1.雪乃
少女は刃が欠けて半分ほどの長さになった剣を手に取った。
細身の少女の腕には、そんな剣でさえ両手で支えなければ振れない程の重さの剣だった。
その時、近くで地響きが鳴った。大地が揺れ、少女は足をふらつかせるが、なんとかその身を支えきった。
その音は、すぐ近くまで最悪が迫って来ていることを意味していた。
少女は剣を構えたまま、その最悪と対面する。
どうにもならないのならせめて戦ってやろうと、そう決めて剣を取ったそのはずなのに、それを目の前に少女は動けなくなる。
対面した最悪とは、華奢な少女が見上げるほど大きいもので、平たく表現すればまるでワニを一層巨大にしたような姿だった。
何人もの人々を食いちぎったであろうその血だらけの牙と、強靭そうな顎、そして一枚一枚が鋭く尖り堅そうな鱗に包まれた猛獣はそれこそ冗談のような、文字通りの魔物だった。
冗談ならばどれほどよかっただろうか。
少女の足は震え、ガチガチと歯を鳴らしながら恐怖で涙が止まらない。
また一つ大きな足音が、地面から鳴り響く。
巨大なそれが一歩こちらへ近づいたと同時に、恐怖に耐え切れなくなった少女は剣を取り落とす。
少女は自分でもわかっていた。
自分にはこの剣で戦うことはおろか、それを凶暴な悪とはいえ生きているものに突き刺すことも、恐怖と向き合うことさえもできないことを。
「助けて……」
この世界で自分の言葉が伝わる人間などいないことは当然分かっている。
理屈などではなく、ただ少女は願い、想い、助けを請う。
あの牙にちぎられた人間を見てしまった以上、その人の叫びかたを聞いてしまった以上、その痛みと恐怖を想像せずにはいられないのだ。
「誰か、助けて……!」
少女はとうとう立っていられなくなり、その場に座り込む。
もう、魔物と目を合わせる程の勇気、精神は残っていなかった。
ただ顔を伏せて、後は噛み殺されるのを待つだけ。
この時の少女は本当に無力で、何をすることもできない存在だった――。
***
「お母さん、ただいま」
「おかえり雪乃。今日のお弁当、どうだった?」
「……うん、美味しかったよ」
初瀬雪乃は若干表情を曇らせて返事をした。
もう高校生になったというのに、人と話すのが少し苦手で友達と呼べる程の友達がいない。
母、雪枝が作ったお手製の弁当の味はもちろん非常に美味だったはずだが、一人で食すとなんとも味気なかった。
それがこうして雪乃が表情を曇らせる原因の一つだった。
「そう、それじゃあお母さん明日も頑張って作るからね」
笑顔で答える雪枝だったが、そんな心境の雪乃からすれば母の嬉しそうな顔は辛いものでしかなかった。
「うん、お願いね」
これではいけないと考えた雪乃は、無理に作った笑顔を雪枝に向けた。
優しい母のことだから、元気がない姿を見せればきっと心配するだろうと思った雪乃ができることと言ったらこれくらいだった。
あんまり母と話していると少し泣き出してしまいそうだったので、雪乃はさっさと自室に篭ることにした。
部屋のドアを閉め、鞄を放り出しベッドへ身を投げる。
しばらくうつぶせのままじっとして、急に何かが吹っ切れたかのようにばっ、と上体を起こして嘆く。
「あー、もうっ! 提出期限が今週末って間に合う訳ないよ!」
実は、雪乃が表情を曇らせる原因は弁当のことだけではなかった。
今日もクラスメートの女子たちに提出用のノートを押し付けられたのだ。
ノートを提出するだけで内申点が貰える英語の授業の時はいつもそうだった。
アンナに、ミスズに、エリカ、三人分のノートに加えもちろん自分の分も完成させなければならない。
今日は月曜日、提出期限が金曜日なのであと五日しか残っていない。
もちろん課題はこれだけではなく、他の教科もあるし、プライベートの時間だって少しくらい欲しい。
テスト前などは合わせて四人分の提出用ノートを書くものだから、英語を筆頭に他の教科の点数が良くなってしまったのだ。
喜んでいいのやら、悔しがればいいのやら、雪乃はなんともいえない気持ちだった。
ベッドの上でころん、と半回転して仰向けになり天井を見上げる。
今までは確かにあの三人の言いなりになってきた。
それは自分がウジウジしているからそういう標的になるんだ、仕方ないことなんだ、と普段から雪乃はそう自らに言い聞かせてきた。
社会に適応できない人間は、得てしてこういう末路になるものなんだ、と。
「でも、それって私が悪いのかな? 輪に入れない人間が悪になるの?」
弱い者が弱いことが悪い。
そんな世の中と、弱い自分が嫌だ。
「なーんてね」
ちょっと格好良く色々と考えてみたが何かが解決するわけではないな、と雪乃はため息をついた。
「いっそのこと全部投げちゃおうか」
「クスクス……投げてみる? 人生」
「そうは言っても、人生投げるって具体的になにする……って、え?」
突如、どこからともなく聞こえた声を受け取るままに返事をしかけるが、おかしなことに気づいた雪乃は言葉を止める。
――この部屋には私しかいないはずなのに――?
「こっち……こっちだよ」
誘う何者かの声に雪乃はベッドから跳ね起きると、部屋を見渡す。
「……これ?」
違和感の正体はすぐに発見することができた。
部屋に置いてある姿見の鏡に映る雪乃が、現実の雪乃に向かって手招きをしていたからだ。
雪乃はわざわざ自分の姿を改めて確認し、どう間違っても自分が手招きをする仕草などしていないことを確認してから、もう一度鏡を見る。
そこには自分ではない自分、ただ鏡に映る自分が居た。
「今の生活が楽しくないんでしょ?」
鏡の中の雪乃が尋ねる。
「……楽しいわけ、ない」
尋ねられると、雪乃は思っていたままに答える。
お前は誰だ、とか。なんのマジックだ、とか。
聞きたいことは色々あった雪乃だったが、日々募るストレス、イライラの原因を指摘されれば反論もしたくなる。
溜まっていたことを、吐き出したくもなる。
しかしあまりに自然に出た自らの言葉が、頭の隅に引っかかった。
目の前にある超常現象について、不思議だとは思いながらも普通に受け入れている自分が変だと思った。
何故かこの現象に妙な既視感を感じていたが、頭の中で考えた疑いの念はそれきりだった。
そして目の前にある現象を疑うよりも前に、雪乃は鏡との会話を続けた。
「楽しいわけないよ。私はもっとたくさん友達とか作ってさ、ただ楽しく過ごせたらいいなって……そう思うだけなのに……」
最後のほうは徐々に涙声になりながら、鏡の自分へ背を向ける。
この鏡の自分がなんなのかは知らないが、他人に泣いているところを見られることに抵抗を感じた雪乃は自然にそうしてしまう。
「……代わってみる?」
「……え?」
「こっちの生活は楽しいよ、友達もたくさんいるし、イジメられることなんてない。幸せな世界だよ」
この時、雪乃は振り向いたばかりで気づいていなかったが、鏡の雪乃は目を伏せて笑っていた。
悪魔のような微笑。人を騙くらかす、悪党の笑み。
「……ほんと、に?」
雪乃は一歩、鏡に近づく。
こんな鏡の自分が存在している理由を、勝手に都合よく解釈し始めていた。
――きっと、これは神様が与えてくれたチャンスなんだ――。
「ほんとに、そんな素敵な世界なの?」
「もちろん、あなたさえよければ代わってあげる。このままじゃあなたが可哀想だもの」
「私、行きたい。その幸せな世界へ」
すがれるものがあるのならば、なんでもいい。
この境遇を変えてくれるのならば、どんな方法でもいい。
もしそんな方法があるのならば、リスクなんて省みずに乗っかって、友達を作って、楽しく毎日を過ごす。
そんな神頼みしか今の雪乃には残っていなかった。
そしてこの時の雪乃は"素敵な世界"像を妄信して、大事なことが何一つ見えていなかった。
これは悪魔の囁きだということ。
そして、そんな幸せは努力無しに手に入ることは決してないということを――。