「妻と目も合わせられない」と恋愛相談してくる無口な旦那様。回答者が妻の私だとは、まだ気づいていないようです
結婚して半年になる旦那様は、今朝も「ああ」しか言わなかった。
食卓の真ん中には、私の焼いた林檎のパイ。正確には、林檎のパイだったもの。縁がしっかり黒い。
「……すみません。窯の火加減を間違えてしまって」
「ああ」
ヴォルフラム・グレイヴス侯爵。元近衛騎士で、社交界での二つ名は「冬の狼」。背が高く、目つきが鋭く、笑ったところを見た者はいないと噂される。そして、私の夫だ。
旦那様は焦げたパイを黙々と切り分け、黙々と口に運んだ。一切れ、二切れ。気づけば皿は空になっていた。
「……そうか」
何が「そうか」なのかは、最後までわからなかった。旦那様は外套を取り、そのまま登城していった。
子爵家の次女と侯爵家の当主。家同士の縁談で、まともに顔を合わせたのは婚約式の日が初めてだった。寝室は別々。会話は一日に三言。旦那様は夜遅くまで書斎にこもり、明け方まで灯りがついていることもある。
嫌われてはいない、と思う。でも好かれているかどうかは、半年たってもわからない。
「奥様。本日の分でございます」
昼過ぎ、侍女のマルタが籐の籠を差し出した。実家から連れてきた、私の秘密を知るただひとりの人だ。
籠の中身は、手紙の束。
『婚約者が、私より馬を愛している気がします』
『あなたも一度、馬に乗せてもらいなさい。並んで同じものを愛するのが、いちばんの近道です』
『片思いの相手に、三年間で一度だけ「おはよう」と言えました。次は何を言えばいいですか』
『三年後ではなく、明日「こんにちは」をお言いなさい』
他人の恋なら、こんなにすらすら答えられるのに。
私には、旦那様に言っていない顔がある。王都の週刊紙『銀の鈴』で恋愛相談欄を受け持つ、匿名の回答者「ローズマリー夫人」。十六の年に家計の足しにと始めて、嫁いだ今もやめられずにいる。
相談の手紙は、差出人の身元を守るため、編集部ですべて清書されてから届く。だから手元の束は、どれも同じ編集部員の几帳面な字で埋まっている。
「そういえば奥様」とマルタが言った。「旦那様の書斎の棚に、『銀の鈴』がずらりと並んでおりましたよ。ずいぶん古い号まで、きちんと綴じて」
「あら。旦那様もああいう新聞を読むのね。意外だわ」
「さあ、どうでございましょうねえ」
マルタは何か言いたげな顔で出ていった。私は気にせず、一通目の封を切る。
差出人の欄には、こうあった。
――冬の狼。
『妻と目も合わせられない。今朝、妻が焼いたパイを褒めたかった。少し焦げていたが、林檎が甘くて、とてもうまかった。だが言葉が出ず「そうか」としか言えなかった。全部食べたが、伝わっただろうか』
私は手紙を三回読み、それから窓の外、旦那様が出ていった門のほうを見た。
「……これ、うちの旦那様では?」
◇
冬の狼。今朝の林檎のパイ。焦げ。「そうか」。
偶然で片づけるには、材料がそろいすぎている。
あの無表情の下で、そんなことを考えていたなんて。頬が熱くなるのをごまかすように、私はペンを取った。
相手が誰であれ、届いた相談には誠実に答える。それがローズマリー夫人の流儀だ。
『冬の狼さまへ。パイはきっと伝わっています。全部食べてくださる方を、嫌う奥様はいません。けれど、言葉にすればもっと伝わります。まずは明日の朝、奥様のお名前を呼んで「おはよう」と言ってごらんなさい。目を見るのが難しければ、眉間でも構いません』
回答が載った『銀の鈴』が出たのは、四日後の朝だった。
食堂に入ると、旦那様がもう席についていた。いつもなら新聞を広げているのに、今日は何も持たず、背筋をまっすぐ伸ばして座っている。
向かいに腰を下ろすと、旦那様は私の顔――正確には、眉間のあたり――をじっと見た。剣の試合でも始まりそうな目つきだった。
「……おはよう、エリーゼ」
低い声。耳の先から首筋まで、みるみる赤くなっていく。
眉間。本当に眉間を見ている。
「お、おはようございます、旦那様」
こらえきれずに、小さく吹き出してしまった。旦那様の耳がさらに赤くなる。それなのに視線だけは、律儀に私の眉間から動かない。
名前を呼ばれたのは、結婚式の誓いの言葉以来だった。
朝食のあいだ、旦那様は一言もしゃべらなかった。けれど席を立つとき、扉の前で一度だけ振り返った。
「……行ってくる、エリーゼ」
また眉間だった。
旦那様が出ていったあと、給仕をしていたマルタが、空のカップを片づけながらぼそりと言った。
「眉間でございましたねえ」
「マルタ。見ていたなら、何も言わないで」
「はいはい。何も申しませんとも」
その日の夕方、編集部から次の束が届いた。冬の狼の二通目は、短かった。
『名前を呼んだ。妻が笑った。初めて見た。次は何をすればいい』
私は手紙を胸に当てて、天井を仰いだ。
――どうやら私は、旦那様の取扱説明書を書く立場になってしまったらしい。
◇
それからの私は、少しばかり欲張りになった。
『奥様の好きなお菓子を、当ててごらんなさい。答え合わせは贈り物で』
三日後、旦那様は無言で白い箱を差し出した。中身は、街角の老舗の杏のタルト。子どものころから、私が一番好きなお菓子だった。
「……どうして、わかったんですか」
「……勘だ」
勘にしては、迷いのない手つきだった。
調子に乗った私は、次の回答にこう書いた。
『休日は奥様を街へ誘いなさい。手をつなぐのは、人混みを口実にすればよろしい』
週末、旦那様は本当に私を街へ連れ出した。
市場通りは人であふれていた。旦那様は隣を歩きながら、右手を何度も握っては開き、握っては開きしている。それが十分ほど続いたあと、ようやく大きな手が、私の指先にそっと触れた。
「……人が、多いので」
「はい。多いですね」
笑いをかみ殺して、その手を握り返す。剣だこの硬い、温かい手だった。
市場を抜け、川沿いの静かな並木道に出ても、旦那様は手を離さなかった。人影はまばらで、鳩が数羽、のんびり石畳をつついている。
「旦那様。もう、人は少ないですよ」
旦那様はあたりを見回し、鳩を見て、それから前を向いた。
「……まだ多い」
鳩しかいない。
私は黙って、つないだ手に少しだけ力をこめた。
ここまでは、全部私の回答どおりだ。
ところが帰り道、旦那様は花屋の前で足を止めた。迷う様子もなく店に入り、すぐに小さな包みを手に戻ってくる。
「これを」
薔薇でも百合でもない。青い小花のついた、ローズマリーの小枝だった。
「……ローズマリー、ですか」
「君に似合うと思った」
胸がどきりと鳴った。偶然よね、と自分に言い聞かせる。香りもいいし、料理にも使える。きっと実用を重んじる旦那様らしい選択なのだ。
回答欄に、花のことは一行も書いていない。
帰ってから、私は次の回答の下書きを広げた。『奥様の髪を褒めなさい』『夜はおやすみの挨拶を、扉の外からでなく』。並べてみると、それは相談への回答というより、私の願いごとの一覧だった。ペン先が止まる。旦那様はこれを読んで、全部叶えようとするのだろう。真顔で。
その夜、小枝を水差しに挿して眺めていると、冬の狼の新しい手紙が届いた。
『回答者殿の助言は、いつも妻によく効く。まるで、妻のことを誰よりもよく知っているかのようだ』
◇
幸せな日々だった。
旦那様は毎朝私の名前を呼ぶようになり、夕食の席では、ぽつりぽつりと近衛時代の話をしてくれるようになった。眉間ではなく、ときどきは目を見て。
なのに、優しくされるほど、胸の奥に小さなとげが刺さっていく。
とげをはっきり自覚したのは、ある伯爵夫人のお茶会だった。
「聞きましたわよ、グレイヴス夫人。あの冬の狼が、奥様と手をつないで市場を歩いていたとか」
「政略のご結婚でしょう? それでもあんなに尽くしてくださるなんて。さすが、騎士道の鑑のような方ですわね」
扇の陰で、ご婦人方がにこやかに笑う。悪気はないのだろう。私も笑って、紅茶を飲んだ。味はしなかった。
騎士道。義務。誠実。
この人が優しいのは、ローズマリー夫人の回答に従っているからではないか。私が書かなければ、名前を呼ぶことも、手をつなぐこともなかったのではないか。
政略で迎えた妻を、義務として大切にしようとしている。そういう誠実な人なのだ。だから相談までする。
そして私は、その誠実さにつけこんでいる。
次に届いた冬の狼の手紙を、私はしばらく開けられなかった。
『妻は、私を好いてくれているだろうか。私との結婚は、妻が望んだものではない。もし義務で隣にいてくれるのなら、私は手放すべきなのだろうか』
手紙を持つ指が震えた。
好きです。そう書けたら、どんなに楽だろう。けれど匿名の回答者が「奥様はあなたを好きですよ」と言いきるなんて、できるはずがない。
書いては破り、書いては破り、時計が二時を打った。
ふと、廊下に足音がした。重く、ゆっくりとした足音。それは私の部屋の前で止まり、しばらく動かなかった。ノックはない。息を殺して待っていると、やがて足音は、来たときよりもっとゆっくり遠ざかっていった。
書斎の扉が閉まる音。細く漏れていた灯りは、その夜、とうとう消えなかった。
気づけば窓の外が白んでいた。最後に残った一枚には、こう書いた。
『冬の狼さまへ。その答えは、私にはわかりません。奥様ご本人に、目を見てお聞きなさい。――ひとつだけ。奥様もきっと今ごろ、同じことで眠れずにいるはずです』
封をして、マルタに託した。
四日後の朝。食堂に入ると、旦那様の前に『銀の鈴』が置かれていた。
旦那様は新聞から顔を上げ、初めて、まっすぐに私の目を見た。
「エリーゼ。少し、話がある」
◇
食堂から人払いがされた。
向かい合って座ると、旦那様は一度だけ深く息を吸った。
「君は、私を好いているか」
目を見て、本人に。私が書いたとおりに、この人は聞いている。
もう、だめだった。
「……ごめんなさい」
旦那様の顔がこわばる。私はあわてて首を振った。
「違うんです。ローズマリー夫人は、私なんです。旦那様のご相談、全部私が読んで、全部私が答えていました。杏のタルトも、手をつなぐのも、私がそうしてほしくて書いたんです。旦那様の誠実さにつけこんで、ずっと――」
「知っている」
「……え?」
「最初から知っていた」
旦那様は上着の内ポケットから、一枚の紙を取り出した。黄ばんだ新聞の切り抜き。何度も折りたたまれて、角がすり切れている。
「二年前の『銀の鈴』だ」
見出しは、ローズマリー夫人の小部屋。相談者の名は――名もなき騎士。
覚えている。あまりに真剣な手紙だったから、何度も書き直して答えたのだ。
『話したこともない人を好きになった。彼女の書く言葉が好きだ。毎週、彼女の言葉を読むのを支えに生きている。どうすればいい』
その下に、十八の私の回答が載っていた。
『名もなき騎士さまへ。物陰から見つめるのはおやめなさい。正式に、真正面から、家を通して申し込みなさい。逃げ道のない誠実さは、何より強い口説き文句です』
私は切り抜きと旦那様の顔を、何度も見比べた。
「……これも、旦那様?」
「近衛にいたころ、毎週この欄を読んでいた。ある日、編集部に原稿を届けに来た令嬢を見かけた。調べたら、子爵家の次女だった」
旦那様は、少しだけ目を伏せた。
「だから、君の言うとおりにした。家を通して、正式に申し込んだ」
政略結婚。家同士の縁談。私が半年間、ずっとそう信じてきたもの。
あれは、十八の私が書いた回答の、律儀すぎる実行だったのだ。
「なら、どうして……結婚してから、何も話してくださらなかったんですか」
「君は、紙の上でだけ饒舌だった。だから私も、紙の上で話すしかなかった」
旦那様の耳が、また赤くなっていく。
「でも、どうして『冬の狼』なんて名前で……あれでは、すぐにわかってしまいます」
「わかってほしかった」
あまりにあっさり言われて、言葉に詰まった。
「名を呼ぶのも、目を見るのも、口ではうまくできない。だが手紙なら書ける。君が気づいて、それでも答えてくれるなら、それが返事だと思った」
毎週、届いていた手紙。毎週、私が書いた回答。私たちは半年間、ずっと文通をしていたのだ。お互いに、相手が誰かを知りながら。
「……杏のタルトは?」
「三年前の回答に書いてあった。『わたくしも子どものころから、杏のタルトに目がありません』と」
書いた。たしかに書いた。自分でもすっかり忘れていたのに。
杏のタルトの「勘」も、ローズマリーの小枝も、書斎に綴じられた古い『銀の鈴』も。最初からこの人は、私だけを見て、私だけに手紙を書いていた。
「それで。答えを、まだ聞いていない」
私は真っ赤になって、小さくうなずいた。
「……好きです。たぶん、旦那様が思っているより、ずっと」
旦那様は長く息を吐いた。張りつめていた肩から、ようやく力が抜けるのがわかった。
「……あの夜、君の部屋の前まで行った」
「足音、聞こえていました」
「聞きに行ったんだ。だが扉の前に立ったら、答えを聞くのが怖くなった。だから、君の回答が載るのを待った」
冬の狼が、扉一枚の前で立ちすくんでいたなんて。社交界の誰に話しても、きっと信じてもらえない。
それから旦那様は、私の目を見たまま言った。
「では、次の相談だ。回答者殿」
「は、はい」
「妻に、毎朝口づけをしたい。どうすればいい」
顔を覆いたくなるのを必死でこらえて、私はローズマリー夫人として答えた。
「……ご本人に、目を見て聞いてください」
旦那様は、そうした。
扉の向こうで、誰かが小さく「やっと」とつぶやいた。マルタの声だった。あとで問いつめたら、書斎の古い『銀の鈴』の、ローズマリー夫人の欄にだけ栞が挟まっていたのを、とうに知っていたのだという。
この縁談を「政略」だと思っていたのは、どうやら王都じゅうで私ひとりだったらしい。




