12.失いたくないから、立ち上がる
「口ではなくて……手?」
イリアにはミンドラの言葉をすぐに飲み込むことができなかった。
もし本当にそうだというのなら、自分の推理が根底から覆されるからだ。
あの時、ルルリノがその手で"たすけてほしい"と紙に書いたのだ。そしてその口からは"病気を治したくない"――つまり治療を受けたくないということだ。
文字を書いたのがミンドラなら、何故わざわざ自らが危険を負うようなことをするのだろうか?
最初から自分の勝利を確信しているならまだしも――。
「(勝利を……確信?)」
イリアは今まさに自分が導き出した考えに対して疑問がよぎった。
勝利を確信しているなら"まだしも"と考えた――いや、ミンドラは確信しているからこそこの闘いを望んだのではないだろうか?
そんなことありえるはずがないと思った。
何せ治療内容まではルルリノの前では一度も口にしていない。精神を移動させる道具についての話は、病院内でしかしていないはず。それもルルリノが昼寝をしている最中に――。
「まさかっ――!?」
退院して家の庭先で顔を合わせた"あの時点から"既にミンドラの作戦は始まっていたのだ。
思えば、あの時"ルルリノに雨の幻覚を見せてこちらの話を盗み聞こうとする"という所業を成そうとしていたではないか。
それだけの判断力、こちらに対しての疑心があったのなら、昼寝をした"フリ"をしてこちらの後を追い、病院での話を盗み聞きすることは十分にありえることだったのだ。
「どうやら気づいたようだな」
ミンドラとしてはもっと相手が混乱する姿を拝めるかと思いきや、なるほど。思いのほか侮れない思考能力を持っているらしい――ミンドラは少女をそう評価した。
病院での会話を部分的に聞いていたミンドラは、どのような方法かは分からなかったが、決して人間が踏み込めるはずがなかった"精神世界"へ彼女らが介入してくることを知った。
彼女らのエーテルを奪うことが出来れば、このような精神世界にいつまでもいることもない――。ミンドラはそう考えた。
しかし治療の実行は決定事項ではなく、その有無はあくまで宿主であるルルリノの意向が尊重されるということだった。
情報戦において一手先の手札を揃えたミンドラだったが、こればかりはどうすることもできなかった。
睡眠(今回の場合は昼寝)する等、宿主であるルルリノの意識が覚醒していない状態ならば、病院まで雪乃たちを追ったようにある程度身体を操ることができたのだが、イリアがルルリノに話しかけたタイミングでは既に意識は覚醒していたのだった。
この状態では全力でも手を操るくらいしかできないミンドラは、半ば諦めていた。
意識がなくなっていたとはいえ、ミンドラとその宿主であるルルリノの知識はある程度共有されてしまうため、ルルリノは病院の話とミンドラの作戦について大よそのことは掴めてしまうからだ。(ミンドラが饒舌に言葉を話すのも恐らくそのためだろう)
ルルリノという少女は優しい心を持ち、年齢の割にそのために多少の自己犠牲の精神があることをミンドラは知っていたからだ。
ここまで状況が分かっていて、少女が簡単に"治療を受ける"とは言わない。むしろその逆だとミンドラは考えていた。多少その口を押さえることもできるが、決して操ることはできないため、あまり期待を寄せていなかった。
しかし、彼にとって状況は奇妙にも、おもしろい方向へと進むことになった。
知能と策略のある魔物が相手と知ったイリアは、過剰に警戒を行ってしまった。
そしてこともあろうか、自らの妹の言葉に対して"疑いの心"を抱いてしまったのだ。
しかし、それは無理も無いことだった。ルルリノがミンドラについての言葉を発しようとすれば、ミンドラはそれに関してのみ抑えることに努めた。
それは返ってルルリノの意見を"理由は語らず、治療は受けたくないの一点張り"というあからさまに不自然な状況を作ったのだった。
それによって彼女らは幾重にも予防策の張り巡らされたこの戦場へ誘われることになり、そして事態はミンドラに好機が訪れ、今に至る。
事前に成長効果を極限まで高めていたガーネットは臨界点で放出することができず、その力を周囲に霧散させ消えていってしまった。
イリアは自分を殺してやりたい気分になった。
今起こっている事態の原因は、全て自分にあったことを知ったからだった。
もっと厳重に警戒をしていれば、もっと思考を凝らしておけば――後悔するも、それで事態が好転するわけもなく、ただ悔しさに唇を噛み締めた。
ルルリノのことを分かってやれなかったばかりか、雪乃に重大な怪我を負わせてしまった――。
全て自分のせいだ。
涙は止めようとしているのに、溢れ出た。自分の浅はかさを呪い、二人に申し訳ないと心の中で唱えるばかりだった。
「ケホッ……イリア……ちゃ……」
不意に、雪乃が言葉を発した。咳き込んだ口からは微量ながらも血が吐き出されていた。
イリアは怪我に倒れるその身体を抱いた。何故自分が泣いているのだろうか、泣いてどうにかなるわけでもないのに。いっそのこと自分がこの槍に刺さっていればよかったんだ――。イリアが自らの涙を拭き取ろうとしたその時。
「ただ生きるんじゃなくて……善く、生きる……」
掠れた声で、雪乃が言った。
「弱いままの私がここにいたなら、ただ流されるままに生きた私だったら、こうしてイリアちゃんを庇うことなんてできなかった……」
震える手を伸ばし、イリアの涙を指で掬い取った。
「今、こうしているとはっきり分かる。私は、きっと最善の行動をしたよ」
「ユキノ様……?」
そんなはずない。こんな怪我を負いながらも、優しい彼女が自分を慰めようとしているだけだ――イリアはそう思った。
しかし、雪乃はそうではなかった。
「あいつを倒すには……エーテルを扱えない私には……イリアちゃんが必要なの……。それも、闘いのためだけじゃない――」
痛む身体に表情を歪ませながら、雪乃は剣を杖代わりに身体を起こし始める。
その言葉は慰めなどといった精神的なものではなく、勝利するために必要な、闘いを諦めていない意志の表れ、本来の作戦だった。そして――。
「笑って過ごせる日常には……私が"善い"と思う日常には……イリアちゃんが必要なんだッ!!」
雪乃は立ち上がり、叫び、そしてミンドラの方向へ剣を構えた。
そう、何も作戦のためだけにイリアを庇ったのではない。雪乃が求めるものの中にイリアという存在がある――理由の大半はきっとそうだったのだろう。
今の雪乃には、これまでにない"生"と"勝利"への執着心。そして失ってはならないものを守り抜くという意志があった。それらが怖がりで気弱なはずである少女を、深い傷を負いながらも立ち上がらせる原動力となっていた――。