中原の覇者からの依頼
空には、三日月が浮いていた。夜になれば、時折、肌寒さを感じる季節だった。
城では、煌々と篝火が焚かれている。
許都、曹操の本拠――。
その城郭の一室に曹操の姿は在った。
額は広く、双眸は冴え、鼻梁は高く通り、口許は引き締まっている。その立派な面貌だけではなく、容姿から漂う正悪定まらぬ魅力が人心を惹いた。赤地に金と黒の刺繍が施された戦袍をまとった曹操は、卓上に広げられた全土の地図を眺めている。
その背後には、軽鎧に身を包んだ身の丈八尺余りの大男、曹操の護衛役でもある勇壮な顔立ちの壮士、許褚が大薙刀を手に佇立していた。
城外では、頻繁に警護兵が入れ替わり、深夜でも侵入者が立ち入る隙を与えなかった。それは、あたかも戦時下の不夜城だった。
一度、燭台の炎が、けたたましく揺れた。
ふと、曹操が顔を上げると、一室の片隅に人影があった。
青い方衣をまとい、頭に白い藤蔓の冠を載せている。左慈だった。
はっと、その存在に気付いた許褚は、素早い身のこなしで曹操の前に立ちはだかった。
「許褚、大丈夫だ」
曹操は微笑を湛えた。
許褚が元の位置に戻ると、曹操は再び卓上の地図に視線を落とした。
「江東の小覇王、呉の孫策が死んだそうだな」
壁に身を預け、腕組みした左慈が薄ら笑っている。
「うまくやったな、左慈。跡継ぎは弟の孫権だそうだが、しばらく呉は国政に傾注するしかあるまい。念押しに停戦の意を込め、孫権を討虜将軍と会稽太守に封じておいた」
「簡単なものでしたよ」
嬉々として左慈が言った。
「後顧の憂いが減った。これで袁紹と対峙できる」
得物の大薙刀に力が入る。許褚は片時も左慈から眼を逸らさず、その挙動に神経を尖らせていた。
「次の仕事は?」
笑みを携えたまま、壁に身を預けた左慈は、腕組みを解かず曹操に聞いた。
「孫家の九刀剣。手にしたいものだな。なにしろ、呉の鍛冶師たちが挙ってその技術と心血を注いで拵えた業物と聞いた」
左慈から笑みが消えていた。
「方士の于吉が全土へ飛散させたとも聞いている。同業なら探すのも難しくないだろう」
曹操は、左慈に眼を向け微笑んだ。
「そして、もうひとつ」
一度、天井に顔を上げると、再び地図に視線を戻して曹操は続けた。
「荊州の劉表、その動きを止めろ。呉の孫策亡き今、袁紹は俺の背後に位置する劉表に同盟を持ち掛けるはずだ」
「報酬は?」
「報酬?」
曹操は、怪訝な顔を左慈に向けた。
「何を言っている、左慈。報酬は既に与えている」
不敵な笑みを浮かべた曹操は、視線で左慈を射抜くと、言った。
「殺戮の自由を――」
「あはは!」
左慈は上機嫌で拝跪すると、消え入るように姿を消した。
「許褚」
曹操は、深呼吸して呼び掛けた。
「はっ」
「お前がいてくれてよかった。左慈の奴、隙あらば俺を殺す気でいる」
「何ですと――⁉」
許褚の声が荒げた。
「気付いていたかい? 天井裏に探者がいたのを」
はっと、許褚は天井を睨むと、一瞬で顔面は蒼白になり、冷たい汗が噴き出していた。
「許褚はかわいいな」
天井を見上げて、曹操は呵々と大笑した。
「それが人の反応だ。だが、左慈にはそれができない。人の非業な死を愉悦に変えるような奴に、そんな高尚な反応できる訳がない」
曹操は振り返ると、許褚に冴えた眼差しを向けた。
「だから、飼っている。どんな類の者でさえ、飲み込んで使いこなしてこそ天下の主」
曹操は破顔した。
「さあ、やろうか、許褚。決戦の地は官渡だ。すぐに郭嘉、荀彧、荀攸、程昱、賈詡、劉曄を呼んでくれ」
曹操は配下の謀士たちに、緊急招集を命じた。