20.いつかの自分?
「……んッ……んん……ここ、は……?」
ぼやけた視界。雪乃が目を開け辺りを見渡すと、そこは見慣れた自分の部屋だった。
「逃げ切れた……のかな」
咄嗟の行動だった。自分の死を直感した雪乃は本能的に身体を自室までジャンプさせたのだ。時の水の力によって。
「そ、そうだ! ミナセさんや、イリアちゃんを助けないと! ……あ」
逃れてきたのは自分だけだった。再度ジャンプを試みようとするも、雪乃は自信の身体を見て、ふと我に返る。
その身体はどこかぼんやりと薄れており、輪郭からはじわりじわりとエーテルが染み出していた。身体を構成するエーテル量が、確実に少なくなってきていた。
「(そっか……いくら沢山の時の水を浴びたからといっても、複数回ものジャンプに、エーテルソードの発現……これだけ使えば、なくなっちゃうんだ)」
概算でも、もはやあと一回分のジャンプしかエーテルは残されていなかった。
しかもここはエーテルの存在しない世界。供給は不可能という状況だ。
「とりあえず、異世界に戻るしかないか……」
はやくエーテルを供給しなければ、自分の身体は消えてしまう。その事態だけは避けなくてはならない。
「異世界をイメージして……ジャンプ!」
その掛け声と共に、雪乃の身体は黒い残滓となって、消えた。
***
ぐるぐると廻るぼやけた視界の中を雪乃は歩いていた。
異世界の次元へと一歩ずつ近づいていた。
辺りの風景は虹色のグラデーションで覆われており、それらは渦を巻いたり伸び縮みを繰り返していた。この空間が時を渡る回廊だとすぐに理解できた。
歩みを続ければ続けるほど、異世界へ近づいているような気がした。
そうして歩くこと数分、雪乃は虹色空間の奥に黒い影を発見した。
「(なんだろ……人? いや、そんな馬鹿な。ここは時間を渡る人しか通れないような場所じゃ……?)」
雪乃は薄めで遠く見えた影を確認した。それはどうやら人影のように見えたが、雪乃はそれを否定する。
ここに人がいるはずがない、と。
魔物かもしれない。そんな考えもよぎった雪乃は慎重に歩を進めることにした。
影はどんどん大きくなっていく。そしてその輪郭さえもがはっきりとし始めた頃、雪乃はそれが誰かを理解した。
「(子供の頃の……私!?)」
目の前にいたのは、小さな時代の雪乃そのものだった。呆気に取られる雪乃に気づいた子供の雪乃は少し驚いた様子で近づいた。
「お姉ちゃん……誰? ここで誰かに会うのは初めてだよ」
これは自分の姿を模した魔物なのだろうか。もし目の前にいる"これ"が本物の、子供時代の自分だとして、それが何故このような場所にいるのだろう。
色々な考えが一瞬で頭の中をよぎるが、そのどれもが確実性に欠けていた。
状況が状況だけに、雪乃はとりあえず当たり障りのない返事をすることにした。そして同時に相手が何者なのかを探ることにした。
「わ、私はちょっと通りすがっただけ。あなたは?」
我ながら、なんて間抜けな回答なのだろう。そう思った雪乃だったが、目の前の相手はそれを気にすることなく笑顔をみせた。
「わたしはねー、絵本の世界から帰るところ! お姉ちゃん知ってる? あっちには絵本の世界があるんだよ!」
そういうと子供の雪乃は今まで歩いてきた場所を振り返り、指差して言った。
"絵本の世界"とは雪乃が行った異世界のことを指しているのだろうか。
「そ、そうなんだ。えっと……この場所にはどうやって?」
「鏡から入るの! えっとね、あっちとこっちに鏡があって、ここが鏡の中なの! お姉ちゃん知らないでどうしてここにいるの?」
あっち、こっちと子供の雪乃は指差しでジェスチャーをした。恐らく元の世界と異世界のことを言っているのだろう。
「あー……お、お姉ちゃんね、迷子なの。よかったらその絵本の世界に案内してくれないかな?」
雪乃はほぼ確信した。間違いなく目の前にいる少女は自分の子供時代の姿だと。
記憶にはないが、どうやら自分が昔頻繁に異世界へ行っていた事実があるとすれば、この時間と世界を繋ぐ空間を小さな自分が通っていることは十分その証明になるからだ。
「迷子!? 分かった! 私が案内してあげる! 着いてきて!」
小さな自分からすれば今の自分は十分怪しい存在であるはずだが、小さな雪乃はそれを疑うこともせず、案内をしてくれるらしい。
自分にこんな無垢な時代があったのか、雪乃は複雑な気持ちになった。
早歩きで歩くこと数分。虹色がひときわ歪む空間があった。
ここが異世界への入り口なのだろう。戻ったら一体どの時間なのだろう? 時の水に飲み込まれたすぐ後? それともまったく別の時間?
予測もできないので、雪乃はどうしたものかと考えていたその時。
「ここが絵本の世界だよ……って、お姉ちゃんなんか元気ない?」
子供の雪乃が心配そうに尋ねてきた。こちらの表情を伺っていたのだろう。
「うん……ちょっと心配ごとがあって……どうすればいいか分からないの」
そう言った直後、子供の雪乃の表情がはっと変わった。
「もしかしてこれ……お姉ちゃんに渡せばいいのかな……?」
そういって取り出したのは、鈍い光を放つ紅い石だった。
「それは……?」
「絵本の世界のお友達から貰ったの。えっと、なんだっけ……"迷っている人、困っている人がいたら渡してあげなさい"って言われたの」
雪乃はふと考える。どうやら自分はサファイアを誰かから受け取ったことがあるらしいことを。目の前にある石が同じ持ち主から貰ったものだとしたら、この紅い石は魔宝石かもしれない……と。
「これルビーっていうんだって。"分からないことが分かる。見えないものが見える。迷っていたら道が見つかる"……そんなおまじないが込められているんだって。今のお姉ちゃんにぴったりなんじゃないかなぁ?」
「で、でも……お友達から貰った大切なものでしょ? そんな簡単に渡してしまっていいの?」
十中八九、ルビーは魔宝石だ。ルルシェとの戦いにきっと役に立つ。だが小さな子供から騙し取るようなことをしていいのだろうか。いくらその相手が自分とはいえ、雪乃は少し気が引けていた。
「大丈夫! 私はもう一個蒼い石を持ってるし、それにお友達も困っている人に渡してあげたほうが、石もきっと喜ぶよって言ってたもん」
結局その言葉が、きっかけとなった。雪乃はルビーを受け取ることにした。
「ありがとう……大事にするね。そのお友達にもありがとうって、言っておいてもらえるかな?」
「うん! どういたしまして! おまじない、効くといいね!」
子供の雪乃は最後まで元気いっぱいに話すと、手を振り元の世界への方向へと歩いていった。
「結局あの子は"私本人"だったのかな……全然覚えてないや」
雪乃は一人になった虹色の世界で、呟いた。