17.神速のルルシェ
「――ほら、どこ見てるのよ」
雪乃には、ルルシェの声が背後から聞こえた。
「(さっきまで目の前に居たのに――!?)」
とっさの判断で、振り返るよりも前転、距離を取る。起き上がり振り返ると共に構えを取るが――。
「(いないッ!?)」
上か。視線を天井へ、しかしルルシェの姿はない。視界のみを左右へ一瞬向けるが、やはりその姿は見えない。
「正解は――"後ろ"でした」
そう、耳元で囁き声が聞こえた。ぞくりと、背中の筋が凍りついたようだった。
雪乃の腕は後ろ手に、がっしりと組み固められてしまった。
「(目の前から消えて、後ろから声がして……その次にはもう"元の位置"へ戻ってる――!?)」
そんな芸当が、幻惑でなく純粋な"速さ"で行われたのだとすれば、それは万全な状態のアイリスの三重強化魔法を上回る速さかもしれない。雪乃はそう思った。
「宝石もイリアもいない……そんな私が異世界で必要としたのは"速さ"。最初は逃げるためだったよ。でも今は違う。これは戦うための"速さ"なんだ」
ぎりぎりと、ルルシェが雪乃の腕を締め付ける。規格外なのは速さだけでなく、腕力も相当なものだった。
締め付けられ続ければ骨まで捻れてしまいそうな感覚に、雪乃は苦しげな表情をした。
「そっちが速さだっていうなら――」
「んん?」
「こっちは力よッ!!」
雪乃はエーテルの力を解放する。今はいつもとは違い、全身がエーテルで構成されているため、イリア無しでもエーテルを使うことが出来るのだ。
腕に強化魔法……いや、二重強化魔法を掛け、ルルシェの固めから即座に抜け出すことに成功した。
「驚いた、それがエーテルの力なのね。それがあんたの、戦うための力ってわけ」
「そう、この力で今まで生きてこれた」
「あと仲間の力もねッ!!」
ふっと、またルルシェの姿が消えた。ように見えた。次は見逃すまいと視界を集中していた雪乃は、その中に歪んだような、ブレた空間を見つけた。
それは瞬きする間もなく雪乃の側へと距離を近づけた。それはすなわち超スピードで移動するルルシェに他ならなかった。
ゴッ! と、鈍い音が響く。
ルルシェの拳を、雪乃は剣の平で受け止めていた。
「……へぇ、このスピードが見えたんだ」
動きを見切られたというのに、ルルシェはにやりと笑っていた。
「なにがおかしいのよ。大体その速さは何? あなたはエーテルを使えないはずじゃ……」
ルルシェのその余裕の態度を見て、臆した雪乃はつい疑問を重ねてしまう。本能的に、怯えていた。
「これはエーテルじゃないわ。それに、今の速さは全力の半分くらいってとこかしら」
これよりも倍、速くなるとしたらもう目で追うことなど出来ない。
あせった雪乃は、それがこちらを惑わすための詭弁であれ。そう願いながら剣を振り下ろした。
「――二重強化神法」
雪乃の剣が触れるその瞬間、ルルシェはそう呟いた。するとその身体は"消える"どころか、出来の悪いコンピュータのように"分裂"しながら"伸びて"いく。
カ――ツ――ン。
剣が床に触れる音が、そして景色もやけにスローモーに聞こえた。それは恐らくとんでもなく速いものを目にしているからなのだろうか。視界に見えているものの速さに違いがありすぎるのだ。
その金属音が鳴り終える前に、ルルシェの姿はぐにゃぁぁ、と伸びるように雪乃の背後へと移動する。
剣はその"残像とでも言うべき"姿を斬っていたが、そこは既に空虚。そしてこの瞬間、雪乃は攻撃の選択肢を誤ったことを悟った。
剣を床にぶつけた。その僅かな隙でさえ、ルルシェにとっては"隙だらけ"以外の何物でもなかった。
「がッ……あぅッ……!?」
雪乃が突き飛ばされるかのような衝撃を感じたと共に、スローモーの視界が終わる。
背中に攻撃を受けたようだった。そのあまりにも不意に受けた打撃は、吐き気を誘発させるほどの一撃だった。呼吸をするだけで、骨が悲鳴をあげるように痛んだ。
「(で、出鱈目よっ! 速すぎる!)」
呼吸をなんとか整えながら、雪乃は剣を構えた。しかし、構えたところでルルシェの素早さに対応できるわけではない。
「(イリアちゃんを……守るんだッ!)」
頭の中に、ふと"イリアでなくなったイリア"を思い浮かべた。
生気の失った瞳。自分の力が足りないばかりに、イリアから全てを奪ってしまった。雪乃はそんな自分をまだ許せないでいた。
「いくら構えたって無駄無駄。無駄なんだよ、全部――ねッ!」
ぐにゃりと、ルルシェの姿が伸びる。また、視界がスローモーの世界へ。ルルシェの姿は真っ直ぐと雪乃へ向かっていた。
正面攻撃――いや、違う。あんなにも素早いのだから、二手三手のフェイントがあるはず。そう考えた雪乃は剣の平を右方向へ向け始める。
ルルシェの姿は雪乃の背後まで伸びていた。咄嗟の判断で、雪乃は左の肘鉄を背後へ放つ。その瞬間、背後に見えていたルルシェの姿はふっと消える。
「(やっぱりフェイント――!)」
どこに現れるのか。こればかりは運を天に任せるしかなかった。幸いと言うべきか、ルルシェの姿は雪乃の右方向へ伸びていた。
事前に剣を右方向へ向ける準備をしていたため、ルルシェの攻撃は防ぐことが出来る。衝撃にそなえ、雪乃は剣を握る手に力を込める。
一瞬。来るであろう衝撃がこない。それはすなわちまだルルシェが本命の攻撃ではないことを意味していた。右方向に、既に人影はない。
「(本命は左ッ!?)」
分かっていても、身体はそれを防御するための準備が整っていない。ルルシェの拳が雪乃の顔を目掛け、そして捉える寸前――。
「守るんだッッ!!」
背後へ向けた肘、その勢いを利用して雪乃は身を屈めながら半回転する。右手に持った剣の平がルルシェの拳を防御した。
ルルシェもただでは終わらせない。即座に膝蹴りを雪乃へ放つ。当たれば気絶は免れないであろう頭を狙った強力な一撃だった。
「あああぁぁぁァァッッ!!!」
雪乃はがむしゃらに、意味をなさない言葉を発しながら、さらに半回転。故意か、偶然か、雪乃が握った左拳からは濃いエーテルが収縮し――。
その手には、エーテルソードが握られていた。
「危なッ――!?」
エーテルソードの性質を知っているのか、ルルシェは膝が接触しようかというところで高く飛び上がり、それを避けた。
「へぇ……二刀流ねぇ。確かに、"そんな芸当が得意だった雪乃もいた"んだっけ」
抗う雪乃に対して、ルルシェはまだ余裕の笑みを浮かべていた。いや、それどころか反抗する雪乃を楽しんでいる節すらあった。
「……どういう、ことよ」
ルルシェの言葉を今一つ汲み取れなかった雪乃は、右手に滅びの剣、左手にエーテルソードを構えながら、睨みつける。
「疑問に思わなかったかしら。"なんだか私、勘と運が良すぎる気がする"……ってね」
ルルシェはにやり、と笑う。
「勘と、運が……?」
今一つ理解し難い言葉だった。しかし、その言葉は頭の隅をちくりと突き刺すように何かを思い出させた。
「他にも、"デジャビュ"を感じたこと……あるでしょう? 知らないはずのことを、何故か知っているように感じたりしたことが、ね」
ルルシェの言葉が、雪乃の脳内に響く。無数の空回りする歯車に、一つずつピースが繋がっていくような感覚。
ずっと知りたかった"謎の答え"が導き出されるような――。
そんな感覚を、雪乃は感じた。
そして、強引に止められていた歯車は回りだす。雪乃は答えを知ることになる。