9.タジ
「イリアちゃん、イリアちゃん」
「ん……んんー……」
「あはっ、口もごもごさせて可愛いっ。ほっぺた突いてみよう」
「んっ……んー……」
「顔逸らして逃げても無駄無駄っ。ほら、こっちからも突いてやるー。うりうりー」
「んんっ……んっ……! ……あ、れ?」
「あ、起きた。おはよ、イリアちゃん」
心地よく眠っているところ、ちょっかいを出されて目を開けたイリアは、自分の失態に気づくのに1秒と掛からなかった。
いつもならどんなに遅くとも、雪乃が起きるよりも30分程は早く、メイドの少女は目覚めているはずだった。
いくら昨夜の寝入りが相当に心地よかったとはいえ、これではメイドの名が廃る。
そして何より眠っている間、雪乃に良いようにされていたかと思うと、少し悔しい――などとイリアは考えていた。
「や、別に嫌だというわけではないのですが……」
「ん? 何が?」
「お気になさらず。個人の話です」
口を尖がらせながらちょっと拗ねた風を装うイリアに、雪乃は首を傾げずにはいられなかった。
「申し訳ありません。ユキノ様に起こしていただくなど……イリア、大失態です。ありえないです」
「私は全然気にしないよ? そんなことより、今日は生誕祭だよ!」
自分の至らなさのあまり、シーツを掴み顔半分隠して反省するメイドを他所に、ご主人の少女はというとお祭りごとに浮かれていた。
「生誕祭は、娯楽の少ないこの村では一年に一度の、唯一のイベント事だといっても過言ではないでしょうね」
ようやくいつもの調子に戻ったイリアは、淡々と告げた。
「生まれの原点に感謝するー……って言ってたけど、具体的にはどんなお祭りになるの?」
「そうですね、大雑把に言うとご馳走と感謝するためのお祈りをします。ただそれだけですが、村の人々にとっては一大イベントなので、毎年とても盛り上がっていますよ」
「うん、村の人達って毎日の様子見てても、普段から飲めや騒げやーっ……なんてことは特になかったみたいだしね。こういう時こそ一層楽しむっていう文化なのかな?」
「はい、その通りです。ユキノ様は娯楽の多い世界から来たと言っていましたが……楽しんでいただければと思っています」
「お祭りは大好きだからね! イリアちゃんも一緒ならきっと楽しいよ」
イリアの小さな身体をベッドから起こしながら、雪乃は笑顔で言った。
「私も……一緒に」
ぼそっとイリアが呟いたその時、玄関から扉をノックする乾いた木の音が聞こえた。
『はーい、どなたですかー?』
ノックの音に、雪乃は慣れ始めた異界語で返事をしながら玄関へ向かい扉を開けた。
『よう、おはよう!』
扉の先に立っていたのは村の民族衣装を着た青年――雪乃がこの村に来て初めて出会った村人のタジという人物だった。
『タジさんだ、おはようございます』
『おっと、今日はユキノちゃんがお出迎えか。ははっ珍しいな、イリアは寝坊でもしたのか?』
タジからすれば、この家への来客の対応は全てイリアがするものだと思っていたので、まさか雪乃が出てくるとは思っていなかったのだろう。
意外そうな表情をしながら、姿の見えないイリアに対して笑ってみせた。
『タジに笑われるのは心外ですが、図星なのでどうにでもしてください』
自分の落ち度が分かっているイリアはからかわれることを半ば諦めた様子で、雪乃の後ろからひょっこりと顔を出した。
『どうにでも? ……じゃあ、今日の宴会用の料理を作るのを手伝ってもらおうかな?』
『はぁ、それくらいなら良いですよ。というか元々手伝うつもりではいましたし』
『マジかよ! これでちょっとは楽ができるぜー……』
承諾してもらえるか分からず、あまりイリアを当てにしていなかったタジは、思わぬ相手の返答に安堵の息を漏らした。
『ただし、あんまりサボっていたらガーネット様に言いつけますからね』
『おいおいおい、せっかく料理が楽になったのにそりゃないぜ』
『タジ、あなたは人を頼りにしすぎです』
『いいじゃねーか。今日は多めに』
『駄目です』
『今日は祭りだから』
『駄目です』
『今日だけ』
『駄目です』
『……』
『駄目です』
こんなやり取りがしばらく続く一方、雪乃はというと、今までの会話内容が半分も分からなかったので、楽しそう(少なくとも雪乃の目にはそう映っていたらしい)な二人を見ながらニコニコ笑っていた。
懇願するタジ。拒否するイリア。ただただ笑う雪乃と、傍から見ればよく分からない状況を一転させたのはイリアの一言によるものだった。
『……それで、こんな朝から一体何の用なんですか?』
『ああ、そうだ。ガーネットのアニキがユキノちゃんを呼んでるんだよ。時計塔で待ってるってさ』
『ガーネット様が? ……時計塔?』
イリアが訝しげな表情でタジを見やった後、雪乃に視線をやると「なになに?」と、話の内容を理解出来ていない様子で首を傾げていた。
「ガーネット様がユキノ様に用事があるそうですよ。時計塔にいるそうです」
「時計塔ってあれだよね、私がこの世界で最初に出てきた場所」
時計塔。雪乃はこの世界に初めてやってきた時のことを思い出していた。
鏡の中の自分と入れ替わり、暗闇を進んだ先にこの村があった。鏡の出入り口は塞がれてしまったので戻ることはできないが、自分の部屋の鏡と時計塔がなぜ繋がっているのか、それを調べる良い機会かもしれないと雪乃は考えた。
「私、ガーネットさんのとこに行くよ。イリアちゃんはどうするの?」
「イリアは宴会のお手伝いをすることになっているので。道は分かりますか?」
「ありゃ、そうなんだ。道は大丈夫だよ。ほら、あそこに見えてるもの」
精神的な意味でも、言語関係的な意味でも常にイリアといたかった雪乃は少し残念そうに口を尖らせた後、森の木々の隙間から見える時計塔を指差した。
「確かに……そうですね。では、お気をつけて」
「うん、それじゃあいってきまーすっ!」
「あ、あのっ……ユ、ユキノ様……」
ひと時でも離れることが心配でたまらなかったイリアは雪乃を呼び止めようとしたがその声はとても小さく、さっさ歩き始めた少女に伝わることはなかった。
結果、そわそわして落ち着かない様子のイリアと、日本語は分からなかったが会話の内容に大体の想像がついてくっく、っと笑いを堪えるタジの二人がそこに残されることになった。
『そんなに心配ならついていきゃいいのに』
『ユキノ様は子供ではありませんし、イリアも過保護ではないので』
『ああ、そうかい』
タジはこれほどまで『嘘をつけ』と言ってやりたい気分になったのは、多分始めてだろうなとしみじみ考えていた。