死んだ親友のゴーストライターをしている
死んだ親友の、ゴーストライターをしている。
彼女と私は高校の文芸部仲間で、大学以降は別々の道を歩みながらも、新作が書けたらお互いにデータを送り合って感想を伝え合う仲だった。彼女の書いた作品が純文学の新人賞に入選してからも、その交流は変わることがなかった。私も、彼女のようにプロとして活躍するため頑張ろうと、執筆に励む毎日を送っていた。
そんな中、彼女は事故で亡くなった。
私は彼女の数少ない友人として葬式に参列し、彼女のご両親に挨拶し、後日、遺品の整理の手伝いを頼まれて、彼女の家に赴いた。彼女の部屋に足を踏み入れるのは、高校生以来のことだった。相変わらず本以外の私物がほとんど見当たらないこじんまりとした部屋には、私が整理の手伝いをする必要は感じられない。
けれど、雑然とした印象の机上に置かれたノートパソコンの中を見たとき、息を呑んだ。
そこには、ひとつの小説があった。
最初の一行を読んでからは止まらず、気がつけば最後まで、画面をスクロールしてしまっていた。窓の外はすっかり暗くなってしまっている。
面白かった。これは彼女の最高傑作だと思った。
登場人物のやるせない境遇や、そこに絡まってくるファンタジー的な設定、一見無意味と思えた描写の意外な価値……。彼女の作品ならではの要素がこれでもかと詰め込まれ、それでいて非常に読みやすく端正な。
しかし、未完だ。
私はこの作品を世に出さなくてはいけない。
彼女のご両親に掛け合って、出版社と連絡をとった。どちらも彼女の遺作を世に出すことに前向きだった。
半年後、書店の店頭にそれが並んだ。『幻の遺作』という言葉が帯に躍り、幻想的な美しい絵が表紙カバーを飾っている。彼女の遺作は、彼女の生前の作品よりも売れたという。
私が完成させた彼女の物語は、彼女の生前の作品より、よく売れたのだ。
『幻の遺作』は、私が続きを書いた後で、ご両親と出版社の手に渡った。彼女は構想メモなんて用意する人じゃなかったから、元々あった最後の行から完結までの百ページ分くらいは、完全に私が考えて書いたものだ。
主人公やその他の主要キャラクターはそのままに、終盤で新しいキャラクターを足して、物語を幻想から現実に引き戻した。
全て私の工夫だ。
そしてそのことを、彼女のご両親も出版社も知らない。
私は出版社とやりとりをする間も彼女の部屋に通い、他に遺された作品はないか調べていた。パソコンの中だけじゃない、本棚の隙間や家具の奥、引き出しから何から隅々まで。
けれど、もう何も見つからなかった。彼女はその時書いている一作に集中するタイプで、同時並行的な作業はしなかったから、当然と言えば当然だ。
私は彼女のパソコンで、次なる遺作を書いた。彼女のこれまでの作品傾向や筆致を全て理解している私だからこそ、書ける作品を。けれども構想自体は、私が次に書きたいと思って温めていたものだ。
私の物語が、亡くなった彼女を介して、卵から孵る。
短編ばかり十作ほど書き上げて、私は再び彼女のご両親と出版社に報告した。新しい遺作が、パソコンのフォルダに隠されていたと。
そうして、長編を得意としていた彼女の『幻の短編集』が出版された。これもまた飛ぶように売れた。最初に出た『幻の遺作』よりも売れた。
どちらも評判は上々で、彼女の死を惜しむ声があちこちから上がった。
彼女は死してさらに、作家としての地位を確立していった。
彼女の新しい遺作は、それからも毎年のように刊行された。
古いパソコンのフォルダに紛れていたとか、本棚の奥に構想メモがあったからAIに書かせてみたとか、家具の奥に書きかけの草稿があったとか、親友への手紙に作品が挟まれていたとか、色んな発見のされ方をして。
先日、いつもやり取りしている出版社の人からメールが届いた。
『次はいつどこで遺作を発見する予定ですか? こちらでも広告をかけるタイミングが予めわかるとありがたいので……』
そういうわけで、私は死んだ親友のゴーストライターをしている。
彼女のご両親は私をすっかり信頼してしまって、私以外の誰も、彼女の部屋には上がらせようとはしない。「娘のことを心から理解してくれている貴女以外には、きっと遺作は発見できないでしょう」と彼らは言う。
今後も、彼女の遺作は発表され続けるだろう。それこそ彼女が生きていた頃よりももっと多く、もっと売れる傑作が。
彼女の部屋で、彼女の椅子に座って、彼女のパソコンを起動させる。彼女が亡くなって10年は経つから、起動は遅い。
ぶうううん、という起動音と緩慢な動作が、私に抵抗する唯一のものだ。