10.そして世界はなかったことになった
決着は、あまりにも呆気なかった。
高濃度に圧縮されたエーテルが魔物の身体を引き裂き、そして核を失った身体は再生をすることはできなかった。
「終わったの……? これで……?」
ぴくりとも動かなくなった魔物の前で雪乃は立ち尽くしていた。
やがれその身体は霧となり、風に流されるように消えていった。
「や、やった……私一人の力でっ……やったんだ!」
雪乃は緊張と興奮から震えが止まらない手を握り締め、そして長い息を吐いた。
「(これでガーネットさんは死なずに済む……助かるんだ……)」
これでこの世界での雪乃の役目は終わった。エメラルドの効果が消えて他の村人達に姿を見られないようにその場を立ち去ろうとしたその時だった。
「――ッ!?」
突如、気を失ってしまいそうなほどの立ちくらみを感じた雪乃の膝はがくんと折れ、そのまま地面に身体を預けてしまった。
「(身体がッ……動かなっ――!?)」
そして身体にまったく力を入れることができず、立ち上がることは叶わなかった。
ただの疲労による立ちくらみではないことは明らかだった。
「(まさか、魔物の攻撃……?)」
一瞬そんな考えが脳裏に浮かんだ。しかし雪乃は自身を否定する。
第一に、雪乃は今回の戦闘で魔物に直接触れてはいない上、その魔物が霧散する姿をその目で確かに確認したのだ。
ならばこの現象は一体……? 雪乃がさらに思考を廻らせようとしたその時、すぐ近くで足音が聞こえた。
誰かが雪乃に近づいてくる。それもどうやら足音の主は一人ではないらしい。断続的な音のリズムは近づいてくる人物が少なくとも二人はいることを表していた。
一刻も早くこの場を立ち去れなければならないはずだったが、以前変わらずその身に力は入らない。やがて足音は雪乃の耳元で止んだ。
「やはりこうなってしまうのか……これも一つの結末か」
「(えっ……?)」
頭上から聞こえてきたのはガーネットの声だった。
一つの結末とは、この身体に力が入らない状況のことを指しているのか、雪乃には分からなかった。
足音の一人はガーネットだった。ならばもう一人は一体――?
雪乃は考えようとして、そして直感でそれが誰かを理解した。むしろこの状況でもう一人誰かいるとすれば、それは間違いなく――。
「これが、もう一人の私……?」
雪乃の頭上から聞こえた声は"雪乃の声"だった。そう、"現在の時間"に正しく存在している方の雪乃だった。
「ユキノ……無理なんだよ、お前が俺を生かすことは」とガーネットが言った。
そんなはずはない、魔物を倒したことで死ぬことはなくなったはずだ。と雪乃は反論しようとしたが、唇が震えるだけで言葉を発することはできなかった。
「この瞬間……お前が俺を助けたことによって、お前は"矛盾した存在"となったんだ」
「(矛盾した……存在?)」
ガーネットの言う矛盾した存在とは一体何なのか。雪乃には検討もつかなかった。
「ユキノ、お前は俺が死んだことを無かったことにするために時間を越えて過去を変えようとした。そうだな?」ガーネットは雪乃が返事をすることもままならないことを理解していたので、そのまま話を続けた。
「それは確かに成功した。だが、ここで一つの問題が発生してしまうんだ。それは、ユキノという人間が時間を越えて過去に行くという動機が消滅するということだ。俺の生が確定された未来で、"この世界のユキノ"が死んでもいない俺の命を救いには来ないんだよ……」とガーネットは噛み締めるように言った。
「(ガーネットさんがこれからも生き続けて……そうすると"こっちの時間"――つまり今すぐ側にいる私が一年後に時の水を使うことがない……?)」
雪乃はガーネットの言葉一つ一つを順番に頭の中で整理した。つまるところ、今の時間にいる雪乃という人間が歩む未来は、未来からやってきた雪乃と大きく違ってしまうということが分かった。
「そうすると未来からやってきたお前は……世界の矛盾を回避するためにその存在が消滅する。この時間の世界と、お前の元居た時間の世界から消えてしまうだろう」あくまでも声色を変えずにガーネットは言った。
「(そ、そんなっ……ガーネットさん、そこまで知っていてどうして……)」
自分の存在が消える。そう告げられた雪乃は疑問を抱かずにはいられなかった。
どうしてそれを昨日言ってくれなかったのだろう、と。
見れば、自分の身体は徐々に霧となって、どんどん存在が薄くなっていくことが感じられた。
「ユキノ、よく聞け。お前は意味があって、この世界の俺を救い、そしてそれが根本的な解決にならないことを"その身を持って知った"。この事象をお前が経験することは、意味のあることなんだ」とガーネットは言った。
しかし雪乃には分からなかった。これから存在が消えてしまうというのに、それに意味があるとは到底思えなかった。
むしろまんまと騙されたのではないかと、勘繰ってしまっていた。
「いいか、ユキノ。お前はこれから昨晩、俺達が会っていたあの夜まで時間を戻るんだ。そして存在が消えてしまう前に、この"矛盾事象"について自分の口で、俺や自分自身に伝えるんだ」
「(昨日の……夜に……?)」
確かに、この事を昨日の自分に知らせることが出来れば、自分の存在の消滅を回避できるだろう。自分自身を説得するのはそれほど困難なことではないと雪乃は思った。
ただ時の水の制限時間は確かにまだ残っているが、動かない身体のまま使用できるかどうかは分からなかった。
「昨日の俺はこの"矛盾事象"についてまだ半信半疑でいたんだ。何せ実際に時間を越えたのはお前が始めてだったからな。だからユキノ、お前が説明するんだ。そうすれば世界が矛盾することはなくなる」
「(もう一度だけ……過去へッ……)」
雪乃は動かない身体に力を込めた。すると僅かに指先を動かすことが出来た。まるで感覚が通っていなかったかのような指先が、思い通りに動き始めた。
「(……動いたっ!)」
そして次は腕、そして足。身体の部分部分の力が徐々に戻ってきた。ふらふらになりながらも雪乃は立ち上がった。
「(これが昔の私……か)」
そうして向かい合う未来の雪乃と過去の雪乃。過去の雪乃はどこかオドオドしていて、弱々しい瞳で未来の雪乃を見ていた。
「早く行くんだ、ユキノ。今は力が戻ったとはいえ、この世界――俺の生存が確定した世界に居続ける限り、その存在はどんどん削られていくんだ」とガーネットが言った。その瞳はしっかりと雪乃を見ていた。
そして雪乃の身体は徐々に霧と化していき、今にも消えそうになっていた。存在はどこまでも薄く、弱いものとなりはじめていた。
「ガーネットさん……そして昔の私。――いってきます……ッ!」
この世界はなかったことになる。
そうすると、目の前にいる二人の存在を消してしまうのと同義なような気がして、雪乃は罪悪感を感じずにはいられなかった。
しかし元々時間移動という不正のもと成り立つこの世界は、消えてしまうことが当然のようにも思えた。むしろ、そう思わなければ雪乃自信の気持ちが揺れてしまいそうになった。無理やりにでもそう考えることにした。
そして雪乃は目を閉じ、昨晩の風景を強くイメージした。
雪乃はふわりと浮いた感覚を感じた――そしてその後を知るものはこの世界に何一つとして存在しなかった。
この世界はなかったことになった。




