03 宰相夫妻
王太子夫妻が舞踏会を開こうと決めた日の夜、ロキスタは久方ぶりに屋敷へと帰った。実に一週間ぶりの帰宅だ。暫く何も連絡をとっていなかったが、エリーザがにこやかに出迎えてくれた。彼女の頬にキスをすると、今まで肩に重くのしかかっていた何かが消え去った。
夕食の後、ロキスタは紅茶を飲みながらエリーザと喋っていた。飲んでいる紅茶はエリーザの実家であるアンハルト子爵領で採れたものだ。しつこくない味に、甘い香りがする。
「それで……まあ、あなたは舞踏会なんかあまり好かないでしょうけど、出席してほしいのです」
ロキスタが少々申し訳なさそうに言う。困ったような顔をしていたが、エリーザは頷いた。仕方ありません、と笑顔で返す。
「でも、私の顔を見られてもいいのですか。あれだけ必死にアメリア様の替え玉とばれないように隠していたのに。結婚した時もヴェールで隠したり……まあ、これは慣習ですけれど、あまり人目にはつかないようにしていたはずですよ」
カップをテーブルに置き、ロキスタが頷いた。
「確かにそうなんですが。まあ、あまり隠し通すのも難しいでしょう。特に今回のような普通に開催される舞踏会であれば尚更です。顔を隠している方が怪しまれる。そろそろ他の方々に顔を見せて挨拶しておかないと。アンハルト子爵家の娘はアメリア様にそっくりだという噂もありますが、実際に顔を見られたことは少ないでしょう?真偽のほどは定かではありませんから、実は醜女であるという無礼な噂すらあります」
ロキスタがゆっくりと瞬きをし、エリーザをまっすぐ見つめた。
「正直なところ、私は自分が悪く言われるのは一向に構いません。私が宰相の位に就いているのを快く思わない人はたくさんいます。影では相当言われているでしょう。ですが、あなたがそんな根も葉もないことを言われるのは腸が煮えくり返ります。まあ、言ってしまえばですね……見返してやりたいんですよ、そいつらを。私にはこんな美しい妻がいるのだと見せびらかしたいのは夫として当然の心理……だと思うんですが」
最後の方になると、ロキスタは目を逸らし、頬を若干紅潮させながら言った。エリーザも耳まで真っ赤にして俯いている。
「なので、顔がばれても大丈夫です。アメリア様もあなたにお会いしたいとおっしゃっていましたし。もしそれで何かあれば私が粛清します」
ロキスタの最後の言葉を聞き、エリーザが紅茶にむせた。慌ててカップをテーブルに置く。口元を手で隠し、涙目になりつつむせながら、彼女はちらりとロキスタを見た。
「仮面舞踏会とかには……なさらないのですか。それなら顔は隠れますし」
茶菓子を飲み込み、ロキスタが再びカップを手にとった。
「いえ……そうできればいいのですがね。実は、今回の舞踏会はヘッセンの婚約者探しも兼ねているので顔を隠すのは少々不自然と思うのです」
「まあ、オーヴリール伯爵が?」
ええ、とロキスタは頷いた。
「面倒くさいんですよ、あいつは。幼い頃に交わしたままごとのような約束を律儀に守ろうとしているのですから。そのくせ相手の名前も覚えてないとか、どれだけ間抜けなのかと言いたいです」
素敵ね、とエリーザが笑った。
「意外とロマンチストでいらっしゃるんですね。それなら相手の方も喜ばれるのでは?親に結婚相手を決められる娘の心境としては、約束を覚えていて尚且つ探してくれるような方は素敵でしょうね」
「そういうもんですか」
ええ、と彼女は頷いた。
「私はそういった結婚はしなくて済みましたけど、女の子なら誰しも一度は思い描いてしまうものだと思いますよ。昔、母が読んでくださった本にもそんな話はいくつかありましたし」
ロキスタは顎に手を当て、少し考えた。
「なら……もし、その相手のご令嬢がヘッセンよりも身分の低い者だとしたら……彼女は名乗り出ようとしますかね?」
エリーザがきょとんとする。
「相手の方をご存知なのですか?」
はっとしてロキスタは首を横に振った。
「いや、例えば、の話ですけどね」
彼のその様子を少し微笑みながら見て、エリーザは再び紅茶を一口飲んだ。
「相手の方が伯爵との約束を覚えていたとしても……それは、申し出にくいのではないですか?自分の方が身分が低いわけですし、申し出るのはなんだか、伯爵の身分を狙っているようにとられてしまいそうで、私はできません。それに、まだ伯爵のことをその方も思っていらっしゃるなら、伯爵がより出世できることを願ってしまうのでは?だとしたら、尚更私ですと名乗り出ることはできませんよね」
呆気にとられたようにロキスタがエリーザを見ている。どうしたんですか、という彼女の声に、彼は正気に戻った。そして頭を掻く。
「いや、私もまだまだですね」
紅茶を飲み干し、静かにソーサーの上に置くと、彼はエリーザの肩を抱いてその部屋を去った。