4.ミナセ・ユウキ
「ごめんください」イリアはたどり着いた建物の扉をノックして言った。雪乃はイリアに案内されるまま、さほど遠くない距離にある病院を訪れていた。ここに頼りの人物がいるという。
「あれ、イリアちゃん。日本語でいいの?」と雪乃が言った。それもそのはず、この世界で日本語を扱えるのは雪乃や小人族、それに偶然勉強していたアイリスやアリシアくらいのはずだ。
「そういえば、ユキノ様は姫様たちがどうして日本語に興味を持ったのか知らないのでしたね」イリアはそう言うと、病院の看板を指差し「ミナセ病院と書いてあります」と言った。
「ミナセ……?」雪乃は首を傾げた。元の世界でもありそうな名前だったからだ。いや、ありそうというよりはむしろ――。
「ミナセ……水無瀬!?」雪乃は知っていた。その名前の音。それは確か、元の世界でも有名な科学者の――。と、そこまで思考したところで病院の扉が開いた。
「日本語で尋ねてくるなんて珍し……って、あらイリアじゃない。久しぶりね」そう言って中から出てきたのは"髪を二つ結び"にした女性だった。髪は雪乃に似た黒に近い茶髪で、医師らしく白衣を身にまとっていた。容姿から感じる雰囲気は、雪乃より年上に感じられた。
「あれ? この子は?」彼女は雪乃の姿を見ると、驚いた声で尋ねた。この世界ではあまり見ない髪形、そして"どことなく彼女が知る人種の顔つき"をしていたからだ。
「はい、この方はイリアの主の……」
「み、水無瀬優紀――!?」イリアの声を遮って雪乃が言った。そう、目の前にいる白衣の女性は元の世界で名の知れた人物だった。確か、未知の病気を研究しているとか――。と、雪乃自身もあまり詳しくはなかったがそのような人物だと記憶していた。
「ああ、いかにも私はミナセ・ユウキだけど……なんで知ってるの?」事前にイリアから聞いていた、とかそういう反応ではなさそうだ――とミナセは思った。
***
「なるほど、元の世界で私のそっくりさんがいたと」
雪乃、イリア、ミナセの三人は病院の客室内でテーブルを囲み座っていた。
聞くところによると、ミナセも異界人であるが、この世界に来たのは数十年も前で子供の頃からここにいるという。
雪乃は知っていることを洗いざらい話した。しかしその人物とミナセは別人らしい。
「でも、私は"私"だし……私が君と同じ世界から来たかもしれないっていうのは認めるけど」とミナセが言った。
「そんな、顔だって名前だって一緒なのに」納得できない、と雪乃が言った。するとミナセは「こんな話を知ってるかな」と口を開いた。
「不老不死の生き物が居たとします。しかしその生き物に知能はありません。そこでその生き物に無限にインクが出るペンを渡して無造作に何かを書かせます。永遠に」ここまではいいかな? とミナセが言った。二人の少女は興味深そうに頷く。
「そうして無限の時が経った後、無造作に書かれたものの中に……例えば"ミナセ・ユウキ"っていう文字はあると思う?」
「無限に時間があるんだから……それくらいの文字だったら偶然できあがる可能性はあると思います」と雪乃が言った。「イリアも、ユキノ様に同意です」とイリアも頷いた。
「そうだなー……それじゃあこの技術書と同じ内容のものは出来上がると思う?」そう言うとミナセは本棚から分厚い本を取り出しテーブルの上に置いた。病院にある技術書と言うからには医療に関するあらゆる技法について記されているのだろうか。膨大なページ数が医者という職業に求められる知識の多さを物語っていた。
「それは――不可能だと思います」雪乃はしばらく考えた後、そう言った。「どうしてかな? 私の名前は出来上がるかもしれないのに?」とミナセが言った。
「だって、情報量が多すぎる。こんな分厚い本の内容を一字一句、無造作に書いてそっくりそのまま完成させるなんて"ありえない"です」
「ありえない……なるほど」確かにそれは一理ある、とミナセは頷いた。
「でも用意されている時間は無限なのね。永遠に続ければこの技術書のコピーが出来上がるのは"確率的には"可能なのよ。あくまで数字的にはだけど、不可能ではないよ」とミナセが言った。
「これと同じ。異世界がいくつあるかなんて数えることはできない。無限の数の世界があるのなら、顔も名前も同じ――でも同一人物ではない人間が存在することもあるんじゃないかしら?」確かに私もその人との関連性があるのかどうか気になるけど――。とミナセは呟いた。雪乃とイリアは納得できたような、どこか腑に落ちないような、何ともいえない表情をしていた。
「そんなことより――君達はもっと重要な"優先"しなきゃいけない用事があってここに来たんじゃないかと私は思っているんだけれど」とミナセが言った。
そうだ、今はこのような哲学的な話をしに来たわけではない。妹、ルルリノのことについて話にきたんだった。とイリアは思い、立ち上がった。
「ミナセ先生、ルリの中に魔物がいるって本当ですか。ミンドラとかっていう」
「……うん、本当」ミナセはそう言うと、テーブルの上に置かれた技術書のある一ページを開いた。
「あ、それっ……」見覚えのあるページに、雪乃が声をあげた。「先ほど家で見たものと、同じもののようですね」とイリアが言った。
「これを見たということは、ミンドラがどんなものなのか……大体は知ってるってことかな?」とミナセが言った。二人は顔を合わせた後、頷いた。なら話は早い――とミナセは口を開いた。
「ミンドラがもたらすものは、宿主への幻覚や幻聴であって、そこいらの魔物のように"周りに被害を与えることがない"の。むしろその症状からこいつは魔物というよりも病魔といったほうがいいのかもしれない」とミナセが言った。
「こいつが好むエネルギーは宿主の恐怖や孤独といったネガティブな感情から生まれるわ。たとえあの子が幻覚や幻聴でどんな不可解な行動をしても、家族の人たちできちんと前向きに接してあげられれば……」
「あげられれば……?」とイリアはミナセの言葉を待った。今の状態のルルリノとの接し方次第でこの魔物を打ち倒すことができるということなのだろうか――そんなイリアの考えは、ミナセの言葉によってあっさりと切り捨てられる。
「多少は延命することができる……かもしれない」非常に言いにくそうに、ミナセが言った。
「ふざけないでくださいっ!!」イリアは大きな声をあげながらテーブルを叩いた。
「それは、ルリが元に戻らないってことですか。それは、ルリが死んでしまうということですかっ!?」とイリアはミナセに捲くし立てた。普段の大人しい様子はまったく見られない。
「……一つだけ」少しの沈黙の後、ミナセはぽつりと口を開いた。
「一つだけ、方法がなくもない」とミナセが言った。
「方法……? 先生、どういうことですか。ルリを助けることができるんですか」希望がまったくないわけではない――どうやらなにか方法があるらしいことを聞くと、イリアはミナセに詰め寄った。
「それは、ルルリノちゃんの精神世界の中にいるミンドラを打ち倒すこと」とミナセが言った。そんなことは分かっている、その方法が知りたいのだ――とイリアは言いかけたがここでかき乱しても仕方がない、言葉を続けるミナセの話を最後まで待つことにした。
「そして、ここに精神世界に入るための道具がある。ミンドラと戦う術があるわ」
「なら、早速その中に入って退治を……」と言い掛けた雪乃をミナセが静止させる。
「人の精神世界には"その人が寝ている間"にしか居ることができないの。もしも精神世界内での戦闘中に対象の人物が目覚めてしまった場合――中にいる人間は永遠にその世界に彷徨うことになる。たとえその人物がもう一度眠ったとしても帰ってくることはできないの……同じ夢を二度見ることができないように」とミナセが言った。
ミンドラに殺されてしまうことはもちろん、そんな些細なことすら敗北条件となる。そして先ほどのルルリノの行動から考えればあるいは……。と雪乃が思考を廻らせている間にミナセが口を開いた。
「そして恐らくミンドラは……自在に宿主を目覚めさせるくらいは簡単にやってのけると思う」とミナセが言った。雪乃も同じ考えだった。そうでなければミナセがこれほど"申し訳無さそうな"表情で策を語るとは考えにくかったからだ。
方法はあるが、実践することは決してできない――そんなジレンマがルルリノに付きまとっていた。イリアは唇を噛み締めた。自分が無力でなかったなら、何かできたはずだった。頭の中には悔しさだけでいっぱいになっていた。




