20.彼女はまだ子供だった
『え、それはそのっ……つまり……』雪乃は言葉を詰まらせた。先ほどミナセが言った言葉を頭の中で復唱し、その意味を考える。
『つまり、あなた達は元々は私が知っている世界と"違う結末の世界"にいたということですか?』
『そうだよ』とミナセが頷いてみせる。
『そしてイリアちゃんは……あなたを助けるために世界を繰り返した。ユキノ、あなたを死なせないためにはどうすればいいかってずっと考えていた。あなたが死ぬ場面を、何度もその目で見てきた』
『イリアちゃんが……』雪乃はイリアの髪を撫でた。しかしその虚ろな瞳はどこを向くこともなく、そしてその口からは言葉一つ吐き出されることはなかった。
『そしてたどり着いた答えが……"あのタイミング"でエメラルドを何らかの方法で、ユキノの手に渡るようにすること』とミナセが言った。あのタイミングというのは、もちろんアイリスからエメラルドを受け取る瞬間のことだろう。
『その答えに辿り着いて、手に入れる方法を思いついた時にはイリアちゃんはもう限界だった。最後には私に相談もせずに新しい世界に行って……そして、アイリスを殺してしまった。そうイリアちゃんから聞いた』ミナセは吐き出捨てるように言った。
『アイリスを……殺した?』ミナセの言っていることが信じられなくて、雪乃は言葉を復唱した。何故そのような行為に及んだのか、理解できなかった。
『イリアちゃんには、既に生と死の違いが分からなくなっていた。自分が"住む"と決めた世界でなければ、誰が何人死んだって何も変わらない。そんな自分が恐ろしいと言っていた。思えば、アイリスを殺したあの時からイリアちゃんは本当の意味で壊れてしまったんじゃないかって思う』ミナセもイリアの元へ近寄り、その頬を撫でた。
瞳は誰も捕らえてはいない。心だけどこかへ置き忘れてしまったイリアは、抜け殻のように瞳孔すらぴくりとも動かさない。もちろん死んでいるわけではないが、呼吸音すらも耳を済ませても聞こえないくらい微弱なものだった。
生物として死んでいなくても、"人間的"には死んでしまっているのと同義だった。
『イリアちゃん……』雪乃はイリアの前に膝を付き、その小さな体を抱きしめた。涙を我慢しているのか、表情を必死に強張らせていた。
『ねえ、イリアちゃんはどうしてそんなになってまで私達を助けたの? イリアちゃんには、イリアちゃんの人生があったはずなのに……』
雪乃は嗚咽を漏らしながら言った。どれだけイリアが辛い思いをしたのか。どれだけ長い時間を耐え抜いたのか。想像もつかなかった。
今、雪乃がこうして存在していられるのも"このイリア"の行動による結果だった。感謝の言葉を述べることはとても出来なかった。これでは自分が助かるためにイリアを犠牲にしたのとまるで変わりがなかったからだ。
結局涙を堪えることができなかった。雫は雪乃の頬を伝い、密着したイリアの頬へと伝わった。その時だった。
『……えっ?』
不意に雪乃の後頭部が、小さな何かによって触れられた。雪乃が視線を横に移すと、そこにはイリアの腕があった。イリアは雪乃の頭を抱きしめていた。
『イリアちゃん!? イリアちゃん、私っ――!』
イリアが意識を取り戻した。そう思った雪乃はがばっと顔を上げ、イリアと視線を合わせた。
しかし、雪乃の喜びの表情は一転して、凍りついた。
『――……』
瞳の冷たさは以前とまったく変わっていない。
唇を動かすことも無い。
笑うことも、泣くこともない。
頬の色も真っ白なまま、人間味など欠片もないほど熱を感じさせない。
雪乃は感じ取ってしまった。イリアという人間は、心は永遠に失われてしまったのだと。
壊れかけたねじ巻き人形のように、弱々しく腕を広げ、雪乃を抱きしめることはできても、意識はもっとも深い奥の奥。
これ以上なにを求めても、イリアは決して回復しないであろうという決定的な"なにか"を雪乃はその表情から感じ取っていた。
『ミナセさん、私がイリアちゃんのように世界を巡ってこのイリアちゃんを――』
『駄目』
『……どうして』
『イリアちゃんがどんな気持ちで。どんな心境であなたを助けたか、本気で分からない?』ミナセはいつもよりも数段低い声色で言った。雪乃の考えていることは簡単に分かっていた。しかしそれは、イリアがこんな状態になってまで得たものが失われてしまう可能性のあるものだった。今までイリアを見てきたミナセは、当然それを許さない。
『分からない』
『……なんだって?』ドン、と勢いのある音が部屋に響いた。ミナセが拳で机を叩いたのだ。分かっていないわけが無い。自暴自棄になった雪乃の態度に、ミナセは怒りをあらわにした。
『分かりません、だから私をありとあらゆる世界に連れて行って下さい。そうすればイリアちゃんの感じた痛みが分かる』
『……あんたね、甘えたこと言ってるのもいい加減にしなよ』
『甘えてなんかいません。イリアちゃんを助けるために――』
『今のあんたはねっ! ただ我が侭な子供と同じだ! あれも手に入らない、これも手に入らない。だから自分から同じ痛みを味わって罪悪感を和らげたいんでしょ? そんなのなんの解決にもなりはしない、そんなのはただの自己満足だっ! あんた、"救ってもらった命"を軽々しく扱うなっ!!』ミナセは激昂した。助けてもらったくせに、その命を大事にしようともしない雪乃に心底腹がたったのだ。
怒鳴られた恐怖と、突きつけられた現実に雪乃はしゃっくりをあげて泣いた。
まだ成熟しきっていない、幼い少女には現実が重すぎたのだ。自らも甘んじて"辛さ"を味わうことでしか、償い方を知らない。雪乃はそれに対する怒りをぶつける先さえも知らなかった。自分にぶつけることしか、知らないのだ。
『だって……私のせいでっ……イリアちゃんが……』
身を震わせ、ぼろぼろとこぼれる涙を両手で覆いながら雪乃はまた泣いた。
『……もう、誰のせいとか……そんなんじゃないよ』雪乃を泣かせるつもりはなかったミナセは少し言いすぎたか、と自らを反省した後、雪乃の肩を軽く叩きながら言った。
『こんな結果になってしまったけれど、そのおかげであなたは生きることができた。イリアちゃんがこんなになるまで頑張って出来た"結果"があなたなんだから、もしイリアちゃんに申し訳なく思うなら命を大事にしようよ……ね?』そのまま雪乃の身体を抱き、ミナセは小さな子供のように泣きじゃくる雪乃に諭すように言った。
雪乃からの返事は言葉ではなかった。けれど、ミナセの胸にうずくまった頭は確かに縦に振られていた。
――第三章 完――