7.本心
「怖い夢を見た」とイリアの身体に顔を埋めながらルルリノが言った。「怖い夢?」とイリアが首を傾げ尋ねた。
「古い、大きなお城を冒険する夢。その中にいる魔物が鏡を持って言うの……"幸せな世界へ来ないか?"って……」
「鏡……?」イリアの目元がぴくりと歪む。以前雪乃から話を聞いたことがあった。彼女は鏡に映ったもう一人の自分にそそのかされこの世界にやって来た、と。
ルルリノの夢とどのような関連性があるのかは分からないが、ただの夢だと楽観視するのはよくない気がした。
イリアは「それで、ルリはどうなるの?」と夢語りの続きを促した。
「鏡に映った私が中から出てきて、私の腕を掴んで――それでおしまい」とルルリノが言った。
とくに雪乃に関連したメッセージ性のある夢などではないということだろうか。それもそのはず、今まで雪乃とルルリノには特別な関係はなかったのだ。
イリアはただの不気味な夢だと判断することにした。
「大丈夫、目が覚めたらちゃんとお姉ちゃんがいるから。だから怖くないよ、怖くない」イリアはルルリノの頭を撫でてやりながら言った。
「ねえ、ルリ」ルルリノを落ち着かせた後、イリアは口を開いた。例の話をするためだ。呼びかけに対し「なあに?」とルルリノが顔を上げる。
「ルリの病気はまだ完全に治っていないの。治すためにはちょっと難しい手術をしないといけないの」とイリアは言った。厳密には"病気"でもなければ"手術"もしないのだが、ルルリノの中にいるミンドラに作戦の全容を掴ませないためにこのような表現を用いた。
「それって、失敗しちゃうかもしれないの? 失敗したら死んじゃうの?」
「たしかに、命には関わることだよ。だから絶対に成功するとは言えないの。私もできるだけのことはするつもりだよ」
「失敗しちゃうかもしれないなら、やだ」ルルリノは素っ気なく言った。
「今こうしてルルリノは元気だよ? どうして手術しなくちゃいけないの? ルルリノはずっとこのまま……」
ルルリノの言い分はイリアには痛いほど分かった。今までずっと検査でカプセルの中に閉じ込められ、やっと得た自由をまた壊されてしまうかもしれない。ルルリノはまだ小さな子供なのだ。辛いことから逃げたいという言い分は当然のことだった――そうイリアが思っていたその時だった。
「くぅ……あっ……あぁっ……!?」
突如、ルルリノが自らの頭を抑え、地面に倒れこむ。痛みが走っているのか、苦痛に耐えるように足をじたばたとさせ折れんばかりに歯を食いしばっていた。
「ルリ!? ルリ、どうしたのっ!?」イリアは慌てて駆け寄り、その体を抱き寄せる。
「病気って……これの、こと……? やっぱりこれ……」痛みに少し慣れたのか、息を荒げながらもルルリノは言った。
これ――これとはなんのことだ――? イリアは思考を廻らせる。今感じている頭痛のことを言っているのだろうか?
ルルリノの言葉はまだ続いているようだった。
「変なものが見えたり……思ってもいないこと喋っ……。そんな、ことなら……手術を」途切れ途切れに何とか言葉を発しているようだった。呼吸はさらに荒くなり、痛みも酷くなってきているようだった。
「お姉ちゃん、私手術なんて受けたくない」と、突如声色はいつもの調子に戻り、ルルリノが言った。
「お姉ちゃん、違うっ……私、私手術を……う、受け、受けたくないっ!!」そう思った矢先、またもや苦痛を伴った声色で、そう言った。
「(なにかがおかしい……)」
イリアは冷静に分析する。まず気になったのは、ルルリノが手術に対して"即答"で拒否反応を示したことだ。
まだ幼子だから先のことを考えるより、今目先にある危険を負いたくないからだとさっきは思った。しかしそれは自然な反応だろうか?
ルルリノは明るくも気の弱い子で、こんな重要な物事をすぐに決断するようなことはしないはずだ。むしろ、このような場面であの子が取るもっとも自然な反応とは――?
少し考えれば分かることだった。それは"まずは私に答えをゆだねる"ことだ。
失敗してしまうかもしれないなら、嫌だ。確かにそうかもしれないが、ルルリノという少女がここで取る行動にしてはどこか不自然だった。
更にイリアが気になったのはルルリノが言っていた"思ってもいないこと"、という言葉だった。
正確には"変なものが見えたり、思ってもいないこと喋っ……"という部分である。その前に言った"やっぱりこれ……"に続く言葉なので、変なものが見えるというのは本に書いてあったミンドラの幻覚効果によるものだということが伺える。
そして思ってもいないこと……に続くであろう言葉は恐らく"喋る"という単語だろう。思ってもいないこと喋る、である。
これは幻覚を見せることにも加え、思ってもいないことを喋らされる……つまり、ミンドラに一時的に操られてしまっているということを示しているのではないだろうか?
ミンドラがそんなことをする動機は無論、"己の生存のため"であることは間違いないだろう。やつにしてみれば手術という医療行為が成功してしまえば自らは消滅してしまうし、一言目に聞いた(恐らくここから既にミンドラが言葉を支配していたのだろう)"失敗したら死んでしまうのか?"ということが本当だとしたら、宿主の死=ミンドラの消滅を意味し、手術がどのような結果でも自分の存在は消えてしまう――とでも考えたのだろう。
声色にしてもそうだ。辛そうな表情は演技には見えなかったうえ、あまりにも支離滅裂な言動はより不審さを冗長化させていた。
これだけの材料が揃えば、答えは恐らくそうなのだろう。ルルリノの言葉を遮ってミンドラが支配しているのだ。
完全に支配しきれていないのは、まだミンドラの力が未熟だからだろうか? イリアはなんとか"ルルリノの本心"を聞き出す方法を思案した。
「ルリ、これを見て」イリアはペンを取り、テーブルの上から紙(恐らく母がメモを取るために用意いたものだろう。母、アステリアは読書中によくメモを取る習慣があった)を引っ張るとペンを走らせた。紙には大きく"肯定"、"否定"の意味を持つ異界語の文字が綴られていた。
「ルリ、本当に手術を受けたくない?」とイリアが尋ねた。
「受けたくない! あっ、ぐぅ……う、受け……受ける、り……受けたくないっ!!」ルルリノは自分の口を押さえながらなんとか"自分の"言葉を伝えようとするが、上手く話すことができなかった。ふと、ルルリノはイリアの持った紙の意味に気づき、咄嗟に"否定"の文字を指差した。
「手術を受けたくないに否定……つまり、手術を受けたほうがいいとルリは思うのね?」
「違う。指が勝手に動くの。手術受けたくない、手術嫌だ! 否定っ、否定!」ルルリノはそう言いながら"肯定"を指差した。
イリアは確信した。口はミンドラに支配されている――と。もう言葉に惑わされないとイリアは誓った。
「ルリはどうしたい? ルリは幻覚も頭痛も、嫌なんだよね?」イリアは尋ねた。
「頭痛いの我慢する! だから手術は嫌っ! 死んじゃうかもしれないのは嫌だ!」とルルリノは言いながらペンを握り、紙に言葉を綴り始めた。そしてその言葉はとても簡素でありながら、彼女の一番の本心だった。
たすけて、おねえちゃん。
「(助けて……か)」
イリアはルルリノを抱きしめてやりながら、考える。酷く歪んだ字だった。恐らくミンドラの邪魔が入ったのだろう。
それでも頑張って、ルルリノは本心をこうして伝えることができのだ。
「気づいてあげられなくてごめんね、ルリ。ルリの病気、きっと治してみせるから……」とイリアが言った。
過度な頭痛、そして精神内でのミンドラとの闘いからか、疲れきった表情のルルリノはイリアの胸の中で眠りに落ちようとしていた。先ほどの半狂乱ぶりからは想像もつかないほど落ち着いた眠りだった。やはりミンドラが少なからずルルリノを操る術をもっていることは確かなようだった。
――待て、思考に見落としはないか?
ふと、イリアの脳裏にそんなことが思い浮かんだ。いや、そんなはずはない……なにせこれだけの判断材料が揃っているのだ。ミンドラは間違いなくルルリノを操ることができる。そうに決まっている。
イリアは一つため息をつくとルルリノを抱いたまま目を閉じた。
絶対にこの子を救ってみせる――。イリアは心の内にそう誓ったのだった。