしね。
「…では、イザベラ様」
「どうかエミリオと呼んでください」
「は、はあ…エミリオ様」
「なんでしょう」
「ノートを見かけても中は絶対に見ないでくださいね」
「? 中を見ないとあなたのものかわからないでしょう?」
「ノートを失くす人なんてわたしくらいのものでしょう。くれぐれも、中は見ないでくださいね」
わたしが念を押してそう言うと、エミリオ様はよくわからなそうな顔をしながらも頷いてくださいました。約束ですからね? 見たら祟りますからね?
わたしとエミリオ様が手分けをして探していると、たくさんのご令嬢方を連れたルフィーノ様がこちらへやってきました。
げえ! という内心を必死で隠し、わたしは身を隠せそうな場所にさっと身を寄せました。今、あの集団に鉢合わせをしたらどんな目で見られるか…!
ただでさえ嫌がらせはとばっちりなようなものなのに、これ以上嫌がらせがエスカレートしても困ります。こんなところでエミリオ様と二人でいるところを見られたらなんと言われるか…! 考えただけもおぞましい。
わたしはルフィーノ様一行が去っていくのをこの場で待つことにしました。けれど話し声は一向に遠ざかりません。なぜ。
わたしがこっそりと覗いてみると、ルフィーノ様がエミリオ様に絡んでいました。
「リオ。一体こんなところでなにを?」
「…少し探し物を」
「へえ。なにを探しているの? 俺も手伝おうか?」
ルフィーノ様がそう言うと、周りのご令嬢が不満そうな声を上げました。
そんな様子にエミリオ様はほんの少し顔を歪め、それでも笑顔を保ったまま「いえ、大丈夫ですのでお構いなく」と返されました。
わたしはそれに少しほっとしました。ルフィーノ様とはあまり関わりたくないのです。
わたしはどうもあの方が苦手なのです。前世ではそんなことなかったのですか…やはり二次元と現実は違うものなのですね。
ルフィーノ様はしばらくしてエミリオ様から離れていきました。それをしっかりと確認したのち、わたしは恐る恐るエミリオ様の元へ戻りました。
「スイート。どこにいたんです?」
「申し訳ありません、エミリオ様。少しあちらの方を探していまして…」
決してルフィーノ様を避けていたわけではありません。わたしは物陰に隠れながらノートを探していましたよ。ええ、本当ですとも。
「…この辺りにはないようですね。他に心当たりは?」
「そうですね…」
心当たり、心当たり…とわたしが考え込んでいると、「探し物はこれ?」とわたしの背後から声が掛かりました。
ぎょっとして振り向くと、そこには立ち去ったはずのルフィーノ様が一人でにっこりと笑っておりました。なぜあなたがここに。
いえ、それよりも大事なのはルフィーノ様が手に持っている物です。あれは紛れもなくわたしのノート…! 決して人に見られてはならない、パンドラ…!
「そ、それをどこで?」
「これ? ちょっとね…」
ふふ、とルフィーノ様は意味ありげに笑いました。なんですかその笑いは。
突っ込んで藪蛇になるのも怖いので、わたしは敢えて突っ込まず、「ありがとうございます」と両手をルフィーノ様に差し出しました。
しかしルフィーノ様は意味ありげに笑うだけで一向にわたしにノートを返してくださりません。
「あの…ルフィーノ様?」
「ただで返してあげるとでも思った?」
「え?」
わたしは自分の顔から血の気がすっと引いていくのを感じました。
な、なんて方でしょう…! 見つけてくださったのは感謝しますが、その謝礼を求めるなんて…! 信じられません。この方には優しさとか思いやりという心がないのでしょうか。
「ルフィーノ」
咎めるようにエミリオ様がルフィーノ様の名を呼びました。
しかしそれにもルフィーノ様はどこ吹く風。「なに、リオ?」と笑顔で聞き返す始末。
なんて性格の悪さ。この方、本当にヴィリー様の弟君なのでしょうか。
…いえ、血は繋がっていないのでしたね。
「なに、ではないでしょう。スイートにノートを返して差し上げてください」
「返すのは構わないけど、それだけじゃあ、つまらないでしょ」
「いえ、全然まったく、つまらなくて結構ですので、返してください」
わたしが正直にそう申しますと、ルフィーノ様は口角を上げて面白そうにわたしを見つめました。
…なにか、嫌な予感がするのですが…。
「君はいいかもしれないけど、俺はつまらないから。そうだなあ…これ、一つ貸しにしておくね?」
「はい?」
「俺が困った時に、助けてくれればそれでいいよ。どうだろう?」
いえ、どうだろう、と言われても困るのですが…。
ですがそれ以外に選択肢はなさそうですし、困ったときに助ければそれでいいんですよね? それでノートが返って来るならやってあげようではありませんか。無茶ぶり以外ならやりますとも。
「わかりました。では、それで」
「約束だから、ね?」
耳元でそう囁いたルフィーノ様の声にわたしは粟立ちました。
ルフィーノ様の声はとても艶があって、色っぽいのです。世の中の女性はこういう声で囁かれたらイチコロになのでしょう…。
ああ、わたしが世の女性の枠から少しはみ出ている存在で良かった。
…自分で言って虚しいですが。
ルフィーノ様はわたしにノートを差し出し、わたしはそれを受け取ると胸にしっかり抱きかかえてルフィーノ様から距離を取りました。
ルフィーノ様はわたしの中で危険人物枠に入っているのです。エミリオ様の陰に隠れるようにしてルフィーノ様を見ると、ルフィーノ様は呆気にとられた顔をしてわたしを見つめておりました。
なんでしょう。なにかわたし、おかしな行動でも?
「…あなたは、本当に変わっていますね…」
エミリオ様の呆れを通り越して感心したような声にわたしは首を傾げました。
「そうでしょうか? よくわかりませんが…」
「…そんなあなただから、ヴィルマも気に入ったのでしょうね」
「はあ…」
おっしゃっている意味がよくわかりません。
わたしが難しい顔をして考えていると、エミリオ様は柔らかい笑みをわたしに向けました。
え。エミリオ様のそんな笑顔を頂戴してもいいのでしょうか。レア物ではないでしょうか。
「ふふ。ヴィルマの気持ちが少しだけ、わかりました。ノートが見つかって良かったですね。では、私はこれで」
「は、はあ…。エミリオ様、わざわざわたしのためにありがとうございました」
わたしがそう言って頭を下げると、エミリオ様は軽く頷いて立ち去っていきました。
……さてと。わたしも戻りますかね…。
戻ろうとしたわたしの肩をがしっと掴まれてしまいました。…逃げれませんでしたか。
「“エミリオ様”ね…」
「なにか、問題でも?」
「いいや? 生徒会メンバーで仲が良くていいんじゃないかな?」
にこにこと笑うルフィーノ様。しかし、肩に乗っている手が離れてくれません。
ああ、わたしはもう戻りたいのに…。離してもらえませんかねえ。
「ルフィーノ様も。わざわざありがとうございました。お蔭で助かりました」
「見つけたのはたまたまだったけどね。でも、君のそのノート、面白いね?」
フッとそう言って笑ったルフィーノ様に、わたしは目を見開きました。
ま、まさか…!
「ノートの中を見たんですか…!?」
「誰の物なのか確かめようと思ってね。君、絵を描くんだね?」
「……え、ええまあ…」
わたしはにこにこと笑うルフィーノ様から視線を逸らしました。
心臓がドッドッと嫌な音を立てております。ああ、冷や汗も出てきてような…。
なんていうことでしょう。一番見られたくない相手にノートの中身を見られてしまったようです…! なんて迂闊なの、わたし…!
「似顔絵、似ているねぇ」とにこにこと言うルフィーノ様にわたしは「まあ、そうですか? おほほほ」とらしくない返事をしてしまうくらい動揺しておりました。
しかしずっと動揺しているわけにはいかないのです。わたしは頭を切り替えて、真剣な顔をしてぐいっとルフィーノ様に近づきました。
「ルフィーノ様。お願いがあるのですけれど…」
「なに? 内容によっては聞いてあげないこともないけど?」
にこにこと笑うルフィーノ様の笑みの黒いこと…! あの天使のようなヴィリー様の弟は悪魔でしたか…! 悪魔には十字架とにんにくと釘と相場が決まっております。あとで買いにいかなくては…! あら。それは吸血鬼でしたっけ。
「…お願いします。どうかこのノートの中身はルフィーノ様の心の中だけに留めて頂けないでしょうか…?」
わたしは胸の前で手を組み、きらきらっとした目でルフィーノ様を見つめました。
仮にもわたしは乙女ゲームのヒロインなのです。今こその力を発揮するべき時…!
ルフィーノ様は少し考える仕草をして、にこっと笑いました。
「―――いいよ。これの中身は誰にも言わない」
「ほ、本当ですか…!」
しっかりと首を縦に振ったルフィーノ様にわたしは飛び跳ねて喜びたくなりました。実際にはしませんけれどね。
ああ、ようやくわたしも乙女ゲームのヒロインの恩恵を受けることができたようです。先ほどまではわたしなんでヒロインと同じ顔で同じ名前で転生してしまったのだろう、ヒロインで生まれた意味あるの、なんて思っておりましたが、このためにわたしはヒロインとして転生したのですね! ああ、ヒロインに生まれて良かっ…。
「―――ただし」
「はい?」
わたしはきょとんとした顔でルフィーノ様を見つめました。
ルフィーノ様はとてもいい笑顔をしてとある条件を付きつけました。
「ただし、条件が一つだけ」
「条件…ですか」
「そう。そのノートの似顔絵、一つ完成するたびに俺に見せて欲しいな」
「……え?」
なんですかその羞恥プレイな条件は。
わたしの絵は人に、ましては公爵子息で芸術の嗜みもあるルフィーノ様にお見せできるような代物ではないというのに。
「…だめ?」
「!!」
ルフィーノ様は上目遣いでそうおっしゃいました。
…ルフィーノ様の上目遣いは反則です…! いつもは色っぽくて艶っぽいルフィーノ様ですが、こうして上目遣いで見られると、いつもよりも幼く見え、とても可愛らしいのです。
これは反則でしょう。あざとい。ルフィーノ様あざとい…!
気づけばわたしは顔を赤くして首を縦に振っておりました。いえ、もともと頷く以外にわたしに選択肢はなかったのですが。
「こんなノートじゃなくてスケッチブックに描けばいいのに」
「…これはあくまで、授業中の落書きですので…。普段も趣味で絵は描いているので、そちらはきちんとスケッチブックに描いていますよ」
「へえ」
うっかりと余計なことを言った自分の首を絞めたくなりました。そんなことを言ったら…!
「それも見たいな。俺、君の絵が好きだ」
「!!!」
普段の、色んなご令嬢方に向けているような笑みではなく、柔らかい笑みをしてルフィーノ様はそうおっしゃいました。
その笑みがとても優しくて、ヴィリー様に似ていたので、わたしはついうっかりと、「…また今度、そのスケッチブックを持ってきます」と言ってしまいました。
ああ、わたしはなんて余計なことを…。
だけど、自分が一生懸命描いたものを好きだと言われて、喜ばない人がいるでしょうか。それも身内ではない、赤の他人に言われればなおのこと。
ルフィーノ様は本当に嬉しそうに笑って、「楽しみにしている」とおっしゃいました。
わたしは先ほどとは違った意味でバクバクとする心臓を宥め、「ではわたしはこれで」と足早にルフィーノ様の横を通りすぎました。
その際に、ルフィーノ様はぽつりと呟きました。
「…君は、いつもこんな風に嫌がらせをされているの?」
え、とわたしがルフィーノ様を振り向くと、ルフィーノ様はわたしの返事を待たずにわたしとは正反対の方向へ歩いていってしまいました。
…ルフィーノ様は、わたしのこの状況に気付いておられるのでしょうか。
わたしは胸に抱えたノートをより一層ぎゅっと強く握り締めました。