天に日輪
西暦二〇〇年十月――。
兗州の烏巣にある幕舎には、多くの兵が忙しなく出入りしていた。
その一室では、軽鎧に身を包んだ許褚が、大薙刀を手に佇立している。
ふと、曹操が書簡から顔を上げると、再び視線を落とした。
「成果は半々と言ったところか。それにしても、一段と男前が上がった」
青い方衣を纏い、頭に白い藤蔓の冠を載せていた。端整な顔立ちの左目を、黒の眼帯が覆っている。
曹操は、眼前に端座する左慈に微笑を見せた。
「諦めた訳ではありませんよ」
嬉々として左慈が言った。
「初めて見る顔だな。弟子でも取ったか?」
曹操は、左慈の隣で静かに端座している者へ視線を移した。
こくりと頷いた左慈は、柔らかい笑みを携え、右の手の平を隣の者へ差し出した。
青い方衣を纏っている。齢は強仕の頃で、筋骨隆々の壮健な丈夫だった。
「方術の才と、武略の才を併せ持つ者でございます」
許褚の躰が、ぴくりと動いたようだった。
「名は、葛玄――」
葛玄は、慇懃な態度で頭を垂れた。
それからというもの――。
左慈と葛玄は死んだ。そう思う者は、誰もいなかった。
眼を覚ました瞿恭は、若い于吉に許しを請うと、賊徒から足を洗い、再び于吉を師と仰ぎ、共に旅をすることにした。
文聘は、義勇兵と残った賊徒を引き連れ、鄷玖の里へ戻った。己の進退に何か考えがあるようだった。姚光には、自分のやり方で葛玄を探し出すと伝えていた。
鄷玖は、里に受け入れた賊徒たちを再教育することに奔走した。どれも、根は正直だったが、時代が作った弱者だった。鄷玖は、我が子のように愛を与えた。
阿亮は、その足で故郷の荊州は隆中へ戻った。別れ際、介象と元緒に感謝の辞を述べると、姚光を激励していた。
蘇飛は重症だったが、命に別状はなかった。回復するや否や、都督(軍司令官)に任命されていた。副は代わらず鄧龍と陳就だった。
黄祖は、劉表からの咎めはなかったが、以前のような覇気は消え失せ、記憶が覚束なくなっていた。近習の黄射と潘濬が、片時も離れることなく取り持っていた。
甘寧は、生きていた。
介象が放った玄武により、元の躰に戻っていた。以来、思慮深くなった。半分ほどになった錦帆賊を束ね、世に出る機会を窺っている。
そして――。
丹徒の船着場で、先登から降りたのは、四人だった。五花と栗毛の駒、そして、白翊を伴っていた。
曲阿に向かった一同は、呉の領主である孫権と、宿将の程普と韓当に迎えられた。
介象が孫権に返還したのは、青冥、白虹、辟邪、流星――の四剣だった。孫権が所持している百錬の刀を含めると、二刀二剣が未発見だった。
孫権は、介象から四振を丁重に受け取ると、視線を隣の者へ向けた。
「弟子まで探し出すよう依頼してはおりませぬが……」
孫権の視線の先には、短矛を抱えた美質が佇んでいた。
白い道袍を纏い、長い黒髪を白の緇撮で結っている。
「姚光と申します」
丁寧に頭を垂れた姚光に、孫権は思わずはにかんだ。
すると、程普が笑みを携えた胡綜に耳打ちした。
「太史慈先生が、重篤ですと――⁉」
突如、顔色を変えた胡綜の声が大きくなった。
孫権は、胡綜を見遣った。
「南方の異民族の動きが活発でな。平定に向かった太史慈が負傷した。南方の全てを太史慈ひとりに任せておったのが禍した。後任に相応しい者もおらぬ」
胡綜は渋面を晒して瞑目すると、意を決したように刮目した。
「私が参ります」
「何と――⁉」
「これは、幸いじゃが……」
程普は仰天の声を上げたが、韓当は孫権と胡綜を見比べるようにした。
「激務となるぞ、胡綜。本当に良いのか?」
胡綜は肯んじると、振り返って言った。
「介象さま、元緒さま、姚光どの、私は此処までです。旅で学んだことを、次は呉のために……」
真摯な眼差しの胡綜は、すっかり男の顔になっていた。
「また会おうよ、胡綜」
姚光は、笑顔を返した。
「好い好い」
介象の肩で、元緒は蓑毛を振った。
微笑を携えた介象は、一度だけ力強く頷いた。
「介象よ、次は何処を目指すかえ?」
元緒が質した。
「私は、何処へでも行くよ」
姚光は、屈盧の矛の柄を肩にぽんと当てた。
介象は、次に向かう方角へ漆黒の襤褸を纏った躰を向けた。
干将と莫邪、眉間尺の剣が収まった鞘が、カチリと音を立てて触れ合った。
「北へ――」
世は、依然として乱れていた。
外へ出れば、天に日輪が輝いている。
澄み渡るような秋空が広がっていた。(了)