打破
方円の陣を敷いた本陣、それを覆う薄い膜が消えた。
辟邪の剣を手にしていた于吉は、頽れるように地へうっ伏していた。全身が汗に塗れ、肩で息をしている。
そこへ――。
負傷兵を襲うが如く、方円の陣の中心に姿を現したのは、剣を手にした計蒙だった。縦横無人に飛び回っては、負傷兵を斬り捨てている。地獄絵図になろうかという刹那だった。
「煩えなあ」
むくりと起き上がった瞿恭の頭には、包帯が巻かれている。寝ぼけたような様子で、はっしと計蒙の後方からその首根っこを掴んだ。
瞿恭は、計蒙の片脇から頭を潜り込ませ、腰を両腕に抱えると、勢いよく後方へ反り投げた。
ズッシーン――っと、脳天から地へ叩き落された計蒙は、薄くなると姿が消えていた。
瞿恭も倒れたままだった。そのまま寝たようだった。
「もしかして、瞿恭――⁉」
うっ伏していた于吉が、頓狂な声を上げていた。
「どうりで、面妖しいと思ったんだよねえ」
方円の陣を敷いた本陣、それに覆い被さる薄い膜が消えるのを見て、左慈が言った。
笠を被り、藜の杖を突いた老夫が、左慈に向かってひょこひょこと歩いている。漆黒の襤褸を纏い、右足が木脚である。
「おお、見付けた、見付けた。此処におったかい」
老夫の元緒は、被った笠を少し上げると、鋭い眼光で左慈を貫いた。
すると――。
元緒の姿は左慈の眼前にあった。暴風のような木脚の蹴りが、左慈の頬を打った。地に倒れ付した左慈の頭上に、藜の細剣を突き降ろした。
左慈は、白虹の剣を鞘より引くと霊気を込めた。
左慈の姿は消えていた。
藜の細剣は、地に突き立っていた。
「わあ、仰天した。誰の仕業かと思ったよ」
元緒の後方で、鐸飛の背に乗った左慈が、白虹の剣を手に宙へ浮いている。
振り返った元緒は、チッと、舌打ちした。
左慈は、怖気が走るような笑みを浮かべると、白い輝きを放つ巨大な白虎を放った。
虚空を蹴り上げ、鋭い牙が老夫の元緒を噛み砕こうと猛襲した。
凶牙が元緒に達するや否や、老夫の姿は消えていた。
代わりに地にいたのは、風に蓑毛を靡かせた神々しい亀だった。
突如、左慈が青白い炎に包まれた。川面で巨大な翼を広げた龍鵬が、左慈の後方から火炎を放っている。
「もう、五月蝿いなあ」
左慈が、鐸飛の上で振り返った刹那だった。
息の合った二つの白い影が、左から胴薙ぎを、右からは袈裟斬りを走らせた。
「――――⁉」
咄嗟に身を捻って刃を躱すと同時に、白虹の剣に霊気を込めた筈だった。
すうっと、鐸飛が消えると、左慈の身は地に投げ出されたようになった。気付けば、青い方衣が斬られている。額から頬を伝って流れてきたのは、血だった。顔を上げると、幾つもの小さな集団が寄せているのが見えた。
白い武装をした里の義勇兵と、賊徒を率いた文聘だった。
騎馬隊の先頭を胡綜が駈けている。
方円の陣からは、騎馬隊を率いた鄧龍と、槍隊を束ねた陳就が打って出てきた。
ゆっくりと歩を寄せてきたのは、漆黒の襤褸を纏っていた。
「……どうして生きている、介象?」
左慈は、驚愕した。
「既に知っておろうが。方士介象は、今昔最強。故に……」
亀の元緒は、左慈へ向き直ると蓑毛を振った。
「……無敵」
介象は、莫邪と干将の剣を抜き放った。
左慈は苦渋に顔を歪めると、突如として哄笑した。中指に人差指を重ね立てた左手を、さっと突き出し念じた。
「我、今此処に黄泉へ向かいし者の全てを呼び戻さん!」
すると――。
地が揺れたようだった。
原野の至るところから、息壌や嗷咽などの妖し、張虎や陳生のみならず、王表、彭翦、李鉄、紡績までもが黄泉から引き返したように姿を現した。
左慈は、近付く介象に北叟笑んだ。
咄嗟に、姚光は屈盧の矛に霊気を伝えると、舞うようにして虚空を斬った。
呼び戻された者たちが、挙って消えていた。
「――――⁉」
左慈は、絶句した。視線をゆっくり動かし、姚光を見定めると、悔し紛れに吠えた。
「やはり、お前が元凶だったか、姚光――‼」
介象が飛ぶような速さで左慈に寄った。
干将の剣が唸りを上げると、白虹の剣を握る左慈の右手を斬り落とした。
それが地に落ちる前に、干将から放たれたのは、朱色に輝く火炎に塗れた数多の雀だった。
原野を光速で飛び回った火炎の雀は、左慈の躰を貫くと、天高い虚空で結集し、巨大な朱雀となった。
「どうりで朱雀と玄武は、召還しても応じなかった訳だ……」
鍔のようにした手を額に当てた本陣の于吉が、上空を見遣って呟いた。
左慈は懐中から蛇の形をした小さな白紙を二枚取り出すと、ふっと息を吹きかけた。
白紙が変じた妖しの化蛇は、尾の先から左慈の両腕に絡み付くと、黄金に輝く光の矢となって、姚光と屈盧の矛へ飛んだ。
化蛇は、姚光と屈盧の矛に幾重にも巻き付くと、左慈の許へと引き寄せられた。
「姚光――⁉」
葛玄が叫んだ。
ドッ――。
一矢が左慈の左眼に突き立った。
その矢は、馬上から放たれていた。
弓主は、胡綜だった。
それにも構わず、左慈は天高く飛翔した。
「ぐ、おおおお――‼」
ズドン――。
急激に重さを増した屈盧の矛が、化蛇を引き裂くようにして地に落ちた。
天空を旋回した朱雀が、左慈を焼き尽くすような巨大な火矢となった。
葛玄は、念じた。
すると――。
左慈の許から姚光の姿は消え失せ、代わりに葛玄が化蛇に絡みつかれていた。
葛玄と入れ替わった姚光は、天を見上げた。
介象も元緒も、胡綜も文聘も、皆、天に眼を向けた。
太陽に重なった左慈を朱雀が貫き、天空で、ぼっと、爆ぜたようだった。
「おっ父――‼」
姚光の声が辺りに響いていた。