なつゆき
7月12日、午前10時23分、雪が降り始めた。
私はその15分ほど前からずっと窓の外を眺めていたので、すぐにそれに気がついた。
「前島さん、外、雪が降ってます」
と、私は隣のデスクに座る上司の男性に言った。
「地球温暖化のせいだ」
と前島さんは言った。
前島さんは台風が来きたときも豪雨になったときも、冬に雪が降ったときすら地球温暖化のせいにしていた。
彼は36歳にして、5人の子供の父親だった。子供は5人とも娘で、彼の両親はひどくがっかりしているらしかった。
「嫁の家系が女ばっかりなんだよ」
と前島さんは紺色のネクタイの結び目を弄りながら言った。夏でもネクタイを締めるのが彼の個人的なルールだった。「あいつ自身も2人姉妹だし、お義姉さんのとこも女の子が2人だしな。ほとんど呪いみたいなものさ」
彼の長女はアイドルを目指していて、中学ではダンスクラブに入ったらしい。
「でもありゃダメだな。顔はそこそこかわいいんだけど小顔じゃないんだよ。アイドルってのは小顔じゃなきゃなれないんだろ?俺は昔スマップを生でみたことがあるんだけど、やっぱり小顔だったね。男だけどさ」
前島さんはそう言って、長女がセーラー服を着て玄関の前で直立している写真を見せてくれた(彼はそれを手帳に挟んで持ち歩いていた)。
確かに色白で整った顔立ちをしていた。目の形が前島さんと同じだった。
ちょうど同じ時刻、前島遥は中学校の教室のひとつで、机にうつ伏せて居眠りをしていた。
もちろん彼女は、自分の写真が父親によって披露されていることも(彼女自身はその写真が好きではなかった)、外で雪が降っていることも知らなかった。
彼女は深い眠りの中にいた。
彼女の所属しているクラス(1年5組)は、男女の机がペアになっていて、左側に女子、右側に男子が座っていた。
アルマジロみたいな格好で眠る前島遥の右側には、勝浦幸雄が座っていた。
彼はその名前と坊主頭によって、小学生のときからカツオというあだ名で呼ばれていた。
外見に反して美術部に所属しているのは、別の野球チームに入っているからだ。
幸雄は眠る前島遥を見ていた。
幸雄の目から見ても遥はぐっすりと眠っていて、真夏に降った雪については全く関心を持っていなかった(眠っているのだから当たり前だ)。
それまでおこなわれていた英語の授業は中断して、教室内は結構な騒ぎになっていた。
灯油がないため、ストーブで暖めることができなかった。
毛布やコートなどももちろんなかった。
学校というのは非常に前時代的なところなのだと、幸雄は思った。
クラスメイトは皆寒さに震えていた。
英語の教師は緊急職員会議のために教室を出た。
遥は起きなかった。
教室中で、外の雪に興味を示さないのは遥と幸雄だけだった。
「カツオ、前島死んでるんじゃね?」
と幸雄の前の席の男子が言った。
「眠ってるだけだよ」
と幸雄は言った。
確かに、遥の丸まった背中は規則正しく上下していた。
「お前ら寒くねぇの」と前の席の男子は言った。
「さぁね」と幸雄は言った。
幸雄は右腕と前髪の間から覗く、遥のアーモンド形の右目を見ていた(もっとも今はきつく閉ざされていてコーヒー豆のようになっている)。
眠る遥は綺麗だった。
起きているときもかわいらしい顔をしていたけど、眠っているときの方がずっとその純度が高まった。
幸雄は、遥が起きてしまったら雪が止むのではないかと思っていた。
雪が降ることなど、ただの現象だ。
☆
私は冷房を暖房に切り替えた。
小さなオフィスはあっという間に暖かくなった。
外では相変わらず雪がチラチラと舞っていた。
「遥もな、もうちょっと顔が小さければな」
と前島さんはまだ言っていた。
「雪、止みませんね」
と、後ろから今年入社したばかりの葛城さんが言った。
「地球温暖化のせいだよ」と前島さんが言った。
「誰かの夢かもしれません」と葛城さんは言った。