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「妻と目も合わせられない」と恋愛相談してくる無口な旦那様。回答者が妻の私だとは、まだ気づいていないようです

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/10/02

 結婚して半年になる旦那様は、今朝も「ああ」しか言わなかった。


 食卓の真ん中には、私の焼いた林檎のパイ。正確には、林檎のパイだったもの。縁がしっかり黒い。


「……すみません。窯の火加減を間違えてしまって」


「ああ」


 ヴォルフラム・グレイヴス侯爵。元近衛騎士で、社交界での二つ名は「冬の狼」。背が高く、目つきが鋭く、笑ったところを見た者はいないと噂される。そして、私の夫だ。


 旦那様は焦げたパイを黙々と切り分け、黙々と口に運んだ。一切れ、二切れ。気づけば皿は空になっていた。


「……そうか」


 何が「そうか」なのかは、最後までわからなかった。旦那様は外套を取り、そのまま登城していった。


 子爵家の次女と侯爵家の当主。家同士の縁談で、まともに顔を合わせたのは婚約式の日が初めてだった。寝室は別々。会話は一日に三言。旦那様は夜遅くまで書斎にこもり、明け方まで灯りがついていることもある。


 嫌われてはいない、と思う。でも好かれているかどうかは、半年たってもわからない。


「奥様。本日の分でございます」


 昼過ぎ、侍女のマルタが籐の籠を差し出した。実家から連れてきた、私の秘密を知るただひとりの人だ。


 籠の中身は、手紙の束。


『婚約者が、私より馬を愛している気がします』


『あなたも一度、馬に乗せてもらいなさい。並んで同じものを愛するのが、いちばんの近道です』


『片思いの相手に、三年間で一度だけ「おはよう」と言えました。次は何を言えばいいですか』


『三年後ではなく、明日「こんにちは」をお言いなさい』


 他人の恋なら、こんなにすらすら答えられるのに。


 私には、旦那様に言っていない顔がある。王都の週刊紙『銀の鈴』で恋愛相談欄を受け持つ、匿名の回答者「ローズマリー夫人」。十六の年に家計の足しにと始めて、嫁いだ今もやめられずにいる。


 相談の手紙は、差出人の身元を守るため、編集部ですべて清書されてから届く。だから手元の束は、どれも同じ編集部員の几帳面な字で埋まっている。


「そういえば奥様」とマルタが言った。「旦那様の書斎の棚に、『銀の鈴』がずらりと並んでおりましたよ。ずいぶん古い号まで、きちんと綴じて」


「あら。旦那様もああいう新聞を読むのね。意外だわ」


「さあ、どうでございましょうねえ」


 マルタは何か言いたげな顔で出ていった。私は気にせず、一通目の封を切る。


 差出人の欄には、こうあった。


 ――冬の狼。


『妻と目も合わせられない。今朝、妻が焼いたパイを褒めたかった。少し焦げていたが、林檎が甘くて、とてもうまかった。だが言葉が出ず「そうか」としか言えなかった。全部食べたが、伝わっただろうか』


 私は手紙を三回読み、それから窓の外、旦那様が出ていった門のほうを見た。


「……これ、うちの旦那様では?」


◇


 冬の狼。今朝の林檎のパイ。焦げ。「そうか」。


 偶然で片づけるには、材料がそろいすぎている。


 あの無表情の下で、そんなことを考えていたなんて。頬が熱くなるのをごまかすように、私はペンを取った。


 相手が誰であれ、届いた相談には誠実に答える。それがローズマリー夫人の流儀だ。


『冬の狼さまへ。パイはきっと伝わっています。全部食べてくださる方を、嫌う奥様はいません。けれど、言葉にすればもっと伝わります。まずは明日の朝、奥様のお名前を呼んで「おはよう」と言ってごらんなさい。目を見るのが難しければ、眉間でも構いません』


 回答が載った『銀の鈴』が出たのは、四日後の朝だった。


 食堂に入ると、旦那様がもう席についていた。いつもなら新聞を広げているのに、今日は何も持たず、背筋をまっすぐ伸ばして座っている。


 向かいに腰を下ろすと、旦那様は私の顔――正確には、眉間のあたり――をじっと見た。剣の試合でも始まりそうな目つきだった。


「……おはよう、エリーゼ」


 低い声。耳の先から首筋まで、みるみる赤くなっていく。


 眉間。本当に眉間を見ている。


「お、おはようございます、旦那様」


 こらえきれずに、小さく吹き出してしまった。旦那様の耳がさらに赤くなる。それなのに視線だけは、律儀に私の眉間から動かない。


 名前を呼ばれたのは、結婚式の誓いの言葉以来だった。


 朝食のあいだ、旦那様は一言もしゃべらなかった。けれど席を立つとき、扉の前で一度だけ振り返った。


「……行ってくる、エリーゼ」


 また眉間だった。


 旦那様が出ていったあと、給仕をしていたマルタが、空のカップを片づけながらぼそりと言った。


「眉間でございましたねえ」


「マルタ。見ていたなら、何も言わないで」


「はいはい。何も申しませんとも」


 その日の夕方、編集部から次の束が届いた。冬の狼の二通目は、短かった。


『名前を呼んだ。妻が笑った。初めて見た。次は何をすればいい』


 私は手紙を胸に当てて、天井を仰いだ。


 ――どうやら私は、旦那様の取扱説明書を書く立場になってしまったらしい。


◇


 それからの私は、少しばかり欲張りになった。


『奥様の好きなお菓子を、当ててごらんなさい。答え合わせは贈り物で』


 三日後、旦那様は無言で白い箱を差し出した。中身は、街角の老舗の杏のタルト。子どものころから、私が一番好きなお菓子だった。


「……どうして、わかったんですか」


「……勘だ」


 勘にしては、迷いのない手つきだった。


 調子に乗った私は、次の回答にこう書いた。


『休日は奥様を街へ誘いなさい。手をつなぐのは、人混みを口実にすればよろしい』


 週末、旦那様は本当に私を街へ連れ出した。


 市場通りは人であふれていた。旦那様は隣を歩きながら、右手を何度も握っては開き、握っては開きしている。それが十分ほど続いたあと、ようやく大きな手が、私の指先にそっと触れた。


「……人が、多いので」


「はい。多いですね」


 笑いをかみ殺して、その手を握り返す。剣だこの硬い、温かい手だった。


 市場を抜け、川沿いの静かな並木道に出ても、旦那様は手を離さなかった。人影はまばらで、鳩が数羽、のんびり石畳をつついている。


「旦那様。もう、人は少ないですよ」


 旦那様はあたりを見回し、鳩を見て、それから前を向いた。


「……まだ多い」


 鳩しかいない。


 私は黙って、つないだ手に少しだけ力をこめた。


 ここまでは、全部私の回答どおりだ。


 ところが帰り道、旦那様は花屋の前で足を止めた。迷う様子もなく店に入り、すぐに小さな包みを手に戻ってくる。


「これを」


 薔薇でも百合でもない。青い小花のついた、ローズマリーの小枝だった。


「……ローズマリー、ですか」


「君に似合うと思った」


 胸がどきりと鳴った。偶然よね、と自分に言い聞かせる。香りもいいし、料理にも使える。きっと実用を重んじる旦那様らしい選択なのだ。


 回答欄に、花のことは一行も書いていない。


 帰ってから、私は次の回答の下書きを広げた。『奥様の髪を褒めなさい』『夜はおやすみの挨拶を、扉の外からでなく』。並べてみると、それは相談への回答というより、私の願いごとの一覧だった。ペン先が止まる。旦那様はこれを読んで、全部叶えようとするのだろう。真顔で。


 その夜、小枝を水差しに挿して眺めていると、冬の狼の新しい手紙が届いた。


『回答者殿の助言は、いつも妻によく効く。まるで、妻のことを誰よりもよく知っているかのようだ』


◇


 幸せな日々だった。


 旦那様は毎朝私の名前を呼ぶようになり、夕食の席では、ぽつりぽつりと近衛時代の話をしてくれるようになった。眉間ではなく、ときどきは目を見て。


 なのに、優しくされるほど、胸の奥に小さなとげが刺さっていく。


 とげをはっきり自覚したのは、ある伯爵夫人のお茶会だった。


「聞きましたわよ、グレイヴス夫人。あの冬の狼が、奥様と手をつないで市場を歩いていたとか」


「政略のご結婚でしょう? それでもあんなに尽くしてくださるなんて。さすが、騎士道の鑑のような方ですわね」


 扇の陰で、ご婦人方がにこやかに笑う。悪気はないのだろう。私も笑って、紅茶を飲んだ。味はしなかった。


 騎士道。義務。誠実。


 この人が優しいのは、ローズマリー夫人の回答に従っているからではないか。私が書かなければ、名前を呼ぶことも、手をつなぐこともなかったのではないか。


 政略で迎えた妻を、義務として大切にしようとしている。そういう誠実な人なのだ。だから相談までする。


 そして私は、その誠実さにつけこんでいる。


 次に届いた冬の狼の手紙を、私はしばらく開けられなかった。


『妻は、私を好いてくれているだろうか。私との結婚は、妻が望んだものではない。もし義務で隣にいてくれるのなら、私は手放すべきなのだろうか』


 手紙を持つ指が震えた。


 好きです。そう書けたら、どんなに楽だろう。けれど匿名の回答者が「奥様はあなたを好きですよ」と言いきるなんて、できるはずがない。


 書いては破り、書いては破り、時計が二時を打った。


 ふと、廊下に足音がした。重く、ゆっくりとした足音。それは私の部屋の前で止まり、しばらく動かなかった。ノックはない。息を殺して待っていると、やがて足音は、来たときよりもっとゆっくり遠ざかっていった。


 書斎の扉が閉まる音。細く漏れていた灯りは、その夜、とうとう消えなかった。


 気づけば窓の外が白んでいた。最後に残った一枚には、こう書いた。


『冬の狼さまへ。その答えは、私にはわかりません。奥様ご本人に、目を見てお聞きなさい。――ひとつだけ。奥様もきっと今ごろ、同じことで眠れずにいるはずです』


 封をして、マルタに託した。


 四日後の朝。食堂に入ると、旦那様の前に『銀の鈴』が置かれていた。


 旦那様は新聞から顔を上げ、初めて、まっすぐに私の目を見た。


「エリーゼ。少し、話がある」


◇


 食堂から人払いがされた。


 向かい合って座ると、旦那様は一度だけ深く息を吸った。


「君は、私を好いているか」


 目を見て、本人に。私が書いたとおりに、この人は聞いている。


 もう、だめだった。


「……ごめんなさい」


 旦那様の顔がこわばる。私はあわてて首を振った。


「違うんです。ローズマリー夫人は、私なんです。旦那様のご相談、全部私が読んで、全部私が答えていました。杏のタルトも、手をつなぐのも、私がそうしてほしくて書いたんです。旦那様の誠実さにつけこんで、ずっと――」


「知っている」


「……え?」


「最初から知っていた」


 旦那様は上着の内ポケットから、一枚の紙を取り出した。黄ばんだ新聞の切り抜き。何度も折りたたまれて、角がすり切れている。


「二年前の『銀の鈴』だ」


 見出しは、ローズマリー夫人の小部屋。相談者の名は――名もなき騎士。


 覚えている。あまりに真剣な手紙だったから、何度も書き直して答えたのだ。


『話したこともない人を好きになった。彼女の書く言葉が好きだ。毎週、彼女の言葉を読むのを支えに生きている。どうすればいい』


 その下に、十八の私の回答が載っていた。


『名もなき騎士さまへ。物陰から見つめるのはおやめなさい。正式に、真正面から、家を通して申し込みなさい。逃げ道のない誠実さは、何より強い口説き文句です』


 私は切り抜きと旦那様の顔を、何度も見比べた。


「……これも、旦那様?」


「近衛にいたころ、毎週この欄を読んでいた。ある日、編集部に原稿を届けに来た令嬢を見かけた。調べたら、子爵家の次女だった」


 旦那様は、少しだけ目を伏せた。


「だから、君の言うとおりにした。家を通して、正式に申し込んだ」


 政略結婚。家同士の縁談。私が半年間、ずっとそう信じてきたもの。


 あれは、十八の私が書いた回答の、律儀すぎる実行だったのだ。


「なら、どうして……結婚してから、何も話してくださらなかったんですか」


「君は、紙の上でだけ饒舌だった。だから私も、紙の上で話すしかなかった」


 旦那様の耳が、また赤くなっていく。


「でも、どうして『冬の狼』なんて名前で……あれでは、すぐにわかってしまいます」


「わかってほしかった」


 あまりにあっさり言われて、言葉に詰まった。


「名を呼ぶのも、目を見るのも、口ではうまくできない。だが手紙なら書ける。君が気づいて、それでも答えてくれるなら、それが返事だと思った」


 毎週、届いていた手紙。毎週、私が書いた回答。私たちは半年間、ずっと文通をしていたのだ。お互いに、相手が誰かを知りながら。


「……杏のタルトは?」


「三年前の回答に書いてあった。『わたくしも子どものころから、杏のタルトに目がありません』と」


 書いた。たしかに書いた。自分でもすっかり忘れていたのに。


 杏のタルトの「勘」も、ローズマリーの小枝も、書斎に綴じられた古い『銀の鈴』も。最初からこの人は、私だけを見て、私だけに手紙を書いていた。


「それで。答えを、まだ聞いていない」


 私は真っ赤になって、小さくうなずいた。


「……好きです。たぶん、旦那様が思っているより、ずっと」


 旦那様は長く息を吐いた。張りつめていた肩から、ようやく力が抜けるのがわかった。


「……あの夜、君の部屋の前まで行った」


「足音、聞こえていました」


「聞きに行ったんだ。だが扉の前に立ったら、答えを聞くのが怖くなった。だから、君の回答が載るのを待った」


 冬の狼が、扉一枚の前で立ちすくんでいたなんて。社交界の誰に話しても、きっと信じてもらえない。


 それから旦那様は、私の目を見たまま言った。


「では、次の相談だ。回答者殿」


「は、はい」


「妻に、毎朝口づけをしたい。どうすればいい」


 顔を覆いたくなるのを必死でこらえて、私はローズマリー夫人として答えた。


「……ご本人に、目を見て聞いてください」


 旦那様は、そうした。


 扉の向こうで、誰かが小さく「やっと」とつぶやいた。マルタの声だった。あとで問いつめたら、書斎の古い『銀の鈴』の、ローズマリー夫人の欄にだけ栞が挟まっていたのを、とうに知っていたのだという。


 この縁談を「政略」だと思っていたのは、どうやら王都じゅうで私ひとりだったらしい。


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