6.あの時飲めなかったコーヒー
夜、月に照らされたラ・トゥの道を雪乃は小走りで駆けていた。
一年近くも前に住んだ村は、やはり懐かしかった。そして息も切れそうになる頃、雪乃はガーネットの家前へ辿り着いていた。
「はぁ……はぁっ……ふぅ。いるんだ、この中に。ガーネットさんが」
雪乃は荒んだ息を整え、一つ大きく深呼吸をした。身体と頭の中がほんの少し落ち着いたようだった。
そしてよし、と決意を固めると玄関の扉をノックした。程なくして家の中から物音が聞こえた。それは徐々にこちらへやってくる。
雪乃は生唾を飲み込んだ。ただ待っているだけ、なんでもない時間のはずなのに、酷く緊張していた。この扉の向こうに会いたかった人がいる。会えないはずの人が居る。
そう思うと、雪乃はたちまちどんな表情をすればいいのか、最初はなんと声をかけたらいいのか、分からなくなってしまった。
そうしているうちに、目の前の扉はいとも簡単に開かれた。
「はいはいどなたさんですかっと……お? ユキノじゃねぇか、こんな時間にどうした?」
家の中からぬっと大きな身体を覗かせたのはガーネットだった。その姿は雪乃の記憶と一片の違いもなかった。それは誇張でもなんでもない。なぜなら、一年ぶりに会うとはいえ、その相手は一年前の人物そのものなのだから。
どんな表情をしようか、どんな話をしようか。雪乃の頭の中にそんな思考は既になくなっていた。ただ気づいたときには、既にその大きな身体に飛び込んでいた。
「ガーネットさん! 会いたかった! 会いたかった……っ!」
「おいおい、なんだなんだ? よく分からねぇがとにかく家に入れ。ほら、泣いてんじゃねえ。どうしたんだよ」
いきなり飛び掛り、そして泣き出す雪乃にガーネットは困惑していた。
どうして泣いているのか、その理由も分からないのであやすように雪乃を家に招きいれたのだった――。
***
「ほら、これでも飲んで落ち着きな」
ガーネットは白いカップをテーブルの上に置いた。カップからはほのかに香ばしい香りが漂っていた。
「……コーヒー」
「そうだ、コーヒーだ。熱いものを飲めば気分も落ち着くだろう」
雪乃はカップを手に取ると、じっとその中身を見つめた。
「そういえば、あの時は飲ませてもらえなかったんだっけ……」
雪乃は以前、ガーネットの家を尋ねたときのことを思い出していた。
夜眠れなくなるだろうという理由でイリアがホットミルクにしろと言ったせいで、コーヒーが飲めなかったのだ。
それが、今は時間を越えて飲むことができる。どうにも奇妙な感覚に雪乃はなんだか可笑しくなって、くすっと笑った。
「あん? コーヒーが面白いのか?」
傍から見ているガーネットからすれば、泣いていたかと思えばコーヒーを見て笑い出す雪乃が珍妙に見えたことだろう。
大男は眉を寄せ、考えるがこれといった答えは見つからなかった。
「……美味しいね」
雪乃はコーヒーを一口含むと、笑顔で言った。笑ったことで少し気分が落ち着いたのか、雪乃は決心した。本当のことを打ち明けよう、と。
「実は……ね、ガーネットさん」
雪乃はカップをテーブルの上に置いた。ガーネットは「うん?」と雪乃の言葉に耳を傾ける。
「私、一年後からやってきたの。えっと、わかるかな? 私は今家にいるけれどそうじゃなくって、今から一年経った時間からやってきたの。……信じて、もらえないと思うけど。ほんとなの」
雪乃は拙い言葉で言った。時間移動の知識や概念がない相手にタイムトラベルの話をするのは難しいな、と雪乃は改めて思った。
これは説明に時間が掛かりそうだと感じていたが、その考えはガーネットの一言によって覆された。
「ああ、やっぱりそうか」
「えっ……信じてくれるのっ?」
「もちろん、信じるさ」
ガーネットは何の迷いもなく、そう言った。むしろ戸惑っていたのは雪乃の方だった。どうしてこんなにあっさりと信じてくれるのか、それとも冗談だと相手にされていないのか。雪乃には分からなかった。
「ど、どうして……?」
「まず外見の印象だな。自分では気づかないだろうが、俺から見れば随分と違う」とガーネットは言った。雪乃はまだ思春期の少女であったので、ガーネットからしてみればいきなり一年経った少女の姿には違和感を感じ取っていたのだろう。
「そしてもう一つ。これが最大の理由なんだが――雪乃。俺とお前が普通に会話していることだ」
「あっ……」
雪乃は思わず声を漏らした。そう、一年前の雪乃は異界語を話すことなどできなかったのだ。今ではこうして自然に会話が成り立つ程に言語能力が上がっていたのだった。
「で、でもそれだけで信じられるの? 時間を越えて未来からやって来たなんて……」
「信じるさ。多分……時の水、だろ?」
ガーネットの口から思いもよらない言葉が発せられた。雪乃は驚きのあまり声にならない悲鳴をあげた。
「そしてその研究は俺の娘、ザクロによるもの――違うか?」
再び発せられた言葉はまたしても的を射ていた。本件のことを話せばきっとガーネットは驚くだろうとばかり思っていた雪乃だったが、逆に驚かされたのは雪乃の方だった。
「な、なんで……? どうしてそこまで知ってるの……?」
「そういやまだ話していなかったか。俺はこんな"ナリ"をしているけどよぉ、元はエーテルの研究員だったんだ。そんでもって時の水の構想を考えたのは――俺だ」
雪乃は頭をフル回転させて情報をまとめた。ザクロの手によりこうして過去に渡った。そしてガーネットはそのことに驚かなかった。それは時の水のことを知っていたから。つまり――。
「時の水のことをザクロちゃんに教えたのは……ガーネットさんってことですか?」
「いや、教えてはいない。あいつが勝手に俺の研究を持ち出して、王都に行ったんだ」
「え、それって……」
「こうしてユキノがここに居ることを踏まえると……どうやら成功させてしまったらしいな。あの"失敗作"を」
そう言ったガーネットの表情には確かな曇りが見られた。




