12.致命
イリアは遠くから鎧の男(体格から恐らくそうだとイリアは判断した)と雪乃を発見した。
その二人の視線の先には人間の平穏を乱す存在――魔物がいた。
鎧の男は魔物へ向かっていき武器を手に取ると、命を賭けた立ち回りを始めていた。
魔物の攻撃を紙一重で避け、一つ間違えれば男が最悪の結末を迎えることも容易に想像できる。できるものならしたくはないが。
雪乃は息を呑んでただそこに佇んでいるようだった。
普通、鎧の男が逃げるように伝えるはず(あるいはもう伝えてあるのかもしれない)だが、パニックに陥っている人間は引っ張ってでも連れて行かなければ決してそこから動くことは無い。
全てがそうだというわけではないが、未だ平穏の暮らししかしらない少女は明らかにその部類の性格を有しているとイリアは考えた。
いくら鎧の男が戦っているとはいえ、あの距離ではまったく無害でいられるとは思えないし、男の立ち回りにも多少影響してしまうだろう。
イリアは雪乃に向かって走り出していた。
「ユキノ様!」
「イリアちゃん!?」
雪乃は声に振り向き、そこにイリアの姿を見つけると安心と驚きと、二つの表情を見せた。
「ここから離れましょう、はやく!」
「で、でもっ……ガーネットさんが」
おろおろしながら、戦いに身を投じる――現在は両者は睨みあったまま動かない――ガーネットこと、鎧の男を指差した。
やはりあの鎧の男はガーネットだったか、と特に驚くこともなくイリアはちらりと視線を雪乃の指先へと向ける。
雪乃は人に戦わせておいて自分だけ逃げるということに責任感の無さを感じてしまうのだろう。
イリアもそれは同じことだった。ただの一人に危険を全て預けてしまうなどと、無責任にも程があると思っていた。
しかし、だからといって自分がここにいても何もすることはできないし、ガーネットからしてみれば早くどこかに逃げて欲しいという思いがあるに違いないとイリアは考えた。
「今、あなたに何ができるんですかっ!?」
だから、声を荒げた。
今ここには"命のやり取り"が行われているのだ。そんな場所になんの経験も、力もない者がいてもそれはまったくの無意味。
「イリア……ちゃん」
責任がどうだとか、そういった四の五のは言っている状況ではない。それに。何も責任を放棄するわけではないのだ。
今、自分にできることはなにか? 何もできないならどうするべきなのか?
危険はすぐそばにいる。迅速に考え、答えを行動に移さなければならなかった。この状況では。
「行きましょう、ユキノ様。ガーネット様もきっとそれを望んでおられます」
「う、うん……わかった」
普段は大人しいイリアの荒げた声に圧倒されたか、それとも状況的に不安でしかいられないか、(恐らくはその両方だろう)雪乃はそれ以上なにも言うことはなく、頷いた。
二人は手を繋ぐと、魔物から離れるため走り始めた。
その様子を横目で確認したガーネットは軽く息をついた。
彼はこと、戦いの分野においてはプロフェッショナルに近いそれだったので、ほとんど一瞬とも言える間のその動作にも隙を作ることは無かった。
少しの油断、そして隙が相手にとって格好の餌になることをガーネットは熟知していた。
にらみ合いは続いていた。ガーネットは擦り寄るように、じりじりと魔物へ近づく。
痺れを切らしたわけではなかった。こちらが近づくことで相手が攻撃してこようとも、そこに意識さえしていればそれを避ける自信があったからだった。
あと数歩で魔物の腕の射程圏内に入ろうかというところだった。
魔物がその巨体をゆらりと揺らしたかと思えば一瞬その輪郭がぶれ、その姿を消した。
何かの攻撃の前兆か? ガーネットは身構えたが衝撃はこない。
しかしじっくりと目を凝らすと、先ほどまで魔物がいた場所に霧の残影が見えた。
そこから伸びるようにして見える薄い霧は、彼を通り過ぎるように漂っていた。
ガーネットは考えた。この魔物のルーツを。黒い霧から形成されたという事実を。
そこから導き出されうる答えは、必然的に一つに絞られた。
ある程度知能のある霧の魔物が姿を消して、その残影は"ある場所"へと向かっている。
それが意味するものはつまり――ターゲットの変更。
『ユキノ! イリア!』
ガーネットは二人に向かって走り始めていた。
叫んだその声に振り向いた雪乃のすぐ後ろに霧が収束し、やがてそれは魔物の姿へと変貌する。
その大きく長い腕が、二人の少女へ向けて振り上げられた。
『クソ野郎がぁぁ!!』
ガーネットは走りながらツイストダガーを軽く持ち直し、魔物の腕に向かって投擲した。
放たれた刃は一直線に魔物へ飛んでいき、その腕を捕らえた。
深く刺さったその部分からは魔物の一部が霧散し、巨体はのけぞり呻き声をあげた。
しかしそれでもなお、魔物は振り上げた腕を止めようとはしなかった。
再度腕が、勢い良く振り下ろされる。
ゴッ、という鈍い音と微かな金属音が響き渡った。
魔物の腕の下には少女の遺体ではなく、長剣でそれを受け止める大男の姿があった。
この距離はどちらにとってもチャンスではあった。
しかし、魔物に有効なツイストダガーはもうガーネットの手には残っていなかった。
魔物はもう片方の腕を横薙ぎに振り回した。
ガーネットはなんとか持ち上げていた魔物の腕から逃れながら、襲い掛かるもう一つの腕を剣で受け止めた。
その衝撃は凄まじく、大柄な、それも鎧を着込んだ男でさえ軽く10メートルを超える距離を吹っ飛んだ。
「ガーネットさん!」
雪乃が悲痛な叫びをあげた。
ガーネットの鎧は衝撃によって貫かれ、もう一度攻撃を受けようものならあっさりと壊れてしまいそうなほど損壊していた。
苦しそうな声と、あまりにも生々しい血を口から吐き出した。
剣を杖がわりになんとか立とうとするが、剣はガーネットの思っていたほどの長さを"失って"おり、立つことは適わなかった。
先ほどの魔物の攻撃を受け止める際、衝撃を受け流す捌き方、そして角度が悪かったのか。しかしあの時、そんなことにまで意識を向ける余裕はなかったのだ。
剣は半分ほどの長さになってしまっていた。
雪乃はガーネットに向かって走った。
何ができるかとか、そういったことは雪乃の頭の中にはなかったが、ただ走った。
「駄目です、ユキノ様っ……きゃあ!?」
イリアがそれを静止しようとするが、魔物が前に立ちはだかる。
『イリア! こっちに来い! 危険すぎる!』
距離を置いた村の人々の中からタジが飛び出し、叫んだ。
『し、しかしユキノ様がっ』
『危ねえ、イリア!』
そして突如、イリアに魔物の腕が振り下ろされた。
タジの声になんとかそれを察知したイリアは、しりもちを着きながらも辛うじてその攻撃を避けた。
『ヤロー……このバケモンが! 俺が相手だ!』
これ以上ぐずぐずしていては駄目だ――そう考えたタジは辺りに散乱していた農具を手にして魔物の前に躍り出た。
『タジ、危険です! このままでは――』
『危険だって、分かってるならとっとと逃げろ! 死にたいのか!?』
タジはイリアをかばうように魔物と対峙した。
適う適わないではなく、これ以上の悪を許すことができない青年の唯一の足掻きだった。
ただの強がりだったのかもしれないし、それが本当の強さだったのか、タジはどっちでも構わなかった。