3.時の水(ビドロ)
「では、読みますね」こほん、と可愛らしい咳をしたイリアは雪乃から受け取った紙の内容の朗読を始めた。
「この手紙が誰かの目に触れているのなら、私はもうこの世にいないことでしょう。実は、この手紙を見つけたあなたに果たしてもらいたいことがあります」そこまで読んでイリアは呼吸を置いた。
「果たしてもらいたいこと?」雪乃は首を傾げた。何か未練があるということなのだろうか、考えられるとすれば目の前に居るガーネットの娘――ザクロに関することなのかもしれない。そこまで考えた雪乃は、イリアの次なる言葉に耳を傾ける。
「私には一人の娘がいます。今は恐らく王都の学校でエーテル学の勉強に励んでいることでしょう。その娘に私の死を知らせなければなりません。そしてこの手紙を私の弟子であるタジに渡して欲しいのです。後のことは彼が手紙を見つけたあなたの代わりに成し遂げてくれることでしょう」
なるほど、と雪乃は思った。確かにガーネットはザクロのことを気にかけていた。遠く離れた自分の娘に死を知らせないままでいるわけにはいかないだろう。そう思えば納得もしかけたが、どうしてこの手紙の内容を私に聞かせたかったのだろう――雪乃にはそれが分からなかった。
「タジへ。俺の鎧と兜を持っていけ、道中はなにかと危険もあるだろう。それに娘にとってはそれが形見になる。死んだ後も世話をかけるが、文字通り最後の頼みだ。頼んだぜ。……以上です」イリアは手紙を読み終えると、それをテーブルの上にそっと置いた。
「まったく、鎧と兜なんか持って来られても私には手に余るわ。形見ならどうしてもっとコンパクトなものにしなかったのよ」改めて手紙の内容を聞いて呆れているのか、ザクロはやれやれといった様子で言った。
「えっと、聞いた感じだとその手紙って私に関係なさそうに見えるんだけど……」手紙の内容を頭の中で復唱し、考えを纏めた上で雪乃がおずおずと手をあげて言った。
「手紙自体はな。ユキノちゃんに用があるのはザクロちゃんなんだ」とタジが言った。
「ザクロ……さん、が私に?」
「そんなかしこまった呼び方じゃなくていいわ。年も近そうだから、好きに呼んで。……そう、私はあなたに用があって来たの」ザクロはそう言うと、手のひらに簡単に収まるほど小さな小瓶を取り出しテーブルの上に置いた。中には液体が入っているのか、その水面が僅かに揺れる。
「えっと……それは?」
「さっき手紙に書いていたように、私が学校で学んでいるのはエーテル学……黒霧粒子論ってやつね。この世の多くの物質は多少なりともエーテルを含んでいるとか、そういう理論のこと」とザクロは言った。
「そしてこの小瓶の中に入っているのはただの水じゃない。物質のエーテルでない部分をエーテル化して別の場所へ送り込むことができるものなの。……そこに空間があるのなら、時さえも越えることができる」
「時……って、まさか」雪乃の頭の中にはある一つの考えが思い浮かぶ。自分は世界間を超えて移動したこともある。今思い浮かんだ"空想的な話"も決して不可能とは言い切れない。どんな不思議なことが起こっても、それを否定しきれないのがこの世界の常だった。
「過去へ行って、私のお父さんを……助けて欲しい。この時の水を使って」とザクロは言った。父親の死を知ったというのに今まで悲壮の欠片も見せていなかった少女だったが、この時ばかりは涙が流れていてもいいほど、その表情は必死さを含んでいた。過去に仲違いをしたとはいえ、少女にとってたった一人の父親というのは何事にも代えがたい、大切なことなのだろう。
「馬鹿なことを言っているって、自分でも分かってる。でも、あなたの体質をタジから聞いたとき、もしかしたら出来るんじゃないかって思ったの」ザクロは雪乃に近寄り、じっと目を見つめて言った。
「なんで私が……あっ」ザクロに迫られ慌てる雪乃だったが、ふと頭の隅で答えに気づく。そう、彼女は今"雪乃の体質"のことを口に出した。それが答えのようなものだった。
「そう、物質のエーテルでない部分のエーテル化というのは実を言うと凄い発見ではないの。何しろこの世界は生物だって物体だって、その組織の99%以上がエーテルで構成されているんだもの。……まあ、正確に言えばエーテルというかエーテルになり損ねている"アネーテル"って種類に分類されるものだけど。今まで時間を越えて転移させたことがあるのは細胞よりもっともっと小さな粒子だけ。それもきちんと転移できたという確認すら取れてもいない、笑っちゃうでしょ」とザクロが言った。
「……でも、私の身体にはエーテルがない」と雪乃は呟いた。時の水がエーテルでない部分のエーテル化と時間転移を可能とするならば、雪乃はその身体の全てを転移させることが出来るかもしれないということだった。
「それよ、私が気になっていること。エーテルがないっていうのは、どれくらいの規模の話なの? 他の人に比べて少ないってこと?」
ザクロの言葉に雪乃は今までの生活を振り返る。
魔物が放ったエーテル毒はことごとく無効化してきた。毒意外にもエーテルの攻撃を受けたことがあるが、身体がそれをじわじわと追い出し一切のエーテルを外に出したこともあった。このことから考察すると、恐らく――。
「……全くない、と思う」そう、雪乃の身体には一切のエーテルが関与していない。どういうわけか、身体がそれを受け付けないのだ。
「全くないですって? 全くってことはないでしょう。あなたどうやって生きてるわけ? 血が流れていませんっていうのと同じくらい無茶なこと言ってるよ」そんな馬鹿なことがあるはずがない、とザクロは雪乃の言葉を聞き流した。あまりに突飛な話にからかわれているとさえ感じているようだった。
「本当だよ。全然、全くない」
「嘘、そんなことあるはずない」
「本当だもん」
「嘘だよ」
「本当だって!」
雪乃がいくら言っても、ザクロは信じようとしなかった。エーテル学を学んでいる彼女からしてみれば、エーテルなしで生物が生きていられるなどということは到底信じられなかったのだ。話は平行線のまま変わることがなかった。
「そんなに言うなら……試させてもらうよ」あまりに頑なな雪乃に痺れを切らしたのか、ザクロは一度雪乃から離れ、フードを翻し両手のひらを雪乃に向けた。
「少しの間動けなくするだけだから恨まないでよねっ。エーテルサスペンドッ!」ザクロが口を開けると、構えた両手のひらから薄いエーテルが発射された。
このエーテルサスペンドには短時間、目標のエーテルの流れを止めるという効果があった。エーテルは生命活動の源――それを一時的に止められるということはすなわち、身体を動かすことができなくなるということだった。
ほんの一瞬程度だが呼吸なども出来なくなるため、術にかけられた者には多少の苦しみを感じてしまう。この場に及んで人をからかう輩にはこれくらいの報いがあっても構わないはず……ザクロはそう思ってこの魔法を放った。が、しかし。
「えっと……今のはどういう効果の魔法なの?」
目の前にいる雪乃はただきょとんとしているばかりで、ザクロの魔法をまるで受け付けていなかったのだ。
「そ、そんな馬鹿なっ……だってエーテルの流れを止めれば誰だって……」
「信じてもらえますか? ザクロ様」イリアがザクロに歩み寄り言った。どうやらイリアにはエーテルサスペンドの効果が分かっていたらしく、それが効かない雪乃がエーテルを持たない体質の証明になることも理解していたのだ。
「……くやしいけど、反論できないわ。エーテルがないなんてとても信じられないけど、それなら私の魔法が効かないことの説明がつかないしね」意外にも素直に頷きながらザクロが言った。どうやら理論や常識よりも、目の前で起きたことを受け入れる広い許容力を持ち合わせているようだった。
「それでその……私が過去に行って、なにをすればいいの? ガーネットさんを助けるってどうすれば?」
雪乃にはザクロがどんな経緯で自分の体質を信じたのかは不明だったが、会話から受け入れてもらえたことを察するとさっそくそう尋ねた。
「タジさんからはお父さんは魔物に殺されたって聞いた。だからその魔物に勝つか、あるいは戦わないようにすることでお父さんは助かるはず」とザクロが言った。
「それに、その時あなたはお父さんの近くに居たんでしょう? 上手く立ち回りさえすれば、きっと助けられるはずだよ」
「私が上手く立ち回れば……」
雪乃は指を顎に当て、思考を廻らせた。確かに自分の行動次第でガーネットを救うことができるだろう。しかし雪乃はもっと別のことについて考えていた。
「(SFの映画とかでよくあるあれ……なんだっけ。確か……タイムパラドックス……って言ったっけ)」
元の世界で時間転移を題材にした物語を雪乃はいくつか見たことがあるが、その多くには常にタイムパラドックスという問題が登場人物たちを翻弄していた。
ガーネットを救いたくないというわけではもちろんなかった。しかし、そんな簡単に過去や未来を変えてしまっても問題ないのだろうか? ガーネットを助けて帰ってきた後、そこはまるで違う歴史、あるいは世界になっていたりしないだろうか?
知っている知識はフィクションだけのこととはいえ、雪乃はそれを怯えずにはいられなかった。
この場にいる者たちは皆、そういう物語はもちろん知らない。人一人の過去を変えてしまうことなどなんともないことだと考えていることだろう。現にタジはガーネットが生き返ることに夢中で生き生きとした表情になっているし、ザクロに至ってはそもそもこの話を持ち出した張本人だ。過去を変えてしまう危険性を何も知らない。
「(例えばイリアちゃんが私の側にいない未来になってしまう……とか)」そう考えながら雪乃はイリアの方を見た。
すると、イリアだけは雪乃と同じようになにやら難しそうな表情で何かを考えているようだった。
雪乃と同じ事を危惧しているのだろうか、それとも――。