16.名前を捨てた少女
「へぇ、ここが水無瀬病院……」
雪乃は暗く無機質な部屋の中で、そう言った。
「……何しに来たの」
椅子に腰掛けていたミナセが、静かに問う。
「何ってそりゃあ……」
雪乃は笑いをこらえきれない、といった様子でくすくすと笑った。
「"イリア"を迎えに」
にやり、と雪乃は表情を歪ませた。
「誰だ、あんたは」
ミナセは立ち上がり、問う。その視線は鋭く、雪乃を捉えていた。
「茶番ね、知ってるくせにそんなことを聞く」
ミナセへ歩み寄りながら、雪乃は言った。
「……入れ替わった雪乃か」
「そうそう、やっぱり知ってるんじゃない。それで、イリアはどこ?」
「聞いてどうする」
「さっきも言ったでしょ、迎えに来たって」
雪乃はミナセの首を掴み、片手で持ち上げる。ぎりぎりと首を絞めると、ミナセは苦しそうに唸った。
雪乃はひとしきり苦しみを味あわせると、ぞんざいに物を扱うかのように、ミナセを床へ放り捨てた。
「いいわ。自分で探すから」
そういうと雪乃は部屋を調べ始めた。
ミナセは苦しそうに何度か咳をしながら床を這うように、精神受信器へと近寄った。
そして取り付けられたパネルに触れ、数個のボタンを操作した。
「……なにをしているの?」
それに気づいた雪乃は再びミナセに近づき、首を持ち上げる。
「ぐっ……ぅ……」
「何をしているのかって、聞いてるでしょ!?」
今度はより痛みを与えるように、首を持ち上げる手に力を込める。
うめき声もでないほど、ミナセの首が締め上げられる。
「……殺すよ?」
ぎろり、と鋭い目で雪乃はミナセを睨んだ。
抵抗するミナセの力は、徐々に弱まっていった。
「さあ、言いなさい。なにをしたのか」
ミナセを壁へ投げつけた雪乃が、尋ねた。
「……呼んだのよ」
「はぁ?」
「本物を呼んだのよ」
ミナセがそう言った瞬間、精神受信器が風の音のような唸りを上げた。
ぼうっとした淡い光が辺りに広がっていく。
「この光は……ふふっ、ほんとに来るんだ。"アイツ"」
キィィ――ン……という音が辺りに轟き、それが止む頃、光も徐々に薄れていった。
そして、沈黙を続けていた精神受信器がゴトッ、という音と共に一度揺れた後、蓋がゆっくりと開かれた。
「ここ、は……。ミナセさんの……?」
そして、そこから出てきたのは"雪乃"だった。
「あははははっ! 凄い凄いっ! 自力でここに戻ってくるなんて。異世界はどうだった? "自分だけが幸せになればいいと思ってる自己中な雪乃ちゃん"?」
けらけらと、甲高く、不気味に、ミナセを襲った雪乃が笑う。
「あなた……鏡の中にいた――ッ!」
精神受信器から身体を起こした雪乃が、自分の姿をした"それ"を見て息を呑む。
いつか鏡の前で聞いた、その責め苦言は今でも忘れてはいない。
「はい、ご明察~。あの頃に比べると随分逞しくなったんじゃないの?」
ふざけたような態度は崩さず、鏡の雪乃が言った。
「……今はそんなことはいいの。なにが目的でここにいるの?」
いまいち表情が見えない、不気味な存在感を誇る相手を目の前にし、若干震えた声で雪乃が言った。
「あいつの狙いはイリアよ、雪乃ちゃん。守りきって」
淡々と、ミナセが言った。
「守りきってって……自分自信と戦うだなんて――」と雪乃が言いかけた時だった。
雪乃の視界は急にぶれた。次に感じたのは首への圧迫感、息苦しさだった。なにが起こったのか、雪乃には分からない。
目の前には鏡の雪乃がいた。本能的に掴んだのは、首を締め上げる物。すなわちそれは鏡の雪乃の腕だった。
この瞬間、雪乃は自らの姿をした者に首を締め上げられているのだと気づく。
「自分自身!? あんたと一緒!? はぁ? 誰が一緒だってぇ!?」
首の内部を伝う筋肉が、ミシミシと音を立てそうなほど雪乃の首が締め上げられる。
「(数歩分以上離れたところから一瞬でここまで……!? それに、エーテルも使っていないのに、この力は一体――!?)」
窒息しかけながらも、雪乃は現状を分析する。どうやら目の前に居る自分は、残忍でいて、そして恐るべき力を秘めているらしい……と、雪乃は判断した。
「ぬるま湯で暮らしてきた甘ちゃんが私と同じ? 笑わせないでよね。私はあの異世界を実力、努力だけで過ごした! イリアもアイリスも、ガーネットも! 仲間なんていない。甘い考えも名前と一緒に捨て、異世界で生き続けることを決めた」
雪乃の首が、さらに強く締め上げられる。これ以上は命に関わると判断した雪乃は、エーテルの力を解放し、その強靭な力で拘束を振りほどいた。
「ゴホッ……ケホッ……仲間がいないって、どういう――それに、名前を捨てたって……?」
何とか酸素を確保した雪乃は、息を荒げながら問う。
「そうねぇ……私はあんたより"3日遅れて異世界に行った"と言えば分かるのかしら?」
3日の遅れ。それが何を意味するのか、今の雪乃に思い当たる節は一つしかなかった。
いつかガーネットが言っていたことを思い出す。
***
――「例えば、ユキノがこの世界にやって来るのが後三日も遅ければ、今のお前はここにいないだろう」
――「あの日から三日後というのは、元々イリアが故郷へ帰省するはずだった日だ。あの時、村にはお前が使っていた言語を取得している翻訳士はイリアしかいなかった。だからイリアは王都への帰省をお前の教育期間が終わるまで引き伸ばしたんだ。翻訳士がいなければお前はまともに言語を取得できないまま王都へ行くことになり、俺やイリアと親しくなることもないまま、王都で平凡な雑用係に任命されていた……かもしれないな」
***
かちりと、また脳内の歯車が噛み合う。つまり今目の前にいる自分は、そういう状況、そういう世界で過ごしてきた自分ということ。"他にもありえた自分の可能性"なのだ。
ならば――と。雪乃は思う。
名前を捨て、異世界に生きることを決めたと言っていた。そんな彼女が、名乗るに相応しい名前は――。
「……ルルシェ」
そう、"雪"の和異に翻訳した言葉……それが、ルルシェ。
「正解正解、大正解~。くくくっ、"雪乃"なんて名前はもう捨てた。だから私とあんたは別人。私は異世界人のルルシェ・ハツセよ」
鏡の雪乃――否、ルルシェは不気味に、怪しげに笑った。
まるで自分に陶酔しているかのようだった。雪乃には、ルルシェは何かに取り憑かれたようにも見えた。
「さあ……イリアを渡しなさい……」
ゆらりと、ルルシェの身体が揺れると共に、消えた。