2.彼の残影
街が活発になりはじめた午後。雪乃は窓に腰掛け、その街並みを眺めていた。
その行動に特に意味があるわけでもなく、ただ心を無にしたまま時間だけは過ぎていった。
初めてこの王都を訪れたから月日は流れ、王との約束の時はもう一月を切っていた。
「何かおもしろいものが見えますか?」
ふと、その声に雪乃が振り向くとそこに居たのはイリアだった。
お盆を両手で持ち、その上には紅茶の注がれたティーカップが置かれていた。淹れたてなのか、湯気と香ばしい香りが雪乃の飲欲をくすぐった。
「特には、なにも」
雪乃は差し出された紅茶を礼を言いながら手に取ると、それを少量口に注いだ。甘さと苦さが口内で交じり合い、そして身体の中に消えていく。
異界語の扱いも随分慣れたもので、自然と会話の中に溶け込ませることができていた。むしろ上達速度が最近目に見えて上昇したと雪乃は自負していた。(元の世界へ一時的に帰った時に異界語のみ話していたことが関係しているのではないか、と雪乃は考えている)
「"あっちの世界"のこと、ずっと考えておられるのですか」お盆を腰に添えながらイリアが言った。
「……うん」
イリアの言う"あっちの世界"とは、元の世界であり、もう一人のイリアやミナセがいる場所のことだ。結局雪乃がミナセから色々な話を聞いた後、異界へ戻ってきたときには既にイリアやアイリス、アリシアがミナセ病院に居た。多分後をつけられていたのだろう――雪乃はそう考えた。
彼女らに何も話さないままでいるわけにはいかない――そう思った雪乃は"衰弱したイリアが居る"という事実だけを隠して、自分の身の上を話したのだった。イリアのことについて言い出せなかったのは、雪乃自身にも理由は分からなかった。
また、元の世界にきちんとした形(異界語を喋らない自分のまま)で帰るには、辿ってきた道を遡るしかないとミナセから聞いていた。
辿ってきた道とは、恐らくラ・トゥの村にある時計塔内の大鏡のことだろう。しかし、一度雪乃が訪れた時には何の力も感じられなかった。雪乃は当面の目的としてはあの鏡にどのような力があるのか、また何をすればその力――異世界間移動の力――が使用されるのかを調べようとした。
しかしいくら街で先行く人に尋ねれど、有用な答えを得ることはできなかった。他の異界人とも接触する機会はあったが、いわく「そんなの俺が聞きたい」らしい。
まあ当然だよね……と、雪乃は聞き込みを諦めたのだった。
そうして今は心身共に疲れきって、街の様子を何となく見つめていたのだった。流されるままに時間が過ぎることを嫌う雪乃だったが、今回ばかりは休息の意味も込めてそういった時間も必要だと感じていた。その時だった。
不意に扉をノックする音が聞こえた。ノックをするということは、客人は見知った仲の人間ではない。どんな人物かは推し量れないが、この何の変哲も無い家を尋ねるとは珍しい――雪乃はそう思いながら窓の縁から降りた。
その間にイリアがとてとてと玄関に向かい、ドアを開け客人を出迎えた。
「はい、どなたでしょうか……――ッ!?」とイリアは出迎えの言葉の最中、ほとんど声にならないような叫び声をあげた。どうやら驚いているらしい――雪乃にはそう見えた。
「イリアちゃん? 誰が来たの?」イリアの様子を不思議に思いながら、雪乃も玄関へと歩み寄った。一体何をそんなに驚いているのか、客人の姿を見るためにひょいと扉の隙間から顔を覗かせた。
そこに居たのは見たことのある風貌をした鎧だった。まるで悪魔を彷彿とさせるかのようなデザインの兜に、ずんぐりとしたいかにも頑丈そうな鎧。そう、これはまるで――。
「ガ、ガーネットさんっ!?」雪乃は思わず目の前に居る鎧の人間に指をさして言った。この不思議な世界では幽霊までもが実在しているのだろうか? いやいや、実は死んだと思っていたけど生きてるとか――雪乃があらゆる可能性を頭の中でぐちゃぐちゃにしている時、鎧の人間は頭を覆う兜を取った。
「違う違う。俺だよ、俺」
兜の中から現れた頭は雪乃が思っているよりも小さかった。中にいたのは大男などではなく、若い青年の顔だった。
「なんだ、タジじゃないですか」
イリアは客人が村に居た頃の顔なじみだと知ると、先ほどの驚きは影も形もなくなり、さっさと興味を失ってしまった様子だった。
「なんだとはなんだ。人がせっかく尋ねてきてやったのにさ」とタジは兜を脇に抱えながら言った。
「わざわざ遠くからお疲れ様です。どうして王都に?」
「おお、ユキノちゃん久しぶり。今日は市場に作物の出荷に来たんだ」タジがあれを見てみな、と言いながら指差した先には大きな馬車があった。被せてあるシートの隙間から果物の類がたくさん見えた。
「……とまあ、それも目的の内の一つでさ。もう一つはユキノちゃん達に大事な用があって来たんだ」とタジが言った。
「大事な用……ってなんですか? こんなところにまで来て?」
タジの来客にはあまり興味のなかったイリアだったが、その一言に首を傾げた。
「その用ってのは、この娘が関係してるんだ」タジがそう言うと、その大仰な鎧の後ろからフードを被った少女が歩み出た。フードで表情が隠されているが、どうやら雪乃とそう変わらない年のようだった。
「私はザクロ。"ガーネット"は私の父よ」と少女が言った。
***
「ガーネットさんの遺書?」
雪乃は驚きの声をあげずにはいられなかった。
玄関先で立ち話することもないだろうということで雪乃、イリア、タジ、ザクロの四人はテーブルを囲っていた。
そんな中、タジの口から飛び出したのはガーネットの遺書を発見したという話だった。
「そう、少し前に兄貴の家で見つかったんだ。その内容がちょっと意味深でさ」とタジが言った。これを見てくれ――と一枚と紙をテーブルの上に置いた。
「えっと、ザクロちゃん――だっけ? 私が読んでもいいの?」ガーネットの娘だというザクロをちらりと見ながら、雪乃が言った。初対面なのでなんとなく気まずさを感じずにはいられなかったのだ。元々雪乃は人見知りをするタイプの人間である。
「いいわ。私はもう読んだから」とザクロが言った。静かで、抑揚のない声色だった。この少女がフードで表情を隠すミステリアスな雰囲気も相まって、物静かな人物だろうと雪乃は推測した。
「そっか、じゃあ……読ませてもらうね」雪乃は深呼吸して、はやる気持ちを抑えながらゆっくりと折られた紙を開いた。
そこには長文で綴られた文字があった。雪乃はそれをじっと見つめる。
辺りはしん、と音を無くしていた。十秒、三十秒、一分だろうか。静寂は時間間隔を狂わせた。
雪乃の隣にいるイリアも思わず息をのんで見守っていた。果たして紙には何が書いてあったのか――。雪乃は紙をテーブルの上にそっと置き、顔をあげた。
「忘れてた、そういや私字が読めないんだった」
「はぁっ!? あんたふざけてんのっ!?」
ドン、テーブルを叩きながら真っ先に声をあげたのは他でもない、ザクロだった。先ほどまでの静かなイメージとは一転、素は感情表現豊かな人物像が浮かび上がる。
「そういえば、そうでしたね。最近はあまりにも自然に会話されるので、つい異界人だということを忘れてしまっていました」苦笑いをしながらイリアが言った。
「あ、ははは……というわけでイリアちゃん。代読お願い」
「はい。おまかせください」
面目ない、と雪乃は頭を掻きながら紙をイリアに手渡した。イリアはそれを笑顔で受け取った。主人の不甲斐無さがどうこうよりも単純に雪乃に頼られることが嬉しいようだった。
「はぁ……本当にこの人たちで大丈夫なのかしら……」とザクロは人知れずこめかみを指でグリグリと押さえながら嘆くのだった。