ep.3「忘れられない人」
「魔王だから?」
「それもある」
そう言いながら、シャイロックは微笑んでいた。まるで愛しいものを眺めるような甘い笑みに、フィリエの心臓が忙しなく跳ねる。
「でも私、あなたのことが知りたい」
「……なぜだ?」
「もっと……一緒にいたいから」
シャイロックは表情を強張らせた。そして黙り込んでしまった。十三歳のフィリエにとっては大胆な告白だったのだが、シャイロックの反応を見てフィリエは焦った。
まさかそんなに険しい表情をされるなんて、実は自分は嫌われていたのだろうか?と考え始めたところで、シャイロックの手が頬から離れた。
「今夜だけだ」
「えっ!!」
「お前の質問に答える代わりに、俺もお前に問う」
「何でも聞いて!」
フィリエの表情がパッと明るくなる。
「そんな顔をしても、俺は答えたくないものは答えないぞ」
「うん、もちろん」
ふっ、とシャイロックの表情が柔らかくなった。宮殿内をゆっくりと進む二人の周りを、小精霊たちが楽しそうに舞いながらついていく。
「なんで魔法陣を作ったの?」
「あれは俺が作ったものだが、その発想自体は俺のものじゃない。ある人間が言ったんだ、精霊の声が聞こえず対話ができないのなら、文字に書いて伝えてはどうかと」
「すごい人だね。そんなこと思いつくなんて」
「そうだな、本当に変なやつだった」
そう言いながらも、シャイロックの表情は懐かしむように柔らかかった。
「大切な人だった?」
「……ああ」
「女の人?」
フィリエが問うと、シャイロックは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに吹き出して笑い始めた。
「はははっ、そんなことが気になるのか?」
フィリエはむっとしてシャイロックの腕を小突く。
「ばかにして……」
「悪かったよ」
腹が立ったフィリエはフンっとそっぽを向いて見せる。
「それで、魔導書はどこで見つけた?」
「……エルザの寝室」
「ほぉ……あの人も物好きだな。俺が書いたと知っていたのか」
「エルザは知っていると思うけど、私に言ったことはないよ」
「なら、どうして」
フィリエは足を止めて少しの間沈黙する。
「……ばかにしない?」
「……ああ」
目を伏せたフィリエを、シャイロックが静かに見つめる。
「あの本をベッドで読んでいたら、いつのまにか寝ちゃって……おかしな夢を見たの」
「……」
「あなたが本を書いているところ、そしてその本を、小さな人間の男の子に渡したところ。それから本はいろんな人の手に渡って、書き写されたり盗まれたり捨てられたりもしたけれど、結局巡り巡って今、エルザの家にある。夢の中で私は、本になったような感覚だった。夢の中の私は、あなたが書いたものをどうしても守らないとって思いながら目が覚めたの」
「その本の表紙に柄はあったか」
「何もなかったよ。タイトルすら書かれてなかったと思うけど」
フィリエに合わせて足を止めていたシャイロックが、再び前を向いて歩き出す。
「物にも魔力が宿り、その結果意思を持つことがある。その本は、俺が一番最初に書いた原本だ。まだこの世にあるとは思わなかった。俺はその本を百年かけて書き上げた。その間に本は俺の魔力を吸ったんだろう。お前が見たのは本の記憶だ」
「じゃあ私が見た夢は、本当にあったことなの?」
「そうだろうな。だが、物の記憶を見るのは誰にでもできることじゃない。魔力を持ち、波長の合うものでなければ。あるいはそのものに気に入られなければ記憶を見ることはない。お前は……」
「私は?」
隣に並んだフィリエの顔を、シャイロックがちらりと見た。
「そういうものを惹きつける力があるのかもしれない」
「ものに気に入られるってこと?」
「物や、人や、精霊…お前はいつも小精霊を引き連れているが、あいつらは魔力を持っていれば誰にでもついていくわけじゃない」
「そうなんだ…確かにエルザにも、私の魔力は平凡だけど精霊に気に入られてるからそこそこの魔法が使えるって言われた。私は精霊の声をいつでもはっきり聞けるわけじゃないけど、私がお願いすれば応えてくれるんだって。どうしてだろう?」
「……さあな」
「ねぇ、もう一つ質問してもいい?」
「なんだ」
「シャイロック、前に私に会った時に歴史の話をしたでしょう?」
「したか?」
「覚えてるくせに。オフィーリアの話。シャイロックは聖女だって言っていたけど、どの歴史書を読んでも、その名前は聖女じゃなくて“終焉の魔女”の名前として残されてる。あなたの配下の一人だったと」
シャイロックは足を止めて上を見上げた。話しながら崩れた宮殿内を進んできたフィリエたちは、大きな広間の入り口に立っていた。この広間は天井が崩れ落ちておらず、崩れた外壁側から外の光が少し差し込むだけの薄暗い空間だった。
シャイロックが大きく手を振り上げると、瞬く間に炎が生まれ、広間の天井にあるシャンデリアに火が灯る。
「わぁ!」
美しい装飾は蜘蛛の巣や埃をかぶってしまっているが、その灯りは広間全体を明るく照らした。色褪せてはいるものの、かつての美しさを連想させる装飾や壁画が残っているその空間は、時の流れと人の世の移り変わりを思わせる。
「ここは、どれくらい前の宮殿なの?」
「千年。ここは聖女のために作られた、神殿に近い場所だった」
「聖女のため……」
「他にも数多くの神殿はあったが、この時代に残っているのはここだけだ」
“残っているのは”とシャイロックは言ったが、フィリエには、シャイロック自身がこの神殿を大切に残しているように思えた。この場所は、森の中にありながら人も獣も、あの洞窟を抜けないとここへは辿り着けない。神殿の周りに少しの余白はあるが、まるで城壁のような岩の壁が聳え立つ。なにより、ここにシャイロックの魔力を感じる結界が張られている。
「見ろ、天井に描かれているのが、オフィーリアだ」
フィリエも天井に目を向ける。描かれた絵は、長い髪を靡かせながら水辺を舞う若い女性の姿だった。その姿は幼くも美しく見え、女神というより少女を描いたような楽しげな様子が見てとれる。
「かつて、妖精たちがまだ大陸中に散らばり人と共に生きていた頃。魔法を使える人間が一人もいなかった時代。一人の人間の女が妖精王と友人になった。女はやがて恋に落ちた人間との子どもを産んだが、その夫も女も病で死んでしまった。妖精王は生まれたばかりの人間の赤子を憐れみ、妖精の国に連れ帰り、王自らが世話をし育てていた。赤子は元気に育ったが、物心つく頃には精霊の声を聞くことができ、魔力を持っていた。それがオフィーリアだ」
シャイロックは話しながらまた歩き始める。広間を進んだ先には、長い廊下があった。壁にはいくつもの絵が描かれており、それもまた色褪せてはいるもののしっかりと線を残していた。
シャイロックはある絵の前で足を止めた。それはオフィーリアが王冠を被った男の前に跪き、花の冠を頭に乗せてもらっている場面の絵。
「オフィーリアは成長すると妖精の国を出て人の国に出た。魔力を持つことは隠し、人前では魔法を使わずに日々を暮らしていた。だが、ある時から魔物の動きが活発になった。人々が争いと飢えに苦しむのを見て彼女は苦しんだ。かつて人間たちは魔力を持たなかったために、魔物退治にはエルフの力を借りていた。だがエルフは争いや殺傷をあまり好まない。人に手を貸すエルフは少なく、せいぜい自分らの生活圏を守るついでに近隣の魔物も討伐する程度だった。だが、彼女は人々を救いたかった。そしてある日、彼女は魔物に襲われていた兵士たちの前で魔法を使い、魔物を一掃した。それを、かつての大国の王子と魔物討伐に来ていた兵団が見てしまっていた」
シャイロックの声は淡々としていた。ただその横顔は、静かに怒りを燃やしているように見えた。
「オフィーリアは兵士たちに連れられて当時の大国の王宮へと迎えられた。そして、彼女は魔物討伐の最前線に駆り出される。彼女もそれを望んでいたし、人々は彼女を崇め、信仰した。数年後、魔物が減り人々の貧困も改善され国が安定した頃には、オフィーリアは聖女として大陸中にその名は知れ渡っていた。ここまでが、お前に以前話したことだ」
九歳の時、洞窟から抜け出せなくなったフィリエをシャイロックが迎えにきた。そして、泣いていたフィリエにオフィーリアの話を聞かせながら、この神殿に連れてきてくれたのだ。
「うん、覚えてる。あの時の私はまだ千年前の歴史なんてほとんど知らなかった。ただシャイロックが、とても美しくて強くて勇敢で、面白い女性がいたんだって言ってたから、気になって私はあれからいろんな大陸史の本を読んだよ」
シャイロックがフィリエの目を見る。宝石のように煌めく紫の瞳は、真っ直ぐにフィリエを映していた。自分の瞳を鏡で見ても、その色にこんなに惹かれたことはないのに。
どうしてこの人の瞳はこんなにも美しいのだろう。
「俺の話したオフィーリアは、大陸史にはいなかっただろう?」
シャイロックの灯した明かりのゆらめきが、その紫の瞳の色を鮮やかに照らす。シャイロックは目を伏せてゆるりと微笑んだ。
それがとても、寂しそうに見えた。
「……どうしてなの」




