染井吉野の果実
後半に進むにつれて、曖昧な表現が増え、さぞ悩ましきこととなるだろう。
しかしパーツはすべてそろえてあるので組み立てれば曖昧さは自ずと無くなるであろう。
おかしな夢を見た。夢を見たことを翌朝覚えているのは私にとって非常に稀なことであり、覚えている間に記しておきたい。―――満月の夜、私は染井吉野の樹に向かい、歩いている。その樹は小高い丘の上にあり、私は少しばかり息を切らしながらその緩やかな坂を上っているのだ。道中は丘から連なる山の霞がかりにも、春の風情など感じられぬほどに窮屈さが込み上げていた。やっとのことで辿り着いた樹の下、私は確かに青銅色の仮面をした得体の知れぬものがその影からうすら笑いを浮かべているのを感じた。そしてそいつはやがて樹の果実に喰われ、乳飲み子を銜え枝の隙間に消えていったのだった・・・・
その翌朝、私は或る小説家の友人を訪ねた。彼は文壇の中でも地位は低く、古書店を営むことで、どうにか生計を立てていた。小説家は副業であり、自分は唯の詭弁家であると主張するのであった。放っておけば私の存在など忘れて一日中自己満足に耽り語り続けるような奴であるから、彼の主張はおおかた間違ってはいないだろう。その日の店も普段と同様伽藍堂であり、店の奥に難しい顔をした老いも若さも感じさせないような男が腕組みして小さなちゃぶ台の前に胡座をかいていた。私の存在に気づくも挨拶することもなく、私がちゃぶ台の前に座るまで口を開くことはなかった。否、座った後も口を開くことはなかった。どうやら何かを考えこんでいるようであった。
「今日は何をそんなに考え込んでいるんだい?」
私が口を開くとまともな答えが返ってきた。
「『デンドロカカリヤ』の表現にあらためて感心していたのだよ。」
彼の言う『デンドロカカリヤ』は安部公房の初期作品で、コモン(Common)君が小笠原の希少植物、デンドロカカリヤ(ワダンノキ)になるという話である。
「君も他人の創作物に感心することがあるんだね。」
そう言うと彼は信じられない、とんでもない、とでも言いたげな目つきをして予想通りの言葉を発した。
「とんでもない!君、『古きを覽、新しきを考える』というではないか!私は創作の糧に、常に過去の名作を味わいつくさんとしているのだよ!」
「『温故知新』の方が馴染み深いよ。」
「勿論『論語』の方が『漢書』より遥か昔に成立しているがだな、君、『温故知新』を知らない人に『温』の意味を教えられるか?『覧古考新』なら解りやすいだろう!学のない君のために少し教えてやろうか?そもそも『温』という字はな、」
「ところで、今日は君と話がしたくて来たんだよ」
ここらで演説を切らないと先が長い。文句を言いたげな彼の顔の変化を尻目に私は今朝見た夢の話を続けた。話を続けていくと彼は段々こちらに感心を持つようになり、終いには、ほう、おもしろい、と小説家に似つかわしいような歎声を上げて、私に語り始めた。
「・・・希少種のデンドロカカリヤとは逆に、染井吉野というのは江戸時代から観賞用の樹木として日本中に拡がったそうだ。然しその拡がり方は挿し木によるもので、種子によるものではなかった。とするとだ、染井吉野の果実とは何事かと感じざるを得ない。つまり学の浅い君の潜在意識の中に『桜=染井吉野』という雑な等式が完成してしまっているのではないか?学が浅いと考えも浅くなるのかね。しかしね、馬鹿には出来ない部分もあるのだよ。君の夢の中では「桜」「春霞」「月」という美しいキーワードが出てきているだろう?これはつまり、君にも学があったということだよ。『春霞たなびきにけり久方の月の桂も花や咲くらむ』、さらには古今和歌集の『春霞たなびく山の桜花うつろはむとや色かはりゆく』だろう?いや君が古典に明るかったとは意外だよ!」
この男はどこまで私を馬鹿にすれば気が済むのであろうか。勿論和歌など一首も覚えてはいないし、意味も解らない。
「最後の言葉、そっくりそのまま君に返すよ。なんだってそんな和歌を覚えているんだい。」
「愚問だな、覚えていたほうが人生が楽しくなるからに決まっているだろう!」
ちゃぶ台の前に胡座をかいたままで居るこの男には風景の表現などどうでもよいことだろうに。彼は続ける。
「さらに君は、見えないものが見えたというのだね?」
全くわけが解らないという態度を示すと、
「仮面の下の表情のことだよ。青銅色の仮面に覆われているにも関わらず、君はその表情を感じ取ったのだ。夢の中であると云えども、非常に興味深いことではないか。」
何処となく満足げな彼を見て、これはやってしまったなと後悔するのが先か否か、彼は間髪入れずに語り始めた。
「考えてみたまえ、人間というのは見えるものを見えるとし、見えないものを見えないとする、この考え方が大きな支配をしているではないか。君の場合はどうだ、見えないものを見えるとしているのだ。これはエライことではないか。私は正直今目の前に居る君が人間界に存在しうるものかどうか本気で疑っているところだ。尤も、私の個人的な見解では、人間は全くもって何も見えていないものとしている。目の仕組みではなくてな。何も見えていないから何でもできるのだよ人間は。私は小説を書くが、原稿用紙に向かった時、何故小説を書くのか、その本質を追求し始めたが最後、原稿用紙が原稿用紙でなくなるのだよ。そう、見えなくなってしまう。全ての物事が見えてしまうとだな、人間毎日『何故生きるのか』考え続けねばならない。『明日死ぬかもしれない』などと毎日考えて生きている人は一週間もすれば心が死んでしまうだろう。ほら、なんとなく掴めてきはしないか?人間は何も見えていないということが!兎に角だな、その論理をも覆そうとしているのだよ君の夢は!」
そう言ったきり、彼はまた腕組をし直し悩み始めた。どうやら自分の発言について悩んでいるらしい。彼もそんな様子であるから私は夢の話など本気でどうでもよくなってきた。いつものように彼の書斎を見まわしていると、ひとつ見慣れないものが目にとまった。
「あれはなんだい?」
天使が背中合わせで座り込んでいるようなオブジェであった。
「この間、疎遠だった友人から贈られて来たものだよ。英国の土産だそうだ。いやぁ、君はそのセンスを何処で身につけたんだい?丁度君にあの像の話をせねばならないと思っていたところだよ。これを見て最初にね、人間を見事に表現していると思ったのだよ。ズバリ、人間の心をね。」
「君は」彼は改めて私に向かって言った。
「わかり合うことと、全く無関係でいること、どちらの方が難しいと思う?」
それは、きっとわかり合う方だろうな。
「その通りなのだよ!さぁでは私と君は無関係であるか?」
こいつは本物の阿呆なのではないかと思った。
「どうして人間はわかり合おうとする?」
オブジェを見つめながら内心これ以上聞きたくはないと思った。嫌な予感しかしないからだ。彼は二人の天使に跨いで描かれたそれをなぞりながら言った。
「愛があるからだよ!この像の意味するところはすなわち!無関係であり反対を向いている二人の天使が互いの背中をたまたま合わせたところで初めてその翼によってハートの形が完成し、どうにかして互いを分かり合おうとするのだよ!」
どうして昼間から男二人で愛を語らねばならんのだ。夜でも然りである。
「ということはだ!君はその仮面の物体との間に何かしらの愛があるということだよ!」
もはやどういう論理でそこに行き着くのか解し難い状況となってきたが彼の中でとうとう私は夢の中で妄想癖を行使する奇人と化してしまったようだ。
「なぁに、嘆くことはない」彼は続ける
「鏡を見つめてみたまえ!君はその顔を自分の顔とみなすだろう。それが既に妄想なのだよ。君が鳩の大群を見た時それぞれの個体を区別できないように人間も同じ顔をしているのだ。君も私も同じ顔を持っているということだ。異論はあるか?」
これほど否定すべき点を積み上げたら、反って何を否定すればよいのか分からなくなる。要するに彼は、鏡の中の自分は自分とは違う、といった感覚を伝えたかったのであろう。
・・・私は或る晩、漆黒の闇の中にいた・・・
彼が勝手に結論を出して頷いている頃、何気なく私は本棚から「妖怪事典」なるものを取り出し床に伏して眺めていた。ア行から順番に日本の妖怪が載っている、単純なものであった。その事典の前半、つまりア行の欄に、気になる項目があった。・・・姑獲鳥である。彼女の図が夢に出た彼ないし彼女に酷似していたのである。しかし、乳飲み子を銜えた仮面は姑獲鳥を突破しようと試みているようにも思える。なんにせよ、気味が悪い。夢が記憶の整理のために見るものとするならば、未だ見たことのなかったはずの姑獲鳥が夢に出るはずはないのだ。見ていないものが記憶にあるということは、本当に人間は何も見ていなくて、脳内に直接記憶として刻み込まれるようなシステムを持っている生きものであるとするならば・・・。どうやら私はこの男の影響で相当イカれているようだ。彼に気づかれぬよう、古書店を後にした。尤も、彼に気づかれないのは彼自身に原因があるわけで、私は何も意識することなどなかったのだが。
・・・闇の中を彷徨い尽した。しかし私が居たのは闇の中ではなかったようだ・・・
彼の家から私の家まではきつい上り坂、俗に言う心臓破りの坂を過ぎればすぐなのだが、今日の私は何故だか本当に心臓がはち切れそうな胸の悪さを覚え、少し遠回りして帰ることを決意した。堤防の並木道を独りゆっくりと歩いた。たまにここを歩くととても落ち着いた気持ちになれるのだが、今日は違った。兎に角胸騒ぎが止まない、落ち着かない、依然として心臓がはち切れそうな状態である。
―――幸セ運ブハ青イ鳥、愛娘ヲ運ブハ姑獲鳥―――
幻聴か、いやにはっきりと聴こえた。童歌の様にも聴こえ、声は幼さを持っていた。もうここまで来ると悪い予感どころの問題ではない。私は否応なく不幸のどん底に陥れられたのだ。きっと彼の家にいたときに気を抜きすぎたのだ、姑獲鳥に虚を突かれたのだ。逃げるしかないと思った。私は堤防を息の続く限り走り続けた。
・・・光が見える。人の目の独特の光・・・
私は極めて合法的な雇われ人であったので、この時初めて非合法な香具師や盗人のような心持になり心中で「やばい」と叫んでいた。それほどに緊張しきった事態であるのだ。
・・・視界が狭い、どういうことだ?美しい鳥が私に近づく。忽ち人の姿になり、私に乳飲み子を差し出す。愛らしい顔をしている。しかし私は反射的に其れを後ろ向けさせ、その頭を・・・銜えた・・・
どれだけ走っても並木道はまるで終わる気配を見せなかった。ついに息を切らして立ち止った。声は遠ざかっていたが、真後ろに何かの気配を感じる。何か、ではないそれはまさに姑獲鳥である。嗚呼なんということだ。妖怪に襲われるなど、夢に見たことも無かったのに。
乱視気味になった焦点を重ね、やっとのことで周囲を確認することができた。息は荒げたまま、それが遠のく気配もない。確かに私が駆けていた並木道ではあったがいつの間にやら少し天に近づいていたようだ。このまま走り続けていれば私は間違いなく昇天していたであろう。不幸中の幸いである、と思ったのも束の間、私が見た光景は絶望を具現化したようなものであった。
・・・枝垂れ木の果実が襲う・・・
・・・いや、この木に果実はない。私は幻想を見せられているに違いなかった・・・
・・・唯一つだけ、存在が証明されたものが目の前にあった・・・
姑獲鳥は私を一瞥し、去った。その胸に子は居らず、それを抱いたのは青銅の仮面をした…今ならわかる、男であった。
・・・目の前に居るは男、親しい男、しかしその顔をよく知らない・・・
よく知っているが全く知らない男、それが仮面の男であった。いやな正夢もあったもんだ。彼の家で事典を読んでいなければ私は今頃どうしていたのであろう。
―――己ヲ喰ラフハ汝自身、汝ガ喰ラフハ姑獲鳥ノ子―――
その声は私を追いかけてきたわけではなかった。もともとそこにあったのだ。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」昔読んだ詩の一節である。鶯や四十雀とともに姑獲鳥も埋まっているに違いない。そして姑獲鳥は私に囁き続ける。
―――喰ラヘ、喰ライ尽クセ、己ガ汝ノ身ヲ喰ラヘ―――
―――ヤガテ汝ハ澪標トナリテ、彼ヲ導ケ―――
嗚呼、此れは姑獲鳥の呪いか、私は何人目の犠牲者であろうか。
幾度となく歩いたこの桜並木に別れを告げるのはつらいが、最早如何ともしがたい状況である。私は静かに仮面を外し、具を喰らった。私が喰らったのは実は愚ではないのか、考える間もなく私は美しくあるべく姿に還ったのであった。
或る朝、私の書斎に友人が訪―ねてきた。
「この界隈でよく産女の祟りの話をよく聞くんだが、君何か知っているか?」
私は徐に立ち上がり、書棚からひどく埃の被った「妖怪事典」を取り出し、ア行の妖怪を順番に眺め、漸く「うぶめ」の頁を見つけた。
「此れが姑獲鳥というやつだよ。諸説あるが、この地方で伝わっているのは、人に会うと赤子を抱かせ、姑獲鳥自身は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるというやつだよ。何、ただの迷信だよ。」
「そうは言ってもな、三十五年前からずっとここらで不可解な失踪事件が続いてるんだよ。決まって、今みたいに堤防の桜が満開の時期にね。」
自分で実際に行って調べてくる、そう言って彼は書斎を出た。
―――幸セ運ブハ青イ鳥、愛娘ヲ運ブハ姑獲鳥―――
参考:
デンドロカカリヤ(ワダンノキ)…小笠原特産のキク科の木本植物。1属1種で,今のところまだ近縁属は明らかにされていない。
姑獲鳥(産女)…日本の妊婦の妖怪。
香具師…街頭で見世物などの芸を披露する商売人
四十雀…スズメ目の鳥の一種。梶井の詩の中では決して埋まっているわけではないが姑獲鳥の繋がりで引用。
澪標…、航路を示す標識。和歌では「身をつくし」の掛詞。また源氏物語第十四帖で光源氏唯一の子を生む話である。
春霞たなびきにけり久方の月の桂も花や咲くらむ…古今和歌集・六九番・読み人知らず。
春霞たなびく山の桜花うつろはむとや色かはりゆく…後撰集・春上・一八・紀貫之。
参考作品:
「デンドロカカリヤ」安部公房
「姑獲鳥の夏」京極夏彦
「桜の樹の下には」梶井基次郎
「桜の森の満開の下」坂口安吾
「青銅の魔人」江戸川乱歩
願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃(西行・「山家集」)
解説
この短編は、主人公が友人に出逢ってから死ぬまでの話と、その数年後の友人の話である。「いつものように」というところから何遍かこの友人の店に尋ねていることは想像に難くない。この友人とは何者か。要は呪術師である。何遍も出会うことにより徐々に潜在記憶などに影響を与えていく。主人公が“彼”を導く澪標となる。彼とは次の犠牲者のことである。古書店、低ランクの小説家、そんなもので生計が立てられるわけがない。まだ何か稼ぎ口があるのだ。それが依頼を受けて働く呪術師であり、フィクションの世界であるが故のことでもある。時代設定はない。ただ自ずと昭和時代を思わせるようにしている。雑な言い方だが主人公が見たのは全て呪いによるものである。主人公は最後に具を喰らう。具は実のことだが、愚と掛けるために具とした。主人公は古書店にいた時から愚を喰らわされていたはずである。